豊受比売戦外記(とようけひめせんがいき)
この国の神々の中でも、豊比売は、変わり者だった。
そもそも、親神様の尿から生まれた子のそのまた子で、気ままな性格は生まれつきだったのだ。
豊比売の気まぐれは、天照大御神の手にも、余るのだ。
穀物を牛耳るのだが、なにせ気ままだ。
その年は野生の粟がたわわに実り、翌年は小豆が不作になった。
気ままに生えるキノコの様に、あれやらこれやらが、出ては消える。
その度に人は右往左往し、神々もあれこれ祈られて、豊比売に苦言し正そうとするが、聴く耳がそもそも無いのだ。
荒ぶる自然の実りこそが豊比売だったのだ。
あの暴風雨を身に纏う、須佐男でさえ、心やさしき皇女を娶り、その荒々しい鉾を納めていたのだが、豊比売は婿取りに何の関心も示さなかった。
これでは、手の打ちようがなかったのだ。
気まぐれな実りは、数を増やしていた人の暮らしを苦しめていた。
人の祈りは、神々の住まいをも揺らしだした。
天照の相談を受けて、月読宮は、宮に仕えさすが良いだろうと、知恵を授けた。
五穀豊穣の比売神なのだから、天照の食事の世話を司どらせるのだ。
流石の我がまま比売も、年貢の納めどきと、なった。
その後、この国には、四季が生まれた。
人は、田を耕し、畑を作った。
米と麦が、暮らしを安定させていき、小さな集落は、やがて大きくなっていった。
豊潤な穀物の備蓄は、人を増やし神への感謝を深めて行く。
親神様同士の行き違いから、人は数多く死ぬが、又多く産まれもしていた。
稲穂の秋津の国は、米が尊ばれ、それ自体が富であった。
天照の側で、豊比売も忙しく働いていた。
五穀を、守り、実らせ、卓にあげる。
稲作自体が国の力にもなっていった。
幾度となく天の気まぐれに、災害も飢饉もあったが、人々は生き延び、土地を耕して行ったのだった。
やがて人の世の形式張った儀式の中にすっかり取り込まれ、豊比売の仕事は楽になっていった。
秋の稲穂に一喜一憂しなくても良い程、多様な穀物は、作られて行っていたのだった。
平安、鎌倉、江戸二百七十年が、過ぎていった。
「比売様、この後はいかがしましょう。」
秋の取り入れも終わって、蔵には米俵が積まれていた。
「毎年の事でも、聞くのね〜。」
井戸の菊比売が、苦笑いをする。
「比売様付きになって日が浅いのです。
もう少しお優しくね、菊比売様。」
女官長の花芽締が、嗜めると、ペロリと菊比売は舌を出した。
「この秋も豊比売様は、出雲にお行きになりますか。」
花芽締の問いかけに、豊比売は首を振った。
「伊勢に居たいと思います。
何やら不穏で。
お前は、外の事を知っておろう。」
見習女官の華菜緋は、青ざめて下を向いてしまった。
「成りません。
外の人の世の事は、親神様ですら、最早その手を出せぬ程なのです。」
「あら、でも、聞くのは良いでしょう。
争いも終わったことですもの。」
江戸時代の崩壊による明治への移行は、この国を揺るがしたが、今は小競り合いも終結しつつあった。
「兎にも角にも、忌事でございます。
決して、この者以外の者にも、お聴きになりませぬよう。
外を眺めても、良い事などありせんので。」
自分の後ろに見習女官を隠し、女官長の花芽締は、そそくさとその場を退いて行ってしまった。
残された比売2人は、まるでお内裏様のいない親王飾りの様に、高座に座っていた。
「このまま、伊勢に残るの。
今年は、何処にも出かけないの。」
菊比売は、気楽である。
井戸のある所を、あちこち出入り出来るのだ。
豊受けの比売は、天照の為に、何百年も伊勢に縛られている。
秋の取り入れが終わると、出雲に行くのが唯一の楽しみだったはずだ。
「行きたくないのよね。」
豊比売は、ホウっと、ため息をついた。
パラパラと大豆が口から漏れる。
それを白ねずみ達が、あわてて升に盛る。
白ねずみ達がいなければ、豊比売の周りは種やら豆やらで、直ぐに埋まってしまう事だろう。
五穀豊穣の比売神は、その言葉のはじはじに、穀物やら豆やらを産むのだ。
「菊比売は、何か知ってる。
今時の事。
大きな闘いも終わったばかりだけど。」
幾ら深淵の比売神様といえ、人の世が乱れれば、遠からず聞こえてくるのだ。
「そうね〜、井戸に人が投げ込まれたりしたけど、今は静かよ。
そんなに心配しなくても、良いんじゃない。」
「菊比売がそう言うなら、出雲に行きましょうか。」
「それそれ。
もっと気楽にしましょうよ。
昔はお転婆だったのに。」
豊比売の機嫌もなおったようだ。
薄衣の掛かった衝立に隠れていた、女官が頷く。
音もなく立つと、女官長の花芽締の元に急いだ。
こうして、例年通りに、豊比売は出雲に出かける事になった。
米相場で動く人の世は、神々の世界からは余りにせち辛かったが、ここに来て世の動きが、変わりつつあった。
どんな闘いでも、それまで動かなかったものが動き出していたのだ。
明治という時代は、全てをその荒波に呑み込み出していて、何であろうと、容赦しなかったのであった。
出雲に行く道中、菊比売の悪知恵で、豊比売共々、出奔したのだ。
わざわざ、使えてから日の浅い者達を、選んでの旅だった。
気疲れで深く寝た翌朝、女官達は、もぬけの殻の寝室を目の当たりにしたのだ。
庭の井戸から、出ていってしまったらしく、誰も気付かなかったのだった。
井戸の口には、ハラハラと落ちた小豆が、豊比売と菊比売の悪さを物語っていた。
直ぐに女官長の花芽締が飛んできたが、比売神様達を探すのは至難の事となっていった。
2人は、気まぐれに姿を変え、道中を楽しんでいた。
女官長達が探すだろう出雲には行かなかった。
明治の初めとはいえ、女2人の旅はまずない。
2人は宿の外に出てから、男衆の姿に変化していた。
ザンギリ頭に、着流しという斬新な姿に2人は興奮して、豊比売はいらぬ種を蒔いてしまっていた。
菊比売はそれを笑いながら、豊比売の口がきけない事にしようと、提案して来た。
それならその口から種は溢れない。
2人は自らの足で、道中を楽しんだ。
2人の間なら、わざわざ声を出さなくとも、意思は通じたので、何の不便もない。
草鞋履きの白い素足に泥を塗って、大股で道を急ぎ、街道から外れ一旦、伊勢に戻る道を選んでいた。
山深い中を行くと。直ぐに薄暗い道になり、遠くで木こりが木を切る音が、響いていた。
木の根を避けながら、どうにか山間の村に着いた。
街道は整備され歩きやすいし宿もあったが、追ってくるであろう女官長の花芽締を出し抜くために、2人はわざわざ遠回りをして、この村に来ていた。
多分探し回ってる女官長も、こんなにも伊勢の近くに居るとは、思いもしないで、比売神の悪さに、キリキリしている事だろう。
村は、小さく静かだった。
宿には、村長の家が当てられていた。
小さな村ではよくある事だ。
通されたのは、母屋の裏の離れだった。
それ以外では、馬小屋ぐらいしかなかったので、なかなかの接待なのだ。
手足を洗う桶を受け取ってから、口の聞ける菊比売が、乾飯を持っていると告げて、食事を断った。
それでも、大根のお汁が届けられたのだった。
「何もありませんし、お口にあわんかもしれませんが。」
そう言って、村長の娘が、囲炉裏に鍋をかけ、お椀に汁をよそってくれた。
それ以上断る事も出来なかったので、2人の比売神は、有り難く頂く事になった。
決して美味しい物ではなかったが、持て成しに、お腹が暖まった。
娘が鍋とお椀を持って帰って行くと、日もトップリと暮れた。
「さて、戸は閉めたぞ。」
笑って振り向いた菊比売の顔が比売神に戻っていた。
「あー、面白い。
黙ってるのが辛い〜。」
男衆の姿のまま、豊比売が笑って転げる。
「米だらけだよ、豊比売。」
立派な種籾が、板の間で跳ねる。
「待って待って。」
菊比売が土間にあった桶を抱えてきた。
「これを持って話して、豊。」
「おう、菊、ありがとうな。」
わざと男衆のままの言葉で話しながら、2人は笑った。
「で、何が聴こえる。」
「村が、困った事になってるらしいぞ。」
菊比売は別名、聴く比売なのだ。
母屋にはこの村の男衆達が集まって、騒めいていた。
回された酒も、議論を大きくしているようだ。
「何でも、去年の相場で、今年の税を取るとか、何とか。
米は米でしょうに。」
「取れ高で毎年、税は決まる約束なのに、去年の相場ってのは、なんか変。」
2人の比売神は、頭を傾げた。
よくわからないまま、2人は早朝、この村を後にした。
泊まったお礼に、あの種籾を置いてきた。
村長達はたいそう喜び、あの娘と子供達が、、いつまでも手を振って、見送ってくれた。
街道の裏道を姿を変えながら、比売神様達はいそいだ。
人にあらずな者たちなので、大井川の宿場町にあっという間に着いた。
姿形を、年寄りに変えた2人は、人足たちの言われるまま、渡り賃を出して、輿で、川渡りをしたのだった。
わざわざ、カモになったのだ。
遠回りをして、上流に行けば、橋はあったが、ここらをウロウロして川の神に、告げ口をされてはかなわないからだ。
太く大きな川には、守り神が古くからいて、伊勢にも出雲にも通じていた。
東海道の旅は、面白かった。
川を渡ってからは、街道を歩く様になったのだ。
富士を左手に見ながら、道中を楽しんだ。
大きく小さくなりながらも、富士山は2人を見つめているようだった。
どうしても休みたい時は、街道を外れて小さな村を探し泊めてもらった。
江戸を改めた新しい都、東京に着いたのは、ほんの数日後だった。
箱根を越えてから、ガラリと空気が変わったのを感じていた。
洋装の男女が増え、馬車も多かった。
比売神たちも、洋装の若者に姿をなぞらえていた。
活気があり、見た事のない物が、比売神達を楽しませた。
西洋改革は、有りとあらゆる物に、注がれていたのだ。
それでも、着物に丁髷の男や、流行りの日本髪を揺らす女達がいた。
洋装はまだまだ庶民の物ではなく、靴が嫌われていた。
足元だけ下駄を引っ掛けているのも多い。
新し物好きな2人も、女装をしないのは、細い女の靴を嫌ったせいもあった。
都見物をしてから、気まぐれに横浜の港に向かったのは、その日の午後だった。
黒々とした煙を吐く蒸気船が、沖に停泊している。
物見遊山には、ぴったりだった。
ここまで来れば、西の神々の手もおいそれとは、やってこないだろうと、下宿先を探した。
西洋かぶれの元家老の息子だと、でっち上げて、まだまだ頭の中が江戸時代の老夫婦の使っていない、裏の離れを手に入れた。
母屋の方を通らず、裏木戸で自由に出入りできるのが良かった。
木戸は竹林の中にあり、直ぐには見つからないようになっていた。
少し歪んだその戸には、壊れた閂が、垂れ下がっていが、豊比売が人では開かない様にしていたので、時々元の比売神様の姿になって、過ごしたりもしていた。
2人の気ままな暮らしが始まった。
伊勢や出雲では手に入らない、江戸時代からの洒落本を探しては、読んだ。
瓦版や浮世絵も手に入れた。
たちまち、ひと部屋は、和綴の本で、溢れた。
西洋の本もあったが、比売達の琴線に触れるものはなかった。
ガラリと変わった表面と昔ながらの裏面の両方を楽しむには、良い時代だった。
廃仏廃寺で仏教が追い詰められ、神社に統合され残った寺も回った。
幾ら神道に沿わないからと行って、いささか乱暴であるが、打ち壊された寺や仏像もあったのだから、残るだけましである。
寺の境内を堪能し、晩秋の池を巡った。
紅葉が散りゆく中を歩くのは気持ちの良いものだ。
五色の布が、冬の到来に揺れている。
明治政府に酷い目に遭いながらも、寺の奥深く仏像は、佇んでいた。
《この子、花芽締に、似てるわね。》
《本当だわね。》
声に出さないで、比売2人は笑った。
本堂を外れると、渡り廊下の天井画が、はめ込まれている場所に案内された。
そこには、閻魔大王と牛頭馬頭が描かれた、地獄周りの絵図が絵物語のように、何枚も掲げられていた。
その先は極楽浄土が、描かれている。
仏の慈悲と天女の羽衣などが、美しい。
これらを打ち壊されなくて、良かったねと、比売神様達2人は、首が痛くなるほど、見上げていた。
連れてきてくれたのは、この地で月二回発行の『鮗中央新聞』の記者をしている長持祐助だった。
明治初期から乱立する新聞の中には、個人の資産だけで発行している物があり、部数も少なく、正に身内向け新聞だった。
豊比売が手慰みに書いた散文を、菊比売が投稿したのが、縁の始まりだった。
身元を隠す事の多かった時代なので、アッサリと偽の名で、豊比売の東海道の道中記が新聞に載ったのだ。
意外な人気に、次の時にもと交渉され、何となく今に至るのだ。
口が利けない豊比売に代わり、菊比売が中立になっていた。
身内向けとはいえ、なかなかの新聞だった。
ご丁寧に、2人は口髭まではやし、三文文士気取りで、似顔絵も載せてもらっていた。
その絵と紹介文を書いてくれたのが、祐助だったのだ。
「聞かれましたか。」
祐助が渋い顔をする。
「何か、ありましたか。」
2人きりの内証話を打ち切り、菊比売が祐助の方に顔を向けた。
「僕は元々、伊勢の近くの農村の出なのですが、親父から、馬鹿な手紙が来ていたんです。」
《あぁ、あの村長なら、知ってる。》
豊比売は祐助の妹から、大根のお汁をお椀によそってもらっていたのだ。
「政府の税の取り立てが、あまりに乱暴なので、訴えると、言うのです。
とんでもないと、キツく止めたのですが、もう無理だと、旗を揚げるそうです。」
今も昔も、旗を揚げたならそれは、百姓一揆に他ならない。
新政府はことの外、強引なやり方をして、世の中の仕組みを変えていたが、簡略的に税を取って、金を集める事にしたのだ。
財政難も手伝って、大急ぎで作られたであろうこの政策は、下々の者を仰天させたのだった。
そもそも税の下敷きにしたのが、前年度の米相場だったのだが、今年は相場が崩れて、米の値段がさがったのだ。
下がった米は、買い叩かれる。
とても言われたままの税を納める財産は、農民達には、なかったのだった。
変動する米相場なのだから、今年の相場で、税を納めさせていたならば、起こらなかった騒動だった。
「もうすぐ、決起するらしいのです。」
祐助は、両手を握りしめ、今にも地団駄を踏みそうだった。
「政府は、何を考えているのか。
農民に、余分な金などあるもんか。」
「祐助君。
声が大きいぞ。
誰が聞いてるかもしれんのに。」
真っ赤になった祐助の顔色が、みるみる青くなっていった。
「あなたがたでは、どうにか出来ませんか。
僕らじゃ上の者に、声も届かない。
役人は、政府の言った通りを、実行するだけで、民の立場を伝えてもくれないんです。
このままじゃ、どうなる事か。
虎は千里を走ると言うけど、駆けて親父の側に行って、止めたいんです。」
祐助の心の動揺は凄まじかった。
「時代が変わりすぎだな。
何だか、こんな政府に着いて行くのも、嫌になるばかりだな。」
菊比売こと、菊川和馬が、祐助を慰めた。
豊比売は、勿論、口が利けないので黙りを決め込んでいた。
「何とかしよう。
上に知り合いがいないわけじゃないしね。
しばらく待っていたまえ、祐助君。」
「有難うございます。
旗を揚げたら、もうどうにもならないかもしれませんが。
手を拱いて、いたくはないんです。」
「そうだね。
間に合うとよいんだがな。」
この一本気な青年の杞憂は、外れるどころか、大当たりしていた。
明治初期、元武士同士の闘いも小競り合いもあったが、それもやがて、おさまっていた。
平和になったらなったで、政府が改革に広げた風呂敷は、たたみ直さなければならなかったのだ。
いつの世も、闘えば銭は消える。
その後、元武士の身の振り方ばかりに目がいっていては、やはりこうなったのも仕方のないことかもしれない。
2人の比売神は、姿を人の世から消した。
祐助は、何処かに掛け合ってくれていると思っていただろう。
まさか自分が、直々に神にお願い事をしたとは、思いもしない事だ。
比売神達も、同様であった。
姿を変えていても、願われれば、神である。
2人は、千里を走る虎より速く、伊勢に引き返していた。
血気盛んな若者を中心に、いままさに一揆に加わろうとしていた、祐助の村を濃霧が襲った。
村の井戸という井戸から、煙る霧が漂い、辺りを白く閉ざしたのだ。
松明の灯りも、自分の足先でさえ、照らしてはくれない程だった。
道が見えなければ、村の外には行けない。
渦巻く霧の中で、村人達は、ここから一歩も進めないまま、3日が過ぎた。
村長も長老達も頭を抱えてしまっていたが、どうにも出来ない。
4日目に霧が薄れ出すと、近隣の村の話が、ようやく入ってきた。
それは、放火や打ち壊しや政府との衝突やらで、凄まじい事になっていたのだ。
ムシロや旗を掲げて、税の不平等を訴えながら練り歩く、などというものではなかったのだ。
「焼き討ちは、やりすぎだ。」
「人死にまで出たそうだぞ。」
出鼻をくじかれたせいもあって、この小さな山村から、この暴動に参加する者は1人も出なかった。
暴動が、どうにか収まったのは、政府が適切な金額を打ち出してきたからだった。
税を納める側が、政府に勝ったのだ。
豊比売は、そっと祐助の妹の枕元に立った。
種籾を、大事に増やすように、教えたのだ。
祐助が、村に帰ったのは、翌年の旧正月を祝う頃だった。
まだまだ、騒動の余韻があちこちにあり、焼き討ちされた役人の家や関係各所を回りながら、取材しながらの帰郷であった。
大勢が怪我をし、未だに捕まり牢屋に繋がれてもいたが、祐助の村からは、誰1人犠牲者が出なかった。
勿論、暴動に加勢できなかった事を悔しがる者もいた。
それでも大混乱の中で、静かな旧正月を迎えていた。
政府のやり方が間違っていたのは確かだが、巻き込まれなかったを知り、祐助はホッとしていた。
旧正月を過ごして、横浜に帰ると、2人から手紙が来ていた。
手紙には、約束は守ったと、短く書かれていた。
井戸から霧の出た話は、父親から聞いていた祐助だったが、それとこれを結びつけるような事は、なかった。
新聞は、伊勢の騒動を3回に分けて、大々的に取り上げた。
祐助の取材がものをいったのだ。
彼のスケッチも、焼かれた家や牢屋に入れられた人々を描き、世論に訴えた。
祐助は、風刺画を描いたのだ。
鮗中央新聞は、騒動記を世間に知らしめると、部数を伸ばしていった。
豊比売と菊比売は、天照から、お小言を、もらっていた。
それでも、人から直々に願い事をされては、断れないだろうと、あくまでも優しい天照大神だった。
振り回された女官長の花芽締も、もう怒ってはいなかった。
ただし、監視の目がきつくなったのは仕方のない事だろう。
今朝も、朝の支度をしてから、豊比売は菊比売が遊びに来ている部屋に急いだ。
長袴が、まどろっこしい。
男衆姿の時のズボンが、楽だった。
ノンビリした顔で、菊比売が高座に座っていた。
「待ったかしら。」
「全然。
まあ、やっぱり、横浜の下宿生活よりは、退屈だけどね。」
「そうね。
でも、沢山本を持って帰れられたから、当分は、読み物に困らないわよ。」
ちゃっかり者の比売達だったのだ。
「あの暮らしは、楽しかったけど、ヤッパリ人に願い事を、されちゃったわね。」
「比売神だって、ばれてないはずなのにね。」
ケラケラと2人の比売神は笑った。
豊比売の口から落ちた小麦を白ねずみが、升に集めていく。
菊比売が、お菓子のお盆から、干し菓子をつまみ上げながら、ポンと口に運んだ。
「そうよね。
頑張って、変装したのにね。
意外と人って、神様が、わかるのかしらね。」
隣にペタンと座りながら、豊比売も菓子に手を伸ばした。
華菜緋が、茶を点てて運んで来る。
それを追うかの様な風が、睡蓮の香りをフワリと辺りを染めてから、スッと通り過ぎて行った。
「お前にも迷惑かけちゃったわね。」
まだまだ見習女官の華菜緋は、真っ赤になって、返答も満足に出来ないでいた。
「菊ちゃん、あまり虐めちゃ駄目よ。」
華菜緋は、いえいえと頭を振った。
「無事にお戻りになられて、それだけで。」
それ以上は、言葉にならず、お茶を置くと、頭を下げたまま、にじりながら、衝立の陰に、引っ込んでいった。
「良い子よ、華菜緋は。」
2人の比売は、美味しくお茶を飲んだ。
「ほら、見て。」
豊比売の手の上に、フワリと新聞が現れた。
祐助の風刺画が、載っている。
政府の不平等を、訴える2人の紳士は、まぎれもなく、口髭を生やした2人の比売神のあの姿だった。
その周りで、演説を聴いている町人達は、祐助の村の人々のようだ。
さりげなく、あの妹も描かれていた。
「米からお金に、税は変わったんだわね。
なんて、目まぐるしい時代かしら。」
薄絹のサラサラした音が、新聞紙の上を滑る。
「人の世は人の手にだわね。
いやでも、この世は、変わるものなのね。」
一枚二枚と紙面をめくっていた、菊比売の手が止まった。
「これ、これ、これは。」
思わず、パンパンと新聞を叩いた。
「しっ、今度は菊ちゃんが、喋っちゃ駄目よ。」
「何でよ。
口から粟吹いたりしないわよ。」
新聞を振り回して、菊比売が豊比売を追いかける。
女官長の花芽締が見たら、卒倒しそうな、お転婆な比売神様達だった。
あれから豊比売は、コッソリ祐助に手紙を出していたのだ。
それが、小さな雑記になって、載っている。
豊嶋賀山のペンネームは、我儘な我を賀に変え、その上、山の様に動かないと、そんな思いでつけた名前だと、豊比売は笑った。
「手紙なんて、抜け目ないわね。」
「ね、華菜緋は、良い見習女官なのよ。」
菊比売が、あら、と気づいた。
「そう、そういう事なのね。
豊比売びいきなのね、あの子。
あ〜ぁ。
楽しかったものねぇ。
結局、人の世から、離れられないわね。」
「形は変わっても、ね。」
菊比売が、雑記を声に出して、読み始めた。
今度はそれを止める為に、豊比売が追いかける。
その下に、あの村の話が小さく載っていた。
あの日、祐助の妹に渡した種籾は、良い酒米になり、この村で酒作りが始まったのだ。
元々、黎明な清水が溢れる里だったので、酒造りにも、適していた。
県令からの直々のお達しもあったので、事はスンナリと決まったのだった。
小さいながらも、酒蔵の当主になった村長の似顔絵が、祐助の手で描かれ、添えられていた。
あの騒動から、わずか3年が過ぎていたが、この時代は、まだまだこれからであった。
今は、ここまで。