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春鬱

作者: 神田或人



うつらうつら、鬱々と。

私の心はまだ、ずぶずぶと泥の中に沈んでいるのです。

冬眠から醒めたくないと。

まだ、ここに居たいと。


春の訪れのなんと速いことか。

春の日差しの、なんと眩しいことか。


世界を明るく照らす春に、山も、木々も、花も、人々の服装も、表情も、ガラッと色を変える。


ぬるい風が頬を撫で、私はその気色悪さに、足早に帰路につき、息を切らせて家に飛び帰り、部屋に入って布団を被る有様です。


病を患っていました。長いこと。

心の病です。

枕元にはいつも錠剤の入った瓶がいくつも並び、水差しとコップがきちんと並べられています。


鬱々と濁る心は、4月が近づけば近づくほど、酷くなっていきます。

私の生誕月が4月だから、というわけでは決してありません。

父と、母の命日が3月だから、それから調子を崩しているわけでもありません。


私という人間は、春には春鬱になり、夏は少しマシだけれど、秋と冬にはまた鬱を患うのです。


変化を嫌うから、なのかもしれませんが、春の鬱は本当に酷い。

もう二週間、夜中に過呼吸とパニック発作を起こして、家の中をぐちゃぐちゃにしてしまいました。

床に転がった服は破られ、皿は割られ、粉々になり、なのに枕元、薬と水差しとコップだけは整然と並んでいるのだから、狂人のすることは本当に理解しがたいものです。


そんな私ですが、きっと、4月になれば、人が変わったように陽気になるのでしょう。

粋な着物を新調し、きゅっと帯を締め、ぼさぼさの髪も散髪し、鏡に向かって、『うん。悪くない。なかなかに立派な男ではないか』などとうぬぼれ、春鬱にかかってすっかりしょげて、布団を被っていたことなどさっぱり忘れて、馴染みのカフェに珈琲でも飲みに行くのでしょう。そして気に入りの女給に、軽口でも叩くに違いないのです。


ああ、なんと恐ろしい!

軽薄極まりない!

だらしない、軟派男。


春鬱を、もう忘れたか!


そう絶望する未来が、私にはよくよく予想できていました。


私が憂うこと。苦しむこと。恐れること。

狂気にさえ侵されていたこと。


その全てをまるで別人のように忘れる己という男の軽薄さに、異常さに、私はほとほと絶望していました。


ならいっそ、今この時に、自分を終わらせてしまおうか。

自死。

その単語が頭をよぎります。


枕元にあるこの薬を、全部飲んだら?

多分300錠くらいは、ある。


体の芯が冷えていくのを感じながら、私は畳の上の瓶に、手をのばしました。


ああ、どうして今まで、思いつかなかったのだろう。

軽薄な男になって、恥をさらすくらいなら、いっそ死んでしまえばよかったのだ。


考えてみれば、私という男には、何故だか不幸が付きまとい、周りは死の匂いで充満し、窒息しそうに苦しい日々を送ってきたのです。


何を恨んで、何を憎んでいいのかわかりませんでした。

ただ、自分を責めて、生きてきました。


何故責めているのかもわからずに。


錠剤を口に運んで、ぼりぼりと食べて、飲み下し。

一時間くらいそうして、段々意識が遠のいてきました。


これで、私はやっと天に召されるのです。


最後に、一度も使ったことのない言葉が、頭に浮かびました。

そっと、恐る恐る、声にしました。


≪愛している。愛してくれて、ありがとう≫


誰にも愛されたことのない私の、最後の言葉が、そんなものだとは。


滑稽です。全くもって滑稽です。

笑みの形に口元を動かしたつもりですが、果たして成功していたかは、定かではありません。


もう、薬が効いていました。

視界がぐらぐらしました。

布団にくるまり、少し汗ばんで。

気持ちだけは冷え冷えと。

私は冬眠、いえ、永眠します。


誕生日を数日後に控えた、別になんということもない、普通の日でした。


別れを告げる相手もいないことに、逆に安堵して。

私は眠ります。

それはそれは、幸せな、静かな眠りであることでしょう。


目を閉じれば、暗黒。


もう、誰も私を起こすものはいません。

二度と、軽薄な男になることも。


薄明かりが、カーテンに隙間から射して、そこにも、春。

カラン、水差しの中の氷が、涼やかに音を立て、春を伏せてくれたのでした。










「やぁ!良い日だ!」


私は新調した紺色から水色にグラデーションされたハイカラな着物を着て、鏡の前に立ちました。


「うむ、悪くない。なかなかにいい男だ」


自惚れを、疑いもせずに。


「しかしこう日差しが強いと、春というより夏だな。どれどれ、カンカン帽など、被っていこう」


洒落た服装に、人々が目を細めて振り返るのを想像して、口の端が思わずあがります。


外に出ると、咽ぶような桜。桜。桜。


「春は良い」


にこり、笑って、死に損なった男は。

カフェへと浮足立ってむかったのでした。



END




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