妃教育
最初の説明でどれだけのことを行うかを聞いただけで目が回ったが、いざ教えをいただくと意外とこんなものかと思えるもので、拍子抜けしてしまった。
「家での教育と変わらないような気がするわ…。王妃の妃教育をされていた方に教えていただいたからかしら」
それとも初日だから軽めなのかもしれない。まるで復習のような学びに、私は余力を残してシルヴァン殿下にお会いできるとホッと安堵する。
王宮の慣習や祭祀、儀礼は子供の頃学んだ。大人になれば侍女として働くことがあるかもしれないからと教えられたものが妃教育として役立つとは思いもしない。憲法や歴史などの科目は自分が覚えている範囲以上教えられるかもしれないので、先に復習していた方が良いだろうか。
礼儀作法は復習のための特別講義があり、ダンスは更にレベルを上げなければならない。他国との対話で必要な語学は学び直しが必須だろう。
すんなりと終わるとは思えないが、シルヴァン殿下の言う通り余力が残せるくらいにこなせればいいのだが。
「まだ、婚約者の実感はないけれど…」
熱心に誘っていただいたことで流されるように婚約となってしまったけれど、シルヴァン殿下の言い分では、私を気に入ってくださっているわけである。
好きな人と一緒になれれば嬉しい。考えたことはなかったが、そうであればどれほど良いだろう。
シルヴァン殿下は何度も私にアプローチをしていたわけだが、それに全く気付かなかった私は、シルヴァン殿下を想ってはならないと心を引き締めていたところがある。
(フェリシテお姉さまのお相手を好きになってはならないと、心の中で線を引いていたのよね)
それがいざ自分の相手だと認識するには、恥ずかしさが増してしまうわけだが、そこはいつか慣れるだろうか。
「妃教育よりも、そっちの方が前途多難ね…」
私は案内を受けて次の場所へ移動する。マナーの復習で天気が良いからテラスで行われるそうだ。
教えていただく先生は各科目担当者が違うのだが、回廊を抜けて席で待っている人を見て、私の心臓は止まり掛けた。
「マナーはわたくしがお教えしますからね」
にっこり笑顔を作ったのは、柔らかな金髪を後ろでまとめサファイアのような濃い藍色の瞳を輝かせ、紅色の唇をニンマリと上げた美しい方。
「お、お、おうひ、さま、が、私に、マナーを…?」
「ええ、よろしくね。さあ、お座りになって」
シルヴァン殿下の母君である王妃は、シルヴァン殿下にそっくりな笑顔をこちらに向けた。
婚約が決まりご挨拶をしただけでほとんど話すことはなかったが、ここで王妃と話すことになるとは。しかも、マナーの先生である。
促されて座った席で、私は汗が滝のように流れてくる気がした。
「あら、緊張しないでちょうだい。これからこんな機会は沢山あるのだもの。ちょっとした予行練習と思えば良いわ」
王妃は言いながらお茶を飲むように勧めてくる。王妃との一対一の会話がまさかのマナー講義とは思いもよらなかった。私は心臓がどくどくいうのを聞きながら紅茶に口を付ける。
「懐かしいわ。あんな小さかったお嬢さんが、こんな素敵な女性になるだなんて」
王妃は幼い頃の私を見るように、懐かしげに私を見つめた。
幼い頃会ったことがあるらしいが、私も幼くて何も覚えていない。しかし王妃はつい最近のことのように思い出話を始めた。
「お姉さまの跡を追いつつも、弟さんの面倒も見ていたでしょう。私も女の子がほしいわと、何度思ったことか。シルヴァンは小さい頃からすましていて、表情豊かなあなたたちのように少しは可愛げを持ってほしかったのだけれど、そのまま成長してしまったのよ。子供の頃から大人びた顔して、計略をめぐらせるのが好きで可愛く育たなくて」
マナーの勉強はどうしたか、王妃は井戸端会議のように話を続けた。
「計略をめぐらせるのが、お好きなんですか?」
「聡明というのも子供の頃では邪魔なものなのよ。もう少し子供らしくしてほしかったのだけれど、そのせいで物分かりの良い子に見えるよう育ってしまったわね」
ほう、っと残念そうに言うが、今の言葉がとても気になる。物分かりの良い子に、見えるよう、ってどういう意味だろうか。見えるよう、って。
「ロマーヌが倒れた後は、あなたたちに会うことができなくなって、シルヴァンは残念がっていたのよ」
ロマーヌはお母さまの名前だ。お母さまが体調を崩してから王宮に遊びに行くことはなくなった。私は覚えていないが、シルヴァン殿下は会えなくなることを残念に思っていてくれていたようだ。
「私は、こちらに遊びに来たことを覚えておりませんが、その話は姉より聞いております」
「あら、覚えていないの? まあ、そう…。それは、それは」
王妃は驚いたような顔をしながら、何かを納得するかのように頷いた。
「ロマーヌが遊びに来られなくなった後、シルヴァンに婚約の話が舞い込んできたの。私たちは良い話だと思ったのだけれど、シルヴァンはそうではなかったのね。だからシルヴァンは王に面白い条件を出したのよ」
「条件、ですか?」
「ええ、その条件は、シルヴァンに聞くといいわ。それとね、丁度その頃、ロマーヌはあなたたちの教育を誰に任せるのか迷っていたの。倒れてわたくしが見舞いに参った時に、相談されて。それでわたくしが教育係を紹介したのだわ」
「王妃さまのご紹介で教育係が決まったのは存じております。王妃さまの紹介を得て私たちは最高級の教育を受けることができました」
「シルヴァンが王と賭けただけあるわ」
「賭け?」
王妃は、うふふ。と含んだ笑いを見せる。大したことではないと、その話を終わらせると、美味しいお菓子を食べながら、結局ただゆっくり話をしてマナーの勉強は終わりになった。
「何かのテストだったのかしら。あれで私の勉強の方法を考えるとか?」
王妃は終始他愛のない話をして、マナーの何かを指導することはなかった。カップの持ち方や仕草、座り方など、多くを指示されるかと思ったが何もなく、最後まで穏やかな時間を過ごし、ゆっくりとしただけだったのだ。
「逆に不安だわ…」
私は小さく呟く。今日の妃教育はここまでで、シルヴァン殿下を待つために書庫へ案内された。
シルヴァン殿下が良かったら案内すると言ってくれていた書庫は思った以上に広く、迷子になりそうなほどだった。
どこか来たことがある気がするのは、幼い頃に訪れたことがあるからだろうか。
重厚な作り、焦茶色の本棚やそれを飾る細かな彫刻。地面には赤い絨毯が敷かれ、部屋は少しだけ薄暗いのに地面の方が明るく感じた。
好きな本を読んでいいと言われて奥の方まで来てしまったが、案内人以外人がおらず、シンとした中で私は本棚から取った本をぺらりとめくる。
一日目にして色々あり過ぎて集中力がない。普段ならすぐに読み終える程度の本だが、先に読み進めない。
シルヴァン殿下が迎えに来てくれるらしいので、のんびり待てば良いだろうか。
私は小さく息を吐いて窓からの景色を眺めつつ本を読み進めていると、窓の外から誰かの話し声が聞こえた。
「もう、妃教育が始まっているの?」
「そうよ。急いで住まわれるお部屋を整えて、大変だったんだから」
どうやら少し開いている窓の外から声が漏れ聞こえているようだ。外でメイドが休憩でもしているのだろう。
「前のあの人、ほとんどしてなかったじゃない?」
「あれはしないでいいって言われたからでしょ。望まなければやらないでいいなんて、言われたらやらないわよ」
メイドたちはぽそぽそと話を続ける。私は本に栞を挟んで声のする方へと近付いた。
「婚約破棄をしたいって本当だったのよ。婚約破棄されるのは決まってたんじゃない? だって私、王妃さまが話しているの聞いちゃったの。新しいお相手は、もう妃教育終わっ…」
そこまで聞いた時、窓がバタンと閉じられた。
「シルヴァン殿下?」
「…さえずりがうるさいね。書庫は静かであるべきなのだけれど」
いつの間に書庫へ来たのか、窓を閉じたシルヴァン殿下は微笑みを浮かべてゆっくりと私に近付いた。
「思ったより待たせてしまったかな。書庫は見て回った? 案内をしようと思っていたのだけれど」
「あ、いえ、そこまで見て回ってはいないです」
「なら、案内しよう。その本は後で君の部屋に持って行かせるよ。おいで」
気のせいかな、有無を言わせない圧力。シルヴァン殿下は私が持っていた本を机に置くと、私の腕を引いた。
「初日はどう…?」
「思ったよりも、問題ありませんでした。王妃さまとはお茶をさせていただいて」
「あの人は話をするのが好きなだけだから、気負わず聞いていればいいよ。君のマナーに口を出すような欠点はない」
「それは、良かったです…」
シルヴァン殿下は私の腕を引いたたま、更に奥の方へと進んでいく。奥に行けば行くほど重要度の高い本が並び、私の体くらいの大きさの本などが見られた。
(先程の話は、何だったのかしら)
妃教育が終わっている。そういえばお父さまもそんなことを言っていた。王妃さまもお父さまも、どうしてそんなことを言うのだろう。妃教育が終わっているなど、一体どういう意味で口にするのか。
頭を整理したい。したいが、シルヴァン殿下は私の手を引いたまま、案内と言いながら、一番奥まで行くと足を止めた。
「ほら、覚えていないかな? この場所を」
指差されたのは数段の階段がある場所で、シルヴァン殿下は潜るように階段の下に座り込んだ。座るように促されて私もその隣に座る。
赤い絨毯は柔らかく床でも気にならないが、階段下は狭く階段が屋根のようになり光を遮断して薄暗く感じさせた。
シルヴァン殿下はこちらを見遣って笑みを湛える。その笑顔が近すぎて顔が赤くなる気がした。
「あの、ここが、何か?」
何か言わねば心臓の音が聞こえてしまいそうだ。私が問うと、シルヴァン殿下は微かに目を眇める。
「いつか書庫を案内すると言ったけれど、君はここに一度だけ来たことがあったんだよ。私が探しに来て、君はここで本を広げて眠っていたんだ」
前に話していた、私が眠っていた場所がここらしい。絨毯は柔らかいので寝るのに丁度よく、本でも枕にして眠っていたのだろうか。
「その時に、約束したんだよ。君は覚えていないけれど、私は良く覚えている」
「約束、ですか?」
ここに来たこともあまりよく覚えていないので、その約束も全く覚えていない。頭を捻って思い出そうとしたが、何も思い出せない。
「ここで眠って、目が覚めて、君はここから動くことを嫌がったんだ。どうして、ここにまた来ちゃいけないのって、ひどく泣いたんだよ」
そう言われて微かに思い出す。駄々を捏ねて誰かを困らせたような、ないような。
家にはないたくさんの本に囲まれて、文字がしっかり読めなくとも眺めるだけでも楽しくて、暗くて狭いところが好きだった私は鮮やかな表紙の本を集めてご満悦だった。
本を眺めていつの間にか眠ってしまい、起きた時には誰かが傍らで座ってこちらを見つめていた。
『ここのご本はお兄ちゃんのなの? それじゃあ、お兄ちゃんのお嫁さんになれば、ここにまた来れる?』
そうして、誰かの頬にキスをして。
『リリアーヌがお兄ちゃんのお嫁さんになってあげるね』
「わああああっ!!」
私はシルヴァン殿下が隣にいることも忘れて大声を出した。私は誰かにそんなことを言ったような気がする。いや、言った!
薄暗い中でも輝く、金色の髪に、美しい濃い青の瞳。
ちらりと見上げたシルヴァン殿下は、ただ目を細める。
ああ、この顔だったかもしれない。この場所にいて、私を見つめていたのは。
「…殿下、約束って…」
「こんな形で再びここに連れてこられて嬉しいよ」
シルヴァン殿下は満面の微笑みを浮かべる。
「約束通り、私のお嫁さんになってね」
そう言うと、シルヴァン殿下はそろりと私の頬をなでると、静かに口付けた。
妃教育はあまりにもすんなり進んだ。
学んだことのある教育は復習のようなもので、新しく学ぶものはなく、教育係の者たちの称賛がどこか心苦しい。
妃教育は行われていた。いつからだろうかと考えることすら愚問だ。
フェリシテお姉さまも同じ教育を受けたため、妃教育だと疑問にも思われないだろう。しかし、妃教育だったわけである。
(お父さまもお母さまもご存じだったわけよね?)
「リリアーヌ、時間があるならば散歩をしないかい?」
シルヴァン殿下は私の妃教育が終わる頃必ず迎えに来て、夕食までの時間私と一緒に過ごす。
当たり前に伸ばしてきた手は私の手を握り、そうしてクスリと微笑む。私の反応を見て笑っている顔だ。私の顔はいつも通り真っ赤に違いない。
「あの、殿下。その、手の握り方は、どうかと」
「なぜ? 私たちは婚約者なのに?」
(いえ、あなた、クリステル様とそんな手の繋ぎ方したことないですよね!)
そんなことを言ったら何を仕返しされるか分からない。私はぐっと堪える。
両手の平を合わせて指を絡めて、時折指でなでて私の親指をそれで押さえた。それがくすぐったいような、けれど温もりが伝わってシルヴァン殿下の体温を感じるのが恥ずかしくなり、ここから逃げ出したくなる衝動に駆られるのだ。
が、シルヴァン殿下がその手を離すはずなく、そうしてからかうような目をこちらに向けると、隙を狙うかのように私の頬に口付ける。
「殿下!」
「君の真似をしただけだよ、リリアーヌ」
何を言ってもこの人には勝てないだろう。シルヴァン殿下はご満悦だと笑顔を見せてくれる。
「この間、アルフォンス様に会いました」
「そこら辺にいるからね」
そこら辺にはいないが、たまたま廊下で挨拶をする機会があって少しだけ話をしたら、苦労してそうですね。と言われた。
私が疲れた顔でもしているのかと顔を触っていたら、シルヴァン殿下があまりにご機嫌で、きっと苦労されているのだろうな。と思った次第です。と言ってきたのである。
どういう意味か問いたくない。アルフォンス様は私に、諦めて受け取ってください。うっとうしいでしょうが。と他人事のように言って去っていった。
「うっとうしいでしょう。と仰っていました」
「あとであいつには罰を与えておこう」
シルヴァン殿下は笑顔のままさらりと言って、もう一度私の手をゆるりとなでる。
「アルフォンス様はなぜそんな感想を言ってきたのでしょうか」
「さあ、何だろうな。うっとうしいと言うのならば、私が君と一緒にいてあまりにも幸せだからじゃないかな?」
それを満面の笑顔で言うのはやめてください。
後で小さく吹き出すので、私をからかって言っているのは良く分かっている。
「約束を違えず君と一緒にいられるのだから、私は安心しているんだよ。やっと君は私の隣にいて、こうして触れられるところにいるのだから」
言いながらさりげなく口付けをする。
「で、殿下!!」
「妃教育もすぐに終わり、結婚式も早めに挙げられるだろう。とてもスムーズだね。…賭けは私の勝ちだ」
「賭け? 何の賭けですか?」
ぽそりと聞こえた呟きに、私は問う。
そういえば王妃さまが言っていた。シルヴァン殿下は王に条件を出したと。その条件とは一体何だったのだろうか。
それを思い出して聞いてみると、シルヴァン殿下はにまりと笑った。碌でもない笑いに見える。
「王太子の婚約者に何か問題があれば、婚約破棄をするというものだよ。ただそれだけだ」
シルヴァン殿下に軍配が上がった。クリステル様は愚行を犯し王の叱責を受けて婚約破棄の運びとなった。
含んだ言い方に、私はディオンの言葉が急に頭に浮かんだ。
『殿下は策士だから』
私はちらりとシルヴァン殿下を見遣る。
シルヴァン殿下は優しげな笑みを見せる方で、色気があっても決して悪巧みはないと思っていたのだが、それは勘違いだったと大きな声で言いたい。
「何か、言いたいことがある?」
「何もありません」
「そう? 聞きたいことがあるようだけれど」
くすくす、くすくす、シルヴァン殿下は私の顔を見て笑うばかりだ。
「全てが平和に解決したんだよ。私は賭けに勝ち、君が私の婚約者になった。ただそれだけ。先に約束を取り付けてきたのは君だよ、リリアーヌ。私が婚約破棄するまで、君には相手もなく、安心した」
「どなたかが、邪魔したのではないでしょうか?」
「どなたか? さあ、どなたのことだろうか」
シルヴァン殿下は含んだ笑いを見せてくる。私は突っ込む気も起きない。
私への婚約の申し出は一度としてなかった。なくても気にもしていなかったが、お父さまも口では探している風だったのに、実は探していなかったのではないかと勘繰りたくなる。
妃教育も初めから仕組まれていた。クリステル様の行いもどこからが彼女の意志で、どこからが仕組まれていたのか。いや、誘導されたのか。
そこに王への利点も絡まって…。
いや、考えるのはやめよう。何を言おうと真実など分からないし、結局のところ、シルヴァン殿下が私を選んだのは間違いないのだから。
シルヴァン殿下は、フェリシテお姉さまを庇う私が気になっていたということだったが、それすらも本当かどうかも分からなくなった。
(それに、幼少の頃の約束を守るには、子供すぎると思うのだけれど)
私はちらりとシルヴァン殿下を見遣る。シルヴァン殿下はそれを見てクスリと笑むと、私に口付けた。
「約束するよ、リリアーヌ。私の心は永遠に君のものだと」
一体私をいつから溺愛していたのか、それを聞くのはやめておこう。




