第 一章 イノーグ村の巫女騎士イシュタルーナと傭兵ラフポワ
雪を蹴散らし、大山脈の急斜面をかける一人の少女。
二の腕や太腿や胸元には刺青があった。
聖句が装飾的に彫られ、金箔のように輝く。
聖紋の長剣を、真咒が浮き彫られ、鋲を打たれ、聖句を金で象眼をした拵えの鞘に収め、太い革ベルトに留めた鎖に吊るして佩いていた。
二の腕に革のベルトで、小さな楯を留めている。
楯には精緻に彫られた蜥蜴の紋があった。蜥蜴の背に移ろう青い霓の艷は、移ろい易い現象世界の遷移の象徴であり、現象を解析する神官の紋であった。
イノーグ家の紋章である。古き天文占星の家柄で、かつイカルガーノ王国の旧臣、イノーグ村に古く住む氏族であった。
「エミイシの氏族らとその主従、連射式の弩を持った兵隊ども、羚羊に乗った騎兵ども、赦さん、絶対に赦さない、たとえ、死して肉は朽ち、骨は砕けようとも、鬼神となって復讐する」
イノーグは古いしきたりと宗教と伝統を固持する旧家である。鬱蒼たる麓の森に社を隠し匿っていた。神懸かりと審神者によって、啊素羅神群の言葉を預かる。
当主にして族長のヴォーンは古代の厳粛をもって身を荘厳する矍鑠たる古老であるが、謹厳なる彼に逆らう者は古参の旧臣にも少なかった。
しかし、時代とともにその潮流も変化が見られ、ヴォーンは渡来人の末裔である氏族を苦々しく思い始める。
ここ数年、新たな勢力として力を伸ばして来たエミイシ家を嫌悪し、怖れ、蔑視していた。逆にエミイシにとってすれば、イノーグは眼の上の瘤のような存在である。両家は反目し合い、一触即発の状態であった。
イカルガーノ国の王都フジワラの、素朴な木造の王宮にて、エミイシの当主シエミの長男、長髯を尊大に伸ばすソシン・エミイシは王に直訴し、激しく眼を剥く。
「進んだ文化を持った北大陸の超大国、復活した神聖シルヴィエ帝国を範とすべきです。人間中心主義、理性主義、ロゴス主義、実証主義的科学精神、それこそがシルヴィエ聖教の神髄です。彼の国の宗教を取り入れましょう。聖者イヰの教えに従わなければ、先進国とは言えない。通商にも支障を来す。
我が国も、大国の文化や技術を受け入れるために、人を招き、改宗し、進んだ国家制度を真似るべきだ。理性と科学に基づく価値観に切り替えねば。そうしなければ、生き残れない」
古老ヴォーン・イノーグは憤激した。
「愚かな、古来の神を捨てると申すか。若造が何も知らずに狂気を言う。
国家が今日あるは神の力ぞ。真実義のお陰ぞ」
ソシンは嘲り、
「古臭いことを。これからは、科学の時代ぞ。
神に祈って雨が降ったか。神に祈って死者が甦ったか。病すら平癒しない。
天文占星奇門遁甲は詐欺師の集団だ」
ヴォーンは絶句した。神への冒瀆。さような言葉が言えるはずがない、許されるはずがない。犯してはならない領域を犯した。そして、自らの家が侮辱されたことに気がつくまでは、二秒ほどかかった。
「ううぬ、何を言うか、貴様、恐れ多いことを、我が一族を侮辱するだけならまだしも、天罰が在らん。いや、神の名において成敗してくれるわ」
そして、憤然と帰ると、イノーグ村までの二十キロメートルほどの距離を古くからの友である大鷲の背に乗り、数分で帰り、伝統の剣を取って、祈祷し、一族郎党に武装を命じた。
「戦じゃ」
たちまち、恩顧兵が集い、酒が振舞われる。翌朝には、出陣の用意が万事整うはずであった。しかし、古来の習を護ることは不利へと繋がる。
実践主義の敵の動きの方が遙かに早かった。
ソシンはフジワラからイルカまでの十数キロメートルを翼ある龍で戻り、予め重装機甲兵を用意していた弟マハルコに命じ、イノーグを襲撃させる。
この様子を見ている者たちが多数いた。
一に、ソシンが依頼した應龍(翼ある龍)の一族が属する龍族。彼らはソシンに与した。ちなみに、龍族一般の睿知は龍智と呼ばれ、人間を遙かに凌ぐ神の叡知である。
二に、飛ぶ種族であるガルーダ(迦楼羅天)の一族。彼らも龍族に近い叡智がある。
三に、翼ある亜人族、大鷲族である。進化の過程で鳥のごとく翼を得た人間で、知恵は人と同じ、イノーグ族とは古来親交があった。
又、一部の夜行性の半獣半人や半獣神や巨人族が見ていた。他にも、オークやドワーフやゴブリンやエルフやドワーフの類が見ていたが、彼らは人の愚行を嘲るのみである。
大鷲族の将軍ツルゲーノフは斥候の知らせを受けて、状況を把握、察知するや、直ちに旧友へ告げに翔び立つも、既に遅し、間に合わなかった。恐るべき業火、哀れ、ヴォーン・イノーグとともに、その妻、ユグドー村から嫁いできたユレイアーナも、一度は運命に翻弄され、失いかけて辛くも保った命儚く、このイノーグ村でようやくつかんだ幸せではあったが、二十年にも足らず、非業の死を遂げる。
夜の奇襲によって、イノーグ村は壊滅した。
雪を蹴散らして疾駈するヴォーンの娘イシュタルーナは息を切らせ、意識が遠のきそうになりながらも、まっすぐな黒髪を流旗のように靡かせている。
彼女は神に仕える少女騎士、巫女騎士であった。村が焼かれ、魂が裂かれ、猛吹雪の漆黒の中を、ここまで疾駈して来たのは、死を免れるためではなく、凌辱を逃れるためである。
家族を殺され、生きる望みを絶たれた彼女は死を覚悟していた。聖なる地の聖なる岩に、究竟の命を散らし、生の証とせんとする、悲愴で激烈な決意である。ただひたすらその執念で生き、鬼神のごとく、半ば魂魄と化していた。凄まじい執著で、どうにかここまで辿り着く。
だが、そんな彼女でさえ、眼前に突如現れた女神降臨の、驚天動地の奇蹟に遭って驚愕した。
「あ、あゝ」
天降りし光の柱は降臨が済んでもまだ天と繋がり続けている。そこに炎のごとく立つ、この世ならぬ少女。哀れな虫けらでも見るかのように、こちらを睥睨している。
いゐりゃぬ神の降臨、これほどあからさまに、これほど明瞭に、顕かに神を見たことがなかった。彼女たちの世界において、神とは、暗い岩屋か、枝や草を葺いた竪穴式家屋の奥に微かに顕れるものである。
「これは、いゐりゃぬ神、あゝ、間違いない、この神は」
すぐにわかった。
天文占星を学び、真理と聖なる系譜に通じた彼女には、それがアスラの一種族であるアサライ族の長の分け御霊であることを、論理の系譜を超え、直観のごとくに悟ったのである。
感情があふれた。爆発し、暴風雪もかき消し得ない、絶叫に近い叫びで訴える、滂沱の涙とともに、
「いゐりゃぬ神よ、救い給え、正義の裁きを」
少女神は冷たく笑った。苦悩する者の悲痛な叫びなど聞かず、全身の太陽のごとき燦めきを鎮め、雪の闇に消えるかのごとく沈む。華奢な容姿に似合わぬ厳かな声、
「汝、朕に仕えよ」
「しかし、この命は敵に追われ、今や尽きようとしています」
「さような事情など知らぬ」
いゐりゃぬ神が知らぬはずはない。扱うべき必要もないと言っているのである。
その冷厳たる言葉と同時に、近くに追手の喚く声が聞こえた。真夜中の猛吹雪の中であっても見える、微かな雪の光を反射し、ギラギラ光る刃が十数。又、風にちぎれそうな松明の火が数本、弓や槍や大剣を明々と照らしていた。
イシュタルーナはきつとにらみ振り向き、眼の焔をかっと熾やして、ギラリとねめつけ、金の刺青を滾らせ、憤りと憎しみの炎を噴き上げさせた。
「地獄の犬どもめ」
野蛮で粗野な革鎧の騎兵たち、傭兵である。雪の積った岩の上を、自在に走る大羚羊に乗っていた。
こちらを指さし、
「あれだ、あそこだ」
そう口々に雄叫びながら、エミイシに雇われた傭兵たち、殺戮をあふれ滾らせ、登り迫って来る。だが、その時であった。
いゐりゃぬ神の眸だけがギラリと光る。
一瞬、強烈な日が昇ったかのようであった。だが、それはすぐに、篝火ほどの明るさになった。それでも、傭兵たちの革鎧や衣に光の残滓が粒となって附着しているが。
「おい、何だ、これは」
「見たこともない、どうなってるんだ、おい」
「いや、それよりも、あれを見ろ」
「え、何だ?」
「何がある? 何もない」
「いやいや、待て、あっちだ。ほら、見ろ」
「おお、女だ」
「あんな所にいやがった、巫女騎士め」
「手こずらせやがって」
「おい、待てよ」
「あ、あれは何だ、あの光は」
その男は斜面の百数十メートル上、いゐりゃぬ神がいるあたりを指さす。その瞬間、鎮まっていたいゐりゃぬ神の全身の光が再び激しく燃え上がる。
「うわ、わあああああ」
「眩しい、何も見えない」
「いや、あの光の中、微かに薄い影が。何かいる……」
傭兵の誰もが羚羊を止めた。
イシュタルーナは一人でも多く殺さんと、見事な聖紋の長剣を抜き、楯の蜥蜴をちらちらと揺れる炎のように光移ろわせ、悲愴の死を覚悟し、瞑目しつつ、聖咒を唱える。金の聖句の刺青が螺鈿のように複雑な燐光で、凛々と燃えた。
「龍のごとく肯んじ給う、真究竟の真実義よ、すべてを網羅し給う、真究竟の真実義よ、若くこそしあれ」
この時、突如、半跏趺坐に坐していた女神が動いた。降臨した時のように、再び石の上に立つ。
「おお、何と」
羚羊に乗る傭兵たちは初めて気がついた。激しく燦めきながら動く光の輪の中に、殊更に濃く烑く輪郭を以て立つ、いゐりゃぬ神の存在に。
「おい、見よ、石の上の凄い光の中を、人の形をした何かが、あれは」
「太陽が落ちたみたいだあ」
「そうだとも、神だ、そうだ、違いない」
「何だと、何ゆえに神が、奴が召喚したのか」
「ええい、狼狽えるな」
「ならば、おまえ、往け」
「ふざけるな、何事も命あっての物種よ」
イシュタルーナは蜥蜴の紋の楯を構え、聖紋の長剣を抜いた。
いゐりゃぬ神がちらっとまなざしを遣っただけで剣はパッと火が点いたかのように、光燦々と輝く。
「見ろ、女の剣が燃えている」
「神だ、俺はごめんだぜ」
「バカ、逃げるな」
しかし、一人が行けば、次々逃げ崩れていくのは人の性だ。
「ぅうわあああ」
恐怖に駈られ、一目散に逃げ出した。
「卑怯者、逃げるか」
飛ぶように襲い掛かる。たちまち斬殺、十数名。
さらに追おうとすれば、
「待て、巫女騎士よ、朕に仕えよ」
「しかし、いゐりゃぬ神よ」
「逆らうなかれ」
その言葉に巫女騎士は長い髪を垂れて項垂れ、
「言うまでもないこと」
イシュタルーナは跪いた。巫女騎士は知らなかったが、逃げた果せたと思われた兵二名は、数百メートルも逝くことなく、力尽きて死し、吹雪に深く埋もれて、数年後にも見つかることがなかった。知らぬイシュタルーナは無念であったが、気持ちを変え、私情に走ったこと(人としては、已むに已まれぬ感情ではあるが)を大いに悔悟し、感謝を奮い起こし(そうすることが正しいと彼女が信じたから)、
「申し訳ありません。あゝ、いゐりゃぬ神よ、感謝いたします」
その時、ほんの一刹那、吹雪が止み、静かな光が彼女に降りた。崇高な感情が湧き上がり、清らかな解脱を観ずる。いゐりゃぬ神の表情は相変わらず冷厳で、非情なままではあったが。底知れぬ凍てつきの、深淵のごとき冷厳。
だが、彼女の受けた寂滅為楽の横溢は、いゐりゃぬ神の氷のごときまなざしを受けても、妨げられることもなく、イシュタルーナは萎縮することも畏怖することも憂慮することもせずに、顕かなる祝福を感じた。大いなる恩寵が漲る生命となって体を廻る。
「あゝ、何という、このような閑寂なる陶酔、清明にして清爽なる歓喜、想ってもみなかった。舌が縺れるとはこのことか、言葉では言えない」
いゐりゃぬ神に報いねば。
イシュタルーナは暴風雪もものともせず、捧げものを探した。自分のための食糧よりも、水よりも、それが先に心を衝き動かす。
すぐ傍の、針葉樹の香り高い濃い緑の葉を取り、又雪に埋もれた木の洞を探ってその奥に、幾種類もの木の実があることを発見し、諸手で掬い、捧げ祀った。靴を脱いで跪き、聖なる咒を唱えて、祈祷する。
いゐりゃぬ神は何の意も表さず、冷厳な無表情のままであったが、
「おまえの生命を維持せよ。そのため、その木の実は保存せよ。リスが集めし木の実を、いゐりゃぬ神がおまえに授けて賜るものなり。受けよ。いゐりゃぬ神がおまえに賜る最初の糧なり」
イシュタルーナはおのれ独りの無力を悟った。
「あゝ、いゐりゃぬ神を祀り、護るに、妾の力だけでは足りない」
彼女は自らの生命維持をも忘れ、そう思う。寒さに凍える手で、再び祈った。
ふと近くに人間が蹲っていることに気がつく。頭を抱えて、雪に伏し、震えているのは、苛烈な吹雪のせいばかりではなかった。いゐりゃぬ神を前に畏怖している。慄いていた。
「おまえは誰だ」
むろん、敵の歩兵でしかあり得ない。しかし、見るからに幼い少年であった。イシュタルーナは十四歳であったが、彼女よりも幼そうであった。
「顔を上げろ、上げねば殺すぞ」
「ひぇえ」
少年は一度、縮こまってから、恐る恐る顔を上げる。
「傭兵だな。傭兵団がいずこかの村を襲った時に攫われ、無理矢理に傭兵にされた少年兵だな。同情に値する。妾は、おまえを救おう。名は」
「ら、らふ、ラフポ……ワ」
弱虫の傭兵、ラフポワである。声が風にちぎれる。
イシュタルーナは決然と言った。吹雪でも、その声は高らかな鐘のように、
「よし、おまえにいゐりゃぬ神の守護を命ず。今からいゐりゃぬ神を守護せよ、神将である」
鎧もない少年兵は驚いて、眼を丸くした。
「無理だよ、将なんて、しかも神将? とんでもない。鎧もないのに。そもそも、僕は闘えないよ」
楯などなく、剣は錆びて、木製の鞘から抜くのも一苦労だ。だが、巫女騎士は意に介さなかった。
「いゐりゃぬ神の加護がある」
「そんな……むちゃな」
ラフポワは最初の守護者となった。ここで天から聖なる光でも降りてくれば、さもそれらしいのだが、さようなものはなく、ただ、非情なイシュタルーナの言葉が在るだけであった。命ず。
「いゐりゃぬ神を風雪に晒すな。
神を尊べ。祈りは神に捧げる聖なる行為だ。この無空の世の中で、神を崇めずば、すべては崩れ去ってしまう。
諸考概も愛も言葉も虚しい、どうしてそれを押し留められようか。
正義も真実も実体として実在しながらも、無空だ。つまり、実体があること、実在であることが無空と同義なのだ。
このような無際限な無空のさなかで、棹を差すのは、ただ祈りでしかない。神を尊べ。神を崇めずば、すべてが消え去ってしまう。
もう一度言う、いゐりゃぬ神を風に晒すな」
「でも、あなた、えーと」
「イシュタルーナだ」
「イシュタルーナ? じゃ、イシュタルーナ、言うけどさ、ここには何もないよ。
風を遮りたくても、そういう材料が見当たらないよ。そりゃーさあ、神様じゃなくったって、風を遮るものは欲しいよ。僕だって欲しい。けど、ないよ。雪しかないよ。何もないよ」
「雪が在る。
おまえは雪を見たこともないのか。どこの国の生まれだ、そんなにも、遠くから連れられた訳でもあるまい」
「モ、モンタの村だよ、ここからは遠いけど、雪を見たことがない訳でもなくもないけれども」
「ふむ、モンタか。なるほど、雪は少ない場所だが、降らぬ土地でもない。愚か者よ、ただ、愚かなだけか。
考えよ。答はとても簡単だ。
思いつかぬのは、よく気をつけていないからだ。はっきり言おう、よく気をつけよ、と。逝にしへの聖者も言う、気をつけよ、と。
日々の業に気をつけよ、言葉や所作に気をつけよ、こころの機らきに気をつけよ。よく気をつけて生きよ。
いつでも洞察し、解析し、吟味し、創意工夫せよ」
「はい……」
「つまり、答は雪だ、雪を積めばよかろう」
「えー、道具がないよ、凄い風だよ、声もよく聞こえない」
「つべこべ言うな。手がある。厚い手袋もしてるようだが」
「手袋って、見掛けだけだよ、これじゃ、すぐにグシャグシャになって、凍って、指が凍傷になっちゃうよ」
「ふうむ。凍傷のことは知っているんだな」
「そりゃあ……知ってるさあ。知っているに決まっているさ。そんな眼で見ないでよ、ええー、そんなあ。
……あーあゝ、わかったよ。うん、仕方ないよね」
諦めに慣れた顔だった。諦めが張りついている。
だが、不思議なことに、作業中は手袋が凍ることはなかった。
最初の御社は雪の〝祠〟である。
と言っても、周囲に雪を積んで、環状に囲み、出入りのため、南向きの正面を七十センチの幅に開けただけのものである。正確に言えば、雪の壁、又は雪の塀である。それを敢えて〝祠〟と見做して、そう呼ぶに過ぎない。
直径四メートル弱、高さは一メートル超。ただし、屋根はない。いゐりゃぬ神が石の上に立ったままでいると、腿のつけ根の十センチメートル下のところまでしか届いていなかった。
「仔細ない」
いゐりゃぬ神は坐す。
神座する石の直径は一メートルくらい。高さは四〇センチくらい、雪の壁と石との間は一メートルのスペースが生じていた。イシュタルーナとラフポワはそこに跪くも、狭いし、何よりもとても雪が冷たい。
「ダメだよ、凍えちゃうよ、もう指も動かないし」
耐えられなかった。
イシュタルーナは眉を顰めて考え込んだ。いゐりゃぬ神のためには私情、生命、身体は犠牲にすべきだが。ラフポワがなおも訴える。
「黙ってないで、イシュタルーナ。これじゃ、外にいるのと変わらないよ」
とは言え、直接、体に当たる風が減っただけでも、暖かさを感じる。血の気が幽かに甦る気すらした。気のせいかというくらいに幽かではあったが。しかし、感じられるならば、それがリアリティだ。
「心臓まで凍てつきそうだよぉ」
ラフポワは哭いていたが、イシュタルーナは容赦ない。
「大袈裟な。
さあ、さような私情に浸る余裕はない」
「私情、って、そんな……。なぜなの、何のために、そんなに仮借ないの」
「問うな。言葉は虚しい。
いゐりゃぬ神を供養せねばならない。贄を捧げ、威儀を糺し、聖咒を唱え、祈祷し、礼拝しなければならない。行動が言語だ」
「そんな状況じゃないよ。そもそも、神官の仕事じゃないの」
「民も祈るだろう、違うか」
「余裕のある人だよ。僕はない。凍えて死にそうだよ」
気がつき思い出す。ゐりゃぬ神が生命を維持せよと言った意味を。言説を超えて実存的、実在的に実証されるその深き神慮を。
生命の意義を考え、事実を神の言葉として鑑み、深慮の末、彼女にとっては苦渋でもある決断をした。
「わかった。
すぐそこに洞窟がある。そっちの方がここよりは、いくらかましであろう」
「最初からそこへ行こうよ、早く言ってよ」
「そんなものではない。そういうものではない。これでも、苦渋の決断だ。わからないか、愚衆め」
「わかったよ、だから、行こう、どっち?」
「縁なき衆生は度し難し、とは、このことか」
二人は洞窟に向かった。わずか二、三十メートル。それしか離れてなかった。それでも、吹雪は容赦なく、頬は感覚なくも、痛い。ラフポワは腰まで埋まる。イシュタルーナは膝まで。
昏い中に入った。
直観的にイシュタルーナは気がついた。
「とても、深い……」
どこまでも続いているように感じた。途轍もなく奥の奥まで、細長い、あたかも延び続く深淵、のように思えた。
眼が窟闇に慣れると、
「これは何」
素焼きの土の壺だった。元は乾いた暖かみのある風合いの、明るい茶系の色だったであろう。今は凍りついて冷たい。
「何か入っている」
イシュタルーナは手で探る。
「こ、これは」
「何」
パピルスだった。巻いてある。広げた。
「なぜ、こんなところに、こんなものが。ここは東大陸の末端。パピルスの原料となる植物が自生するのは、南大陸。遥か海の向こうだ」
イシュタルーナは思い出す。
かつて、南大陸の最古王国コプトエジャで宗教改革が起こった時、迫害を逃れた人たちが龍角島に辿り着いたことがある、と。
だが、ここはイシュクンディナヴィア半島の中央、直線距離で言っても、数十キロメートル離れているし、急峻な山奥である。
ここまで来たという記録はなかった。
改めて、しみじみと眺める。
神聖文字。古代のもので、イシュタルーナも読めなかったが、大文字のものが聖なる天の皇帝神の御名であることが予測できた。古来、こういう類の形式には普遍的なものがある。人間の深奥に、先天的に備わっている本来的なものなのであろうと、イシュタルーナは常々思っていた。
そして、いくつかの神聖文字は聖句であろう、そう考える。
図もあった。
描かれているのは、原蛇の図。角を持った蛇が環を成し、自らの尾を咬んでいた。その円環の中心には、崇高の極み、きよらかにあきらかなる、尊き、至高至聖の、聖の聖なる上にも神聖なる御徴があった。それは、太い縦棒に見えたが、聖なる蛇の象形文字であった。
畏敬と神聖なる恍惚の表情を泛べ、イシュタルーナは吐息のようにつぶやく。
「あゝ、これは。この原蛇の図の真中にある、この記号は」
「何なの」
「聖の聖なる真聖の『彝』の御徴だ。なぜ、こんなところに」
「聞いたことがあるよ。
天の皇帝神たる神彝ヰ啊ゑえ烏乎甕の真の真奥たる真髄、肯綮、すべてを網羅して遺漏のない真究竟真実義。龍のごとき肯定」
「意外に学があるな。その歳で傭兵とされては、学問の暇も、学校に行く機会もなかったと思われるが」
「でも、勉強は好きだったよ。傭兵じゃなかったら、勉強する時間があったのにな。あゝ、残念だったな」
そう言って、ラフポワは錆びた短剣をいじった。少女はじっと見る。不憫ではあった。しかし、この世は誤謬と矛盾だらけではないか。どうすることもできないことばかりだ。眼を伏せることしかできない。自分の魂を護るために、だ。そうしなければ、結局、すべてが滅ぶ。
「運命だな。
さあ、ラフポワ、この素焼きの壺は聖なる壺と呼ぶべきものだ。大事に保管しよう。今はここに置くしかないが」
少年は訊く。
「ねえ、イシュタルーナ、蛇はどういう意味」
巫女騎士が厳かに言う、
「自らの尾を咬む原蛇の意味とは、『喰らう蛇は喰らわれるがゆえに喰らえず、喰らわれる蛇は喰らわれぬがゆえに喰らえる(又は喰らう)』だ。わかるか」
「わからないよ。ねえ、お腹が空いた」
「そのとおり。正解だ。
さあ、行動しよう。いゐりゃぬ神が供物を命じているのだ」
見つからない。逆に、いゐりゃぬ神から拝領した最初の糧である木の実を齧って凌ぐしかない日々。