跫音の続きを街角で
腰に振動を感じながら、見慣れたほの暗い風景を眺め続けた。なんの感慨も湧いてこない。この目はレンズだ。ただ光を反射して、私の脳が映像として出力するだけ。それだけだ。
四角く切り取られた画は脳のどこに行くんだろう。もしそれらを繋げ合わせたら、最後にはネガみたいになるのかな。
また腰に震動を感じる。が、下腹部は麻痺していて、何も痛くない。痛覚だけが私の中から抜け落ちてしまったみたいだ。
どうせだったら、全てが停止すればいい。
汗が引いてきて、残滓が肌をざらつかせ、私を支配する。冷却口を下に向け、隣の女が何かをつぶやく。その音が連なってセンテンスが構築され、話が生まれた。堰を切ったように、とめどなく、とりとめのない、どうしようもない話を。
声は空疎だった。取り繕うための、間を持たせるだけの会話のための会話。快楽のための行為と一緒。
その後は男の人の「早く帰りたい」という気持ちが透けて見える。
そんなこと分かってた。
私は空洞だ。
「どうせ大学に行けば、誰も――」嗄れた声が冷気に混ざり溶けていく。
適当な相づちを打ち雑踏を見続けると、夕暮れの中にひときわ目立つ、サッカーボールをネットに入れ歩いている少年集団がいた。しきりに何かを話し合っているけど、何も聞こえない。
彼らはユニフォームのみならずハイソックスまでもが茶色に染まっていて、練習帰りであろうことは容易に想像できた。汚れたスパイクはバッグにぶら下げ、ゆらゆら揺れている。ガラスで隔たれた金属の箱には、外の音なんか聞こえてこない。クーラーの音だけ。
あとは私の鼓動だけ。
サッカー集団に周りから小突かれている小柄な男の子がいた。突かれて、突き返して、土埃が夕闇に舞う。
目をつぶると、乾いたグランドで土の衣に包まれたスニーカーが頭に浮かんだ。
「あれ、何色だったかな」
眼球への光は遮断されたのに、脳には映像が溢れてくる。
小学校六年生、私は運動会の実行委員だった。先生からの信頼が無ければ就任出来ない、誉れ高き役職だ。と、カッコつけていても、実際は体のいい小間使いだった。運動なんか好きでも何でもないけど、私学の入試が控えていたので内申を得るための母の作戦だった。
私の仕事は低学年のあやしだった。玉入れで当たって泣いて。綱引きで転んで泣いて。まったく。泣きたいのはこっちだ、バカなガキども。
「日南さん、あの子お願い」
また頼まれごとだ。学年別の五十メートル走で、なぜか走らない子供がいたらしい。校庭を縦断するコースのスタート地点に、確かに一人でぽつねんとしている男の子がいた。近づいてみて、いかにも頭の悪そうな顔に辟易したが、走らぬ少年の手を取り駆け出す。
たどたどしい足音が私をイラつかせる。
必死に走る私を衆目が嗤う。気がした。
「どうして走らなかったの?」
「どうして走るの?」
バカみたいなガキだ。バカそのものだ。そんなこと考える方がどうかしてる。黙って周りに合わせていけばいいのに。そうすれば私の手だって煩わすこともないのに。
「あたらしいおクツ、よごれちゃうし」
かけっこが早くなるという触れ込みのクツを履いていた。コイツには宝の持ち腐れだ。
「ねえキミ。さっき私と一緒に走って気持ちよかったでしょ。もし駆けっこで一番ならゴールテープも切れるし、あんな光景がまた見れるんだよ」
アホガキに私の言葉が理解できるか知らないけど、かまわない。鼻をほじくっていた手を引いて、私は先生にソイツを引き渡した。
これで心象よくなったかな。先生、内申に書いてくれるかな。『日南さんは運動会の実行委員を率先して』って。
――ああ、あの時のスニーカーは白じゃなかった。マジックテープの部分がプリズムを放つ黒地の運動靴だった。あんな頭の悪そうな子供にヒモ靴は無理だ。
そうだ、ヒモだ。ヒモがいい。私は小さなころからヒモの靴だった。それしか与えられなかったから、結ぶのは得意だ。
「どうして走るの」
動き出した車のエンジンが、私の声を上書きした。
近所の同級生のお姉さんが亡くなった。夏休みの最後に、自分の意思で。理由は知らない。……ウワサで聞いたけど、それが本当かどうかなんて、僕には分からない。だから知らない。
玄関に敷き詰められたクツたちはオセロみたいで、僕の真っ白な学校指定の靴は、肩身狭そう。
一人の道は何もかもさびしい。学校帰りに通るこの道、僕、大好きなのに。そこの角の家は偏屈なおばあさんが一人で住んでて、近寄るとヨークシャテリアが狂ったように吠える。けど、今は静かで。大型スーパーが出来て、つぶれてしまった魚屋さんのシャッターはサビが酷くなってて。いつも臭い湯気をダクトから出して、汗だくで働いてたクリーニング屋さんは夜逃げして。
細長い箱に納められた、あの人は綺麗で。
何もかもが。
悲しさの膜が目に張り付いて、あらゆるものをそうさせるんだ。はがれやしない。
家の玄関をくぐる前に、お母さんが塩を僕にかけてくれた。シャツに弾かれた塩つぶはタイルで跳ねて、足元に入り込む。
そうだ。あのお姉さんの靴は、もう誰もはかないんだ。あの家の片隅でカビが生えて。だれかが気づいた頃には、捨てられるんだ。
「アンタなに? 泣いてるの?」
「塩が目に入った」
「残念。これ砂糖だし」
「なんでだよ」
にやけた母さんの顔が、とつぜん驚きの表情に変化して、僕が振り返ると、
「あ、あの……」
エンジのジャージを着たメガネの女子がいた。うつむきがちに話しかけてきたその子は、あのお姉さんの妹で僕の同級生。優等生なお姉さんと違って、根暗な、休み時間に本と向き合ってる姿しか見たことがない。そんな女の子。
「スニーカー、それ、私の」
「えっ!」
同じデザインだから、うっかりしてた。謝りながら靴を脱いで、無表情な彼女に手渡す。
「ごめんなさい。……じゃ、お邪魔しました」
首は直角に折れ曲がったままで、その子が出ていく。
「アンタ送っていきな」
「う、うん」
サンダルをつっかけ家を後にすると、すぐに彼女を見つけた。
うなだれた肩は、あらゆるものを跳ね除けそうに歩いてたお姉さんとは、似ても似つかない。手に持った白のスニーカーはソールが削れてる。
「あの、日南さん……」
下がった肩がビクッとなって、それから彼女は「どうしたの?」
「危ないから家まで送るよ」なんてキザったいセリフが吐けないまま、黙って横に並ぶ。……なにを話せばいいのかな。
「にに、荷物持とうか?」
「え、クツ? いいです」
会話終了! さあ困ったぞ。
「夏休み、何してた?」
「勉強」
「そっか。僕、宿題全然終わってなくて、今日もやらないと」
「そう」
会話よ、さらば。
無言のまま、つぶれた魚屋さんの前を通る。『長年のご愛顧、ありがとうございました』の貼り紙がそのままのシャッターを押してみたら、サビが指に移った。
「うわ、きったね」
「……ここの鮭、美味しかったな」
「日南さんも? 僕も好きだった、ここのサケ」
「サケ?」
「う、しゃ、シャケ……デス」
どっちでもいいだろ! 細かいな!
もぬけの殻になったクリーニング屋さんの前を通る。『ワイシャツ一枚八十円』とペイントされてた店頭のガラスは、いまや粉々だ。誰も掃除しないのかな。
「なんか星空みたいだね」
「日南さん、ロマンチックなこと言うね」
「……ねえ戸田くん。宿題終わってないなら、私の見せようか」
「いいよ、自分でやるから」
「あ、ごめんなさい」
「いや、日南さんは、あ、本とかスキじゃん。だから読書感想でいいやつとか、ないかな~、なんてさ」
横目で見た彼女はじっと前を見据えてる。
「家にあるのは翻訳本とか、かな……。夏に読んだのは『嵐が丘』とか『怒りの葡萄』とか。それと今は『傲慢と偏見』」
なにそれ、ぜ~んぜん知らな~い。
「あ、あ~、め、めいちょってヤツだね」
「知らないよね。お母さんのおススメなんだ。受験に出るとか言ってて。ぜんぜん面白くないよ」
「そっか。うん。そっか」
「私、私立の中学校、落ちちゃったから。お姉ちゃんと違って」
うつむいてる彼女の顔は、僕を見ない。下だけを見てる。
「日南さん、休み明けのテスト勉強した?」
「ぜんぜん、私不真面目だから」
「はっ? メガネかけてるのに!?」
彼女がぷっと吹き出して、小さく笑った。それが、あのお姉さんに似てた――かも。
「それすごい偏見だから」
「へ、へんけん?」
「うん。へんけん。片寄った見方」
「ご、ごめん」
さっきの知ったか、思いっきりバレタ。
「戸田くん。戸田、正之くん」
「僕の名前知ってるんだ」
「だって昔からご近所さんだったでしょ。ねえ、私の名前は?」
「う……日南さん」
「名前の方は?」
「さやか……さん」
初めて見たイタズラっぽく笑うこの子の顔はーーお姉さんなんかより可愛い。
「戸田くんも、お姉ちゃんが不幸だったと思う?」
わからないよ。
「お姉ちゃんが、その――何日か前にね、戸田くんのこと聞かれた」
僕みたいなのと関わりなかったのに。小さなころ運動会でなぜか走らない僕の手を引いてくれたこと、お母さんに教えられたけど、ぜんぜん覚えてなかった。怒られたことだけ覚えてた。
「『戸田の家のバカガキは』って、おんなじ話を何度もしてた」
バカか~ひどいな~。確かにそうなんだけど。
「それで、今読んでる本に……お姉ちゃんの髪の毛が挟まってて……」
日南さんは声を震わせた。僕にできることなんてない。ただ、そばにいるだけだ。悲しみは、自分の目にしか映らないんだ。
「本に落書きがあって、『ぜんぶ焼けて無くなれ』って」
うなりが、
道路に低いうなりがして。
ここはちょうどバカ犬がいたあの家の前で。おばあさんが今も居てくれる気がする。いてくれ。狂ったみたいに鳴いてほしい。
そんな都合のいいものなんか、どこにもいない。誰も助けてなんかくれない。
だから僕は、サンダルを地面に擦り付ける。なけ、なれ、なれよ。グズグズ鼻をすする音を、消してくれ。
顧問の先生は「普段からキチンとした姿勢を保て」って言うけど。これぐらいしか僕には出来ない。クラスのイキってるヤツみたいで、みっともないけど知るもんか。今はこれでいいんだ。
「ねえ日南さん。こんど、僕にもその本読ましてよ」
「え……つまらないよ」
「いいんだ、つまらない方が。陸上の練習だって、つまらないことばっかだし」
「そっか。走るの、つまんないんだ」
「そうそう。部活も勉強も、いっしょ」
大きな日南家からは、線香のニオイがする。
「あの、私、色々と、ごめんなさい」
「謝らなくていいよ」
いいんだ、そんなことは。
「また、こんど」
「うん、また学校で」
門灯で照らされた彼女の顔はよく見えた。けど、メガネの奥は、みえない。
こすれる音が帰り道にこだまする。子供の頃買ってもらったピコピコ音がする靴みたいに、僕のサンダルが歌ってる。そんな気がした。