婚約破棄
「フェリシテお姉さま、こちらにいらっしゃったんですね」
私は今にもバルコニーに連れて行かれそうなフェリシテお姉さまの腕を掴むと、ぎゅっと絡みついた。お姉さまを連れ出そうとした男はこちらに顔を向けると、不機嫌そうに眉を上げる。
「失礼だが、私は彼女と話があるんだ」
「あら、オフレ様。ごきげんよう。本日はバロー令嬢とご一緒ではないのですか? あ、それとも、デュクロ令嬢とご一緒かしら?」
私がそう言うと、フェリシテお姉さまを連れ出そうとしていたオフレがぎょっとした顔を見せた。
「お姉さま、ユベールと探していたんですよ。参りましょう」
「あら、ごめんなさい。ではオフレ様、私はこれで」
「あ、ブルレック令嬢!!」
オフレの焦った呼び声を背に、私はフェリシテお姉さまの腕をとってパーティ会場の人混みの中に潜り込む。オフレが見えなくなって、私は息をついた。
「フェリシテお姉さま。あんな二股男はダメですよ。ちょっと目を離した隙におかしな男に連れてかれてしまうのだから」
「ごめんなさいね、リリアーヌ。急に手を取られて、驚いてしまって」
謝りながらもほんわりと笑うフェリシテお姉さまは、今日のパーティで目玉になりそうなほどの美女で、どこに行っても男を釣り上げてしまう美貌を持つ人だ。
太陽のような明るい金髪に深いコバルトブルーの瞳。柔らかな雰囲気を持っていて、微笑むだけで周囲の男が虜になってしまう。
おかげで小バエのような男たちがたかること、たかること。
オフレもその一人で、二人の女性を股にしているという噂のある男だった。鎌をかけたのだが噂は本当だったらしい。事前調査が当たり安堵する。
「フェリシテ姉さん、リリアーヌ姉さん。大丈夫だった?」
声を掛けてきたのは弟のユベールだ。私たちを見付けると小走りで寄ってくる。
「案の定、変な男に言い寄られていたわ」
私が肩をすくめると、ユベールは苦笑した。
「今日はいい人に縁がなかったみたいだね。もう時間も遅いし、そろそろ帰ろう」
「フェリシテお姉さま。私も疲れちゃったから、もう帰りましょ」
「お前は食べ過ぎなんだよ。菓子ばっか食って。だから男も寄ってこないんだ」
「うるさいわよ」
「あら、大丈夫よ。リリアーヌはとても可愛いのだから、リリアーヌを見ていてくれる方がいらっしゃるわ」
フェリシテお姉さまはそう言って朗らかに笑ってくれるが、私とユベールの髪はオレンジのような茶色。瞳は琥珀色をしており、お姉さまの美しさに比べれば一般的な顔をしている。ユベールの方が若干お姉さまに似ているだろうか。
フェリシテお姉さまは美人で性格も良い人気者だが、未だ良いお相手が見付かっていない。
私たちが幼い頃お母さまが病気をし、一時期はベッドから出られないほどだった。代わりにフェリシテお姉さまが私たち二人を育ててくれたため、社交界へのデビューが遅くなったのである。
そのせいなのか、フェリシテお姉さまは良いお相手に恵まれず、なぜかクズ男が寄ってきた。
それから私とユベールは二人でお姉さまの相手になりそうな年の近い男や近付く男をチェックし事前調査を行い、おかしな男からの誘いを受けないように目を光らせていた。
今日は珍しく姉がパーティに行きたいと言うので参加したのだが、当てが外れたようだ。
(気になっている方でも参加するのかと思っていたのだけれど…)
「リリアーヌ、もう帰るのか?」
聞き慣れた声が届いて、私たちはそちらに向いた。声を掛けてきたのは焦茶色の髪と淡い緑色の瞳をした、ディオン・モーリアックだ。
「ディオン、もう挨拶は終えたから、帰るのよ」
「今日も収穫なしだった?」
フェリシテお姉さまに聞かれないように囁かれて、私は肩をすぼめる。
私たちが三人集まってパーティの出席をする時は、決まってフェリシテお姉さまの相手を探しているのだと知っているのだ。
ディオンは情報通で男たちの素行に詳しい。私が得た情報のほとんどがディオンから得たものである。自身も情報を得にパーティ参加をしているので、よく新しい話を耳にしていた。
「今日はいい人たちが集まっていたように思えたが?」
「変なやつに絡まれて、それを剥がすことしかしなかったわ」
「それは残念。フェリシテ令嬢、お久し振りです」
「こんばんは。今日も素敵なお召し物ね」
「ありがとうございます。フェリシテ令嬢も相変わらず美しいですね」
ディオンは慣れた手つきでフェリシテお姉さまの手を取ると、甲に口付ける。人と話すことが得意なディオンは女性の相手もスマートだ。普段ならば私が剥がしに行くが、ディオンはお姉さまを結婚の対象と見ていないので、その挨拶には目を瞑った。
「ディオン、今日全然見なかったじゃないか。どこにいたんだ」
「いつも通り情報をいただきにうろうろと」
ユベールにウィンクをしながら答えるディオンは意外に女性にモテるので、それを利用して色々な噂を耳にしていたのだろう。ゴシップ好きにも見えるが彼は商いをしているので、貴族たちの流行のチェックをしているのだ。
恋愛関係のゴシップに強いのは彼の趣味だと思うが、その情報を私は活用しているので何も言うまい。
「何だか、騒がしくない?」
パーティ会場を出ようとすると、どこかざわついた雰囲気を感じた。何かあったのか、皆が帰らずに奥の部屋へ戻ろうとしている。
「先ほど王が王太子殿下の婚約者に説教していたから、そのせいだろう」
「説教って、何よ。しかもこんなところで?」
ディオンはその話は当然知っていると、騒ぎの原因を口にする。
継承権第一位であるシルヴァン殿下の婚約者、クリステル・バルバストルには少々問題があった。
父親のバルバストルは軍司令官を担っており、王の側近である。いわゆる政治的な繋がりを強めるための婚約だが、当初は周囲からの賛成の声も多かった。
しかし、父親のバルバストルが軍司令官ながら優しげな面持ちの方でも、娘のクリステルは王太子殿下の婚約者を笠に着て、シルヴァン殿下の側室になりそうな女性たちに目を付け嫌がらせをするという、性悪女だったのだ。
かくいうフェリシテお姉さまもその標的にされたことがあり、庇った私にもその影響があったほどだ。
「どうせ、他の令嬢に嫌がらせしてるの、見られてしまったのではないの?」
「恐らくそうだろう。一人の令嬢を罵っていたようだから」
何にしても迷惑な話だ。王がそれを見られたのならば、それなりに注意してほしいと思う。
「それよりリリアーヌ、周囲で何かなかったか?」
「何かって?」
ディオンはこっそり私に耳打ちしてきたが、何のことかと首を傾げた時だった。
「婚約破棄ですって!」
「婚約破棄!?」
騒がしさが増して、大声が届いてくる。注意レベルではない言葉が耳に入ってきた。
「婚約破棄? さすがに堪忍袋の緒が切れたのかしら?」
「王が直接伝えるとは。これで王太子殿下の婚約は白紙に……」
どこか思案するように言って、ディオンは踵を返す。
「リリアーヌたちは早く帰るといい。殿下の婚約など興味ないだろう?」
「興味ないけど…」
ディオンはこれ以上の情報はないと思ったか、真相を聞きにパーティ会場へ戻っていった。
まさかの婚約破棄にパーティ会場は大騒ぎのようだ。私たちには関係のないことだが、嫌がらせばかりされていた令嬢たちは溜飲が下がるだろう。
「フェリシテお姉さまにも嫌がらせしたのだもの。いい気味だわ。殿下のお相手ならお姉さまの方が余程相応しいわよ」
「まあ、リリアーヌ。私と殿下では年が離れているのだから、そんなお話は間違っても出てこないでしょう。私よりもリリアーヌの方がお相手に良いと思うわ」
お姉さまの天然発言はそのままにして、本気でシルヴァン殿下のお相手に良いのではないかと思い始めた。年は離れていてもそこまでではない。年上の妃殿下でも問題ないのだから、むしろこれはチャンスではなかろうか。
シルヴァン殿下は幼い頃から婚約が決まっていたこともあり女性の噂は全くなく、素行の悪さなど耳にしたこともない。
文武両道、穏やかとまでは言わないが落ち着きがあり人当たりが良く、次の王になるために政務を行っている中、周囲からの信頼も厚い。
王太子殿下のお相手となればお姉さまは妃教育を受けることになるため、それなりの苦労はあるだろうが、お姉さまのメンタルならば軽くこなせる気もする。
「あ、しまった。私、扇を置いてきてしまったわ。ケーキがあったテーブルかしら」
「ケーキばかり食って、よそ見してるから」
ユベールの笑いを無視して、私は二人に先に行ってもらうようにすると、お屋敷への道を戻る。ケーキを食べながらお姉さまを見ていたので、扇をテーブルの上に忘れてしまったのだろう。
お屋敷に戻ろうとすると、すれ違う帰路に着く者たちも同じ話題を口にしていた。
シルヴァン殿下の婚約破棄が本当に決定したのならば、年頃の令嬢を持つ者たちにとってまたとない機会だろう。盛り上がるのは当然だ。
(王様が本当に破棄を言い渡していたら決まりだろうけれど、ご本人はいらしていないのかしら。クリステル様が来ているならば、殿下もご一緒されていると思うけれど)
そういえば本人の姿を見ていない。
シルヴァン殿下はクリステル様の不適切な行為が増えてから、二人で行動することを避けているかのように表に出てくる数を減らしていった。政務に勤しんでいるとはいえあまりに表に出てこないため、クリステル様との不仲を暗に示しているのではという噂があったほどだ。
もしかしたら、婚約破棄の話は前から出ていたのかもしれない。
王の前での愚行により、その発表が本日になっただけではなかろうか。
(あり得るわね)
「ご令嬢、こちら忘れ物ですよ」
屋敷に入る前に声を掛けられて、私は声の方へ向いた。
階段の上で扇をこちらに向けたのは、柔らかな金髪とサファイアのような濃い藍色の瞳を持ち整った顔立ちをした、渦中の人である。
「王太子殿下にご挨拶申し上げます」
「畏まらなくても良いですよ。先ほどテーブルの上に置かれたのを見掛けて、つい持ってきてしまいました。こちら、あなたの扇ではありませんか」
(先ほどって、結構前だけれど!?)
そんな突っ込みは呑み込んで、私は礼を言って扇を受け取る。間違いなく自分のものだ。
フェリシテお姉さまの跡を追う前にテーブルに置いてきたわけだが、その周囲にこのシルヴァン殿下がいたとは気付きもしなかった。
それより、婚約破棄だの何だのと会場が賑わっているのに、この人はここにいて良いのだろうか?
しかし、私ははたと気付く。
(これはもしかして、お姉さまを王太子殿下に推すチャンスなのでは!?)
「あの、婚約破棄と言うお話を陛下がされていたようですが、こちらにいらっしゃっていてよろしいのですか?」
「ああ。王がクリステルの素行を気にしていましたからね」
失礼ながらもおずおずと問う私に、シルヴァン殿下は少しばかりのんびりした返事をよこした。
騒ぎは本当だったらしい。やはり王の意思でそのような結果になったのだろうが、それにしても、
(他人事みたいに言われるのね…)
しかも、騒ぎの中わざわざ扇を渡しに来たのも不思議な話だ。誰かに持たせればいいものを。
(もしかして、お姉さまを追って来られたとか!?)
「……あの、実は、姉も、嫌がらせを受けまして。悔しい思いをしていたのです」
こんなことをシルヴァン殿下に訴えて怒られるかもしれないが、怒られるのは自分だ。フェリシテお姉さまにも被害があったことは伝えておきたい。
ついでにお姉さまを心配してほしい。
「あなたも、ですか?」
「は? え。あ、ええ、まあ」
急に問われてとぼけた返答になってしまったが、嘘は言っていない。フェリシテお姉さまにくだらない嫌味を言い小馬鹿にしてきたところで私が参戦し、嫌味の応酬で勝利したことは口にすまい。
「王太子殿下を煩わせるつもりはありません。ただ、姉はとても心優しい人で、心ない言葉に心を痛めていて、殿下にお言葉をいただけるならば姉も立ち直れるかと」
煩わせるつもりはないと言いながら、姉に会ってほしいという矛盾は置いておいて、フェリシテお姉さまの心が傷付けられたと強調する。だから、願いを受けてもらえないだろうか。
ごくりと、唾を飲み込みながらちらりとシルヴァン殿下を見上げると、殿下は憂えるように階段上から腰を折った。
「ご令嬢、お詫びをさせていただきたい」
(きたー!! お姉さま!! つれました—————!!)
嫌味を言われたフェリシテお姉さまは、その嫌味に動じずニコニコ笑顔で受け答えしていたとも口にすまい。嫌味が通じず周囲に苦笑されたのはあちらの方だったが、事実は事実。
「ぜひ、お茶などを」
このお誘いを逃してなるものか。
私は二つ返事をして、シルヴァン殿下との約束を取り付け、るんるんで二人の待つ馬車へ戻ったのだ。