小鳩くん
小鳩くんというのは、わたしが勝手に呼んでいるだけで、彼の本当の名前は古内という。いつも会社でお世話になっているところが「小鳩印刷所」で、小鳩くんはそこの営業さんだった。「小鳩印刷の古内です」と言って名刺を差し出した左手の小指に黒いシミがついていたのを覚えている。
小鳩くんはわたしの勤めている会社のロゴが入った袋や封筒を持って来てくれる。従業員の少ないこの会社で受け取るのはいつもわたしだった。
「いつもありがとうございます」と業務用の笑顔を浮かべるわたしに、小鳩くんはとてもじゃないけれど業務用とは思えない満面の笑みで「こちらこそお世話様です」といってスタスタと営業用のくすんだ白い軽自動車に戻って行くのだった。
その様子を見て、隣で(仕事中なのに!)小説を読んでいる後輩のマコちゃんに「小鳩くんて草食系だよね」とこそこそと言うと、
「小鳩くんて誰ですか」
と言われてしまったので、小鳩くんというのはわたしだけのあだ名なんだなーなんて思ったのだった。
それで、小鳩くんといえば、つまり、仕事上でお世話になっている人ってだけだったのだ。
そんな小鳩くんが今、目の前にいる。
テーブルの上には海老蒸し餃子と、青菜炒め、そしてビールが二つ載っている。小鳩くんはにこにこと笑っていて、もともとあまりぱっちりしていない目がさらに細くなっている。その光景がゆらゆらと白い湯気に覆われて、頼んでいた五目ラーメンが来たことに気づいた。
「えっと、先にいただきますね、」
「はい、どうぞ」
ぱちん、と割り箸を割ってまずはキクラゲを食べた。「キクラゲ、好きなんですよね」と呟くと「僕もキクラゲ好きですね」と返って来た。それからすぐに彼が頼んだのであろう上海焼きそばがテーブルに置かれたのだった。
しばらく二人でずるずるぱくぱくとメイン料理を片付ける。ちらりと視線を上げると、小鳩くんの小指にはシミなんてついていなかった。あれは、インクがついたあとだったのかな。
「よくこのお店にはいらっしゃるんですか」
「よく来ますね。自宅から近いし、安いし、おいしい」
「こば、あ、えーと、おうち、この辺なんですね」
「ほんと、すぐそこなんですよ」
危ない、危ない。思わず小鳩くん、なんて言いそうになってしまった。失礼もいいところだ。
ジョッキに半分ほど残っていた生ビールを一気に飲み干して、にっこりと笑う。うまくごまかせただろうか。
「吉田さんは、」
「はい」
「この辺にお住まいなんですか?」
吉田さん、というのはわたしの名字なのだが、小鳩くんに呼ばれるとなんだか違う名前のように聞こえる。小鳩くんの、低くはないけどかすれた声はなんだか色っぽく聞こえる。
相席オ願イデキマスカ、と片言の声がした。わたしと小鳩くんの座っている席ではなく、また別の席のようだ。ついさきほど、同じように相席をお願いされて、断らなくてよかった、なんて頭の片隅で思いながら大きめの声でしゃべる。
「混んできましたね」
「そうですね」
「わたしも、家はこの辺です」
「あ、そうなんですね」
「で、ここの次に気に入っている、うまい紹興酒を出すお店があるんですけど」
「それはいいですね」
今更ながら、どちらが頼んだか分からなくなった酢豚をつつきながら、追加でもう一杯ビールを頼む。あ、僕も一つ、と小鳩くんが言う。
「小鳩くんもご一緒にどうでしょうか」
紹興酒、と続ける前に、彼はひっひと笑い出した。なんと小鳩くんは引き笑いをする人だったのか。男の人にしては細い眉毛がくねくね動くのを見ていると、笑いが収まったのか小鳩くんがしゃべりだす。
「僕は、吉田さんの名前をきちんと覚えていたんですけどね」
「へ」
「小鳩くんて、僕のことですかね」
「あ」
うっかり。少し熱く感じる首の辺りを抑えると、小鳩くんはまたしても、ひっひと笑った。
タイミングよく「オマチドオサマ」と置かれたビールを砂漠で水を得たみたいにぐびぐび飲む。しまった。ほんと、うっかり。
「すみません。古内さんて言うのは、覚えているんですけど、どうも顔が小鳩くん顔なんです」
「それは、フォローにもなってないですけど、面白いですね」
「墓穴掘ってます?」
「深さ500メートルくらいです」
ま、いいんですけどね。とまだ笑いながら小鳩くんはビールをぐいっと飲み干した。おお、いい飲みっぷり。
「吉田さんがよければ、紹興酒、飲みに行きたいです」
「あ、はい。瓶から直接いれてくれる、いいお店なんです」
「それは、楽しみですね」
しばらく目の前のビールの泡が上下するのを見ていたけれど、えーいと一気に飲み干す。大学時代、スポーツサークル潰しの通り名を欲しいままにしていたのはだてじゃない。素早く酢豚とピーマンを口に運ぶ。
小鳩くんはそんなわたしを見て、また引き笑いをすると、するりと自然な動作で会計をしに行った。
「紹興酒は、吉田さんがおごってください」
「まかせてください」
特に遠慮もないわたしはそれに甘えると、意気揚々とお店のドアを開けたのだった。数歩歩いて振り向くと、小鳩くんがにこにこと笑いながら続いて店から出て来た。
「わたし結構お酒好きなんですけど」
「僕もです」
「小鳩くんが潰れたら、お持ち帰りしていいんでしょうか」
ふわふわした頭で大胆な発言(自分でもそう思うのだから、つまりこれは相当はしたない言葉だろう)をすると、挑戦者は今までの引き笑いと違い、なにやら不適な笑みを浮かべて言う。
「臨むところです」
なんだか二人とも台詞と顔が似合ってなくて、顔を見合わせて何秒後かに盛大に吹き出してしまった。休日明けに小鳩くんやわたしがどんな顔をしているのかと想像しながら、わたしたちはおいしいおいしい紹興酒を飲みに歩き出すのだ。