番外編 シルヴァン
この国の唯一の後継者。シルヴァン王太子殿下。
聡明だが大人しく穏やかで、いつも笑顔を振り撒く、思いやりの塊のような男の子。
幼い頃からそう言われて、それが真実であると誰が信じているのだろう。
「我が娘が、ご挨拶を」
「この子はとても賢いんですよ。殿下」
近付いてくる者たちはいつも同じ。笑顔の中に別の顔を隠している。
大人たちの薄汚い心が見えるようだ。どうやって懐柔するか、いつも隙を探っている。
娘たちは言われた通り、笑顔を向けて媚を売る。幼いながらこちらの歓心を買おうとする様は、さすが貴族と言ったところか。
あちらもこちらも、真実なんて分からない。
「気に入ったお嬢さんはいたか?」
「父上。気持ちの悪いやつらばかりです」
常にこちらに何かを望むような目を向けてくるのは、気分が悪いとしか言いようがない。
父上は軽く片方の唇を上げる。少しだけ馬鹿にしたような笑い方に、どうにもムッとする心を抑えられない。
「顔に出すな。シルヴァン。お前は王太子であり第一継承権を持つ者だ。簡単に考えを読まれてはならない。奴らが望むのはお前の背景であってお前自身ではないことをよく肝に銘じろ。お前自身に価値を見ているのではなく、将来のお前の身分に価値を見出している。その肩書きを背負ったまま、どう振る舞うかはお前自身に掛かっている」
父上の言葉は子供の自分には難しく、しかし何となくでも心に残った。
「シルヴァン。お母さまのお友達ロマーヌよ。それと、フェリシテとリリアーヌ、それからユベール」
母上は三人の子供を連れた女性を自分に紹介した。フェリシテは私より年が上で、身長も高かった。リリアーヌは弟のユベールの手を握ったままこちらを見上げた。
「あの二人も私の婚約候補ですか?」
「あら、そうしたいの? ロマーヌは私の友人だから、彼女が望まなければそんなこと言わないわ。王太子の相手と言うのは、彼らにとって負担となることがあるのよ」
「私の相手は、負担になると言うことですか」
「そうよ。あなたは将来の王となる子ですもの。だから、それを覚悟した人を選ばないとならないわ。そうでないと務まらないのよ」
「私が望んだらどうするんですか?」
「あなたが望むのならば、相手に納得してもらわないとならないわね」
「選んでも良いのですか?」
「あなたがお父さまを説得できるのならば」
父上は私の婚約者を決めるため、何度かお茶会を開いて女の子を持つ親を呼んだ。その中に彼らがいなかったのはそういう理由か。
彼らは私の背景にある地位には興味がなく、その舞台に娘を立たせる気がない。
だからか、リリアーヌは私に挨拶をしても、弟のユベールを構っては母親とフェリシテを交互に見ていた。
(まだ幼いからな。分かっていないのかもしれないけれど)
「あら、リリアーヌはどこかしら」
「先ほどぬいぐるみで遊んでいましたが」
フェリシテは大人しくソファーに座っていたが、さっきまでカーテンの後ろで隠れてユベールと遊んでいたリリアーヌの姿がない。ユベールはそこで眠っていて、ぬいぐるみと一緒に寝転んでいた。
カーテンの後ろで大人しくしていると思ったら、どこかへ抜け出したようだ。大人たちは一斉に探しに回る。
「シルヴァン、あなたは勉強に戻りなさい」
母上にそう言われて、私は挨拶をして部屋を出た。部屋の扉は何度か開け閉めしたが、出ていけばさすがに気付くだろう。ベランダに出て隣の部屋に入ったのかもしれない。
もしも婚約目当ての女の子たちならば、私から目を離さないだろう。じっとこちらを見て、物珍しげな視線をよこしたり、何か話し掛けてほしそうな顔をする。
時折待ちきれなくて、向こうから質問をしてくることもあった。
婚約をしたら、ずっと同じ時間を過ごすことになるのだろうか。
婚約をしても邪魔にならない人がいい。うるさいのは面倒だから。静かに学べる時間を邪魔されたくない。
書庫にいる時間は好きだ。たまに人が入るので、奥の階段の下で隠れて本を読んでいると静かで落ち着く。人に見付かれば注意を受けるが、人が近付く前に立ち上がり本を探すふりをすればいい。
そんな特等席に、何かがいる。
「すこー。すこー。むにゃ」
口をモゴモゴ動かして、何冊もの本を床に置きその一冊を枕にし、もう一冊を抱き枕にしている子供が爆睡していた。
リリアーヌだ。
「どこから入ったんだ…」
絵本でも集めてきてそのまま眠ってしまったのかと思ったが、散らばっている本は帝王学やら憲法論やら、私も読んだことのない本を集めている。
派手な表紙を持った本を集めてきたようだ。
「だあれ?」
リリアーヌが目元を拭いながら起き上がると、こちらを見遣った。
「王子さま。さっき、つまんなーい顔してた。ふわわあ」
初めて会った時はスカートを摘み、礼儀正しく挨拶をしていたが、リリアーヌは欠伸を隠しもせず、本を抱っこしたままそんなことを言う。
「失礼な子供だな。私は王子だぞ。立ったらどうだ。本を枕にするなんて、本に対する冒涜だ!」
「ぼーとく」
「…悪いことだ」
「悪いこと! ごめんね」
「私に謝っても」
「本に謝ってる」
(何だ、この子供!)
リリアーヌはあろうことか私を無視し、枕にしていた本をなでた。抱えている本は離すまいと抱きしめたままだ。
姉の方は大人しくしていたが、妹は立場もよく理解していないようだ。怒りそうなところを我慢して、ふうっと息を吐いて感情を抑える。
こんな子供に怒っても意味はない。
「本が好きなの?」
私の言葉にリリアーヌはこくこくと頷く。小動物のような動きだ。
「ちゃんと、読めるよ。むずかしいところは、読めないけど」
「お母さまが探していたから、もう戻らないといけないよ」
「やだーっ! ご本読む—————!!」
さっきまで眠っていただろうが。リリアーヌは本を抱きしめたままうずくまり、駄々をこねはじめた。本は絶対離さないとお腹に抱えている。動かそうとしても動かず、腕を引こうにも本を抱いていて引っ張るには難しい。
「はあ。また来ればいいんじゃない」
「来ていいの!?」
いや、駄目だな。子供が王宮の書庫に来るだなんて。それに、女の子では婚約に関係すると思われて面倒だ。
「やっぱり、駄目」
言うとリリアーヌは見る見る泣き顔になって、大きく喚き出した。
「うるさっ」
こんな子供の相手できない。何とか宥めようとしたが、再び床に頭を付けて泣き出した。
(なんて面倒な子供なんだ。女の子はみんなこうなのか?)
「分かった。将来、私の婚約者になれば、入られるよ!」
「こんやくしゃ? って何」
婚約者も分かっていないのか。ならば適当に言っておけばいいだろう。
「あー、私のお嫁さんになるってことだよ」
「ここのご本はお兄ちゃんのなの? それじゃあ、お兄ちゃんのお嫁さんになれば、ここにまた来れる?」
「そうだね。だから、今日は我慢して」
「分かった。リリアーヌがお兄ちゃんのお嫁さんになってあげるね」
リリアーヌはそう言って、大きく笑って私の頬に口付けた。口付けたと言うより、ぶつかってきたと言う方が正しいが。
それは満面の笑顔で、王太子の婚約者となるべく集まってくる女の子たちとはまったく違う、媚びるような笑みではなかった。
「シルヴァン。婚約相手が決まったよ」
父上が決めた婚約者は、クリステル・バルバストル。何人もいた女の子の中で一番しつこく話し掛けてきた、うるさい子供だ。
父上も母上も乗り気なのか、こちらの反応を微笑みながら待っている。少しだけ黙っていると、父上が顎髭をなでて口角を上げて笑った。
「気に食わないか? 周囲の賛成の声が多かった。あとは、バルバストル自体は良い家臣だからな」
父上は含むように言う。自体は良いとなると、他はそうだと思っていないのだ。
「以外はどうなんでしょうか」
「ふむ。将来的には邪魔になるかもしれない。その時はその時だろう。結婚前に何か変わるかもしれないが。さて、今のところはバルバストルの令嬢がお勧めだ」
「では、ブルレック家は?」
「ブルレック家の娘がいいのか?」
なぜその名を出したのか、自分でも分からない。ただ、リリアーヌは覚えていた中でも一番インパクトのある子供だった。
「ブルレック家は婚約の話に興味はないようだったから、婚約者候補として入れていないわ。あの子たちのどちらかが娘になるのならば、私は嬉しいけれど。それに、ブルレック家はそれどころではないのよ。ロマーヌが倒れられてね」
リリアーヌの母親は元々病弱でここのところ調子は良かったが、急に倒れられたそうだ。命に別状はないようだが、三人の子供は幼く、婚約話などを出して心労を増やしたくないというのが母上の意見だった。
「フェリシテとリリアーヌの教育係を探さなければならないんだったわ。前に頼んだ方があまり良くない方だったようなのよ。相談を受けていたのだけれど」
誰がいいだろうか。母上は誰に言うでもなく呟く。
それを横で聞いて、私は少しだけ考えた。
「…では、父上、条件をつけても良いでしょうか」
「条件?」
「母上、そのブルレック家の教育は妃教育ができる者にしてください」
私の言葉に、父上と母上は顔を見合わせる。
「バルバストル令嬢が将来王太子妃に相応しいとあれば何も申しません。ですが、もし相応しくない行動が見受けられましたら、婚約は別の方に」
「それがブルレックの娘だと?」
「リリアーヌは本が好きだと言っていました。将来的にどうなるかは分かりませんが、念の為の補填とお考えください。母上も婚約者候補とお伝えする必要はありません」
「ふむ。ではその条件をのもうか。もしも不適切な行為が目立つようなら、その一人を次点としておこう」
「ありがとうございます」
まだ幼い子供だ。どう成長するかなんて今からでは分からない。だが、バルバストルの娘はどうにも拒否反応があった。だから、逃げ道があればいい。将来的に相応しくないと考えられれば、別の者を選んでも良いと言う考え方を持たせておきたかった。
ただそれだけだ。
「どうして、ご一緒してくれませんの。私は婚約者ですよ!?」
「誕生日会に招待されてもいないのに、なぜ一緒にできるとお思いですか?」
「構わないでしょう! あなたは王太子殿下なのだから!」
婚約が決まってから、クリステルは少しずつ我が儘を言うようになってきていた。
今日はクリステルが招待された誕生会に、私も参加しろとのことである。
招待されたのはクリステルだけ。話を聞くにクリステルもおまけで呼ばれているように思える。王太子の婚約者となった者を無視できないためだろう。
クリステルは人を飾りかのように扱うつもりだ。婚約者である王太子を連れて、鼻を高くしたいに違いない。しつこく頼んでくるので、一体どこの家かと尋ねる。
「ブルレック家ですわ」
そんな一言で招待されていなかった誕生会に行くのも、自分で笑ってしまう。
母上に頼み参加を確認したが、こんなことはこれっきりだ。
「王太子殿下だわ」
「お二人でいらっしゃったのね」
周囲の声に耳を塞ぎ、私は久し振りに会ったリリアーヌの挨拶を受けた。
「おいでいただき、ありがとうございます」
静々とかしずくように挨拶をされ、私は少しだけ身じろいだ。まだ幼い顔をしているが挨拶は美しく姿勢も綺麗で、何より随分と雰囲気が変わった。
それもそうか、あれから何年経ったのだろう。
リリアーヌは少しだけ大人びた顔をして、こちらを真っ直ぐ見ることなく挨拶を終えると、さっさと他の者たちに挨拶に行く。
(私のことを覚えていないのか?)
書庫でのことを思い出し、恥じらう顔でもするのかと思っていたのに、リリアーヌは何も表情に出さぬままだった。
「私の婚約者ですのよ。王宮で過ごすことがどんなことか、皆様には想像できないでしょう?」
隣でクリステルが聞かれてもいないのに私を紹介する。向こうから挨拶に来ているのに、その返し方が何とも滑稽だ。自分のことのように自慢げに話す神経に呆れるしかない。
他の女の子たちも変わらずこちらを同じ視線で見てくる。まるで自分は見せものにでもなった気がした。
クリステルが誕生会を乗っ取るかのごとく中心になって話しているが、今日の主役であるリリアーヌは全く気にしないのか、姉として客に挨拶をするフェリシテに近寄った。
「お姉さま。こちらに」
何をしているのか。招待で訪れた男の子を睨み付ける。自分の客に睨み付けてどうするのか。
どうやら男を牽制しているようだ。男と言ってもまだアカデミーにも入らない子供である。
リリアーヌは姉を取られまいと必死なようだが、フェリシテはその様を見て嬉しそうに笑んでいた。
(フェリシテは分かっていてやってるな…)
幼い頃会った時は静かな子供だと思ったが、随分食えない女に育っているのではないだろうか。年は私より上だが、自分と似ているかもしれない。
そのフェリシテと目が合うと、フェリシテは柔らかく笑んだ。あの余裕の表情が全てを語っている気がする。
「本は読んでいるんですか?」
クリステルが自慢話に花を咲かせている時に、今日の主役はケーキを頬張っていた。それに話し掛けると、リリアーヌはきょとんとした顔を見せる。
やはり自分のことは覚えていないか。それを残念に思うくらいには、リリアーヌのことが気になっていたようだ。
「お姉さまが大好きなんですね」
言うと、リリアーヌはポッと顔を赤らめる。気付かれたことに羞恥する様が可愛らしい。
「お、王太子殿下は、クリステル様の側にいなくてよろしいんですか?」
リリアーヌの問いにふと目を眇めた。他の女の子と同じような目。どこか期待するような顔。この子も王太子である私に媚を売るのだろうか。
「クリステルは楽しそうに話していますから、大丈夫ですよ」
「…そうですか」
すると少しだけ残念そうにして、再びフェリシテに目を向ける。リリアーヌは私に断りを入れると、すぐにフェリシテの方へ走り寄りその腕を取った。
私のことなど、何も気にしていない。話し掛けられて面倒に思っただけ。私と長く話そうともしない。
(私との約束も、覚えていない…)
期待していたのは自分の方だ。そのことに、今更気付いた。
「母上。ブルレック家にやらせた教育係のことですが。引き続きお願いします」
「あらまあ。珍しいお願いね」
王宮に戻り、私は母上にお願いをした。
意地なのか分からない。ただ、クリステルとは比べ物にならないほど、リリアーヌが気になっていたのだ。




