表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

あたたかな冬

作者: kleanrtk

inspired by 伊藤かな恵/サボテン


 待ち合わせたはずの駅前で、約束の午後二時は、もう三十分も前に過ぎていた。

 午後二時という時間は、人と待ち合わせるにはあまりにもありきたりだったから、私の周囲では、次々に笑顔が花を咲かせて、そしてどこかへ去っていく。私は何度も携帯電話を取り出しては、何をするでもなく鞄に戻す。メールをしてもいいし、電話をかけてもいいはずだけれど、メールの文面は思い浮かばないし、電話口で、おそらく約束を忘れている彼に浴びせるべき言葉も見つからなかったからだ。

 やがて改札口から、何度目になるかわからない人の波が押し寄せてきたとき、私は今日の待ち合わせがきっと実らないことを悟り、一時間近く坐ったベンチから立ちあがった。十一月の風は冷え切っていて、容赦なく私の心を吹き抜ける。鳴る気配のない携帯電話を、鞄からポケットに移して、私は繁華街の入口に建つショッピング・モールへと歩みを進めた。


 そうして、結局、私は午後九時の喫茶店で、文庫本を眺めている。読んでいるのではなく、眺めている。友人に勧められた、その流行りの小説は、別のことで満たされている私の頭に押し入って来るほど、魅力あるシナリオを持ってはいなかった。パラパラと薄いページをめくるたび、節操のない男性主人公の言動が鼻につく。

 彼がこのごろ忙しいということは、わかっていた。

 大きな仕事を任せられたという話を、彼が楽しそうにしていたのを思い出す。仕事と私とどっちが、なんて陳腐なことを尋ねるつもりはなかったし、お互いに社会的責任があるということも理解していたから、たとえば、今日彼が約束を忘れてしまったとしても、そのことをしつこく責めようとは思わない。それでも、彼にとっての今日の約束が、大して意味のないものだったと思われることは、私の心をいくらか苛んだ。

 ティーカップの横に置いた携帯電話が不意に光り、その振動が木製のテーブルを鳴らす。一瞬、心を躍らせた自分がいることには、気付かないふりをした。そして、至極いつもどおりに、事務的な作業をこなす気持ちで携帯電話を開けば、そこには思った通りに、たぶん、心の底では違う結果を望んでいたけれど、登録しているメール・マガジンからの配信が表示されているだけだった。失望の大きさは、先行していた期待の大きさに比例する。そういうわけで、できるだけ期待しないで確認したはずの画面だったが、やはりそれは、心を苛む何かのエサになった。私はパタリとそれを折りたたみ、鞄の中の深いところにしまい込んだ。

 閉店時間が近づき、次第に店内の人口密度が下がる。いつの間にか、禁煙席に坐っているのは、私と一組の男女だけになっていた。冬の気配が濃くなるこの時期、夜の喫茶店でひとり佇む私と、温かい空気を惜しげもなく放つ彼女らの間には、柔らかいが芯のある壁が立っているように感じられる。冷めきった紅茶を置き去りにして、私は席を立った。


 暖房の利いた店内から外へ出ると、きいんとした空気が、火照った頬に心地よい。少しずつクリスマスの予兆を含みはじめた街路を、私は早歩きに駅へと進んだ。もやのかかった心の外側で、世間は何事もなかったように回っている。

 くたびれた会社員に囲まれながら、自宅の最寄り駅で電車を降りる。ほんの数時間前に、心に期待を飼いながら電車に乗り込もうとしていた私が、反対側のプラット・フォームで、いまの私を見ている気がした。それは憐みの目か、同情の目か、あるいは蔑みの目か。すぐにあなたも突き落とされるんだから、そんな汚れた台詞が喉にわき上がる。

 駅の南口を出て、少し歩いたところに、絵本から出てきたような外装の洋菓子店がある。期待と戯れていた頃の私が、彼と一緒にホールケーキを予約した店だ。それが誕生日のためのものだということが、一目でわかるようなケーキを、一人で受け取りに行くためには少々勇気が要る。すでに代金は支払っているし、意図的に受け取るのを忘れてしまっても、仕方がないという気もするけれど、その決断を下すための勇気も、私には足りていなかった。


 結局、今日という一日はなんだったのだろう。慣れ親しんだ借家に帰り着いて、可愛らしく彩られたケーキの箱を冷蔵庫の上に置いてから、私は赤い合皮の張られたソファに身体を沈めた。そのまま、ごく自然に身体は横になろうとする。私はそれに逆らわないことにしていた。天井をぼんやり見るうち、ぐるり、ぐるり、オレンジ色の照明に、想いは巡る。

 もともと記念日だとか、特別な日だとか、そういうものにはこだわらない性格と一緒に、今まで生きてきたつもりだった。どの一日だって、平等に大切な二十四時間でできている。ある一日に、他とは違う特別な意味を持たせるのは、単にそれを、普段はなかなか踏み切りきれない行動の口実にしたいだけとしか思えない。だから、今日の約束だって、別に特別なものじゃないはずだ。たまたま、私の誕生日だと言われている日にちに、逢いたくなって、ついでだからケーキも予約した。今日という一日は、ただそれだけのことで、そこに偶然、彼の忙しさがぶつかってしまったことは、そこまで重要な意味を持っていない、はずだ。


 閉じたまぶた越しに伝わる柔らかい灯りが、そのまま思索に沈んでしまいそうだった私を引き上げた。時計の針の、一秒ずつ歩む足音が部屋に響く。私はソファから背中を起こし、手帳と携帯電話を、鞄から取り出してサイドテーブルに置いた。一応、というつもりで、メールと着信は確認したけれど、求めていたものは見当たらない。


 残り二時間弱になった今日、このあとやらなければいけないことを考える。ひとつには、入浴して、化粧を落とすこと。もうひとつには、明日のスケジュールを再確認しておくこと。さらに、せっかく買ったケーキを、無駄にしないこと。それを幾分かでも保存するためには、冷蔵庫に入れておかなければいけないけれど、ケーキは冷蔵庫に入れると不味くなってしまうものだ。少しでも、美味しいまま食べておきたい。――漫画やドラマのヒロインならば、そんな、いわば惨めさの象徴とも言うべきケーキは、捨ててしまうのかもしれないけれど、現実に生きている私は、そんな風に割りきれなかった。

 動きたがらない身体を引っ張るように立ち上がって、冷蔵庫上に置いたままにしたファンシーな紙箱をダイニングテーブルの上に移す。両側面の留め具になっている部分を、丁寧に外して、上蓋を持ちあげると、箱に優るとも劣らず繊細に装飾された、小さなお城が現れた。甘い匂いが、ふんわりと鼻をくすぐる。


 備え付けてあった数本のロウソクを除け、中央に陣取る砂糖菓子を持ちあげてから、私はその白い円にナイフを入れた。降り積もった粉雪を裂くような、さくり、という音がした。二度、三度、純白だったクリームに直線が走る。六つに分かれたうちのひとつを、シンプルな小皿に移して、私はそのメルヘンチックな箱を冷蔵庫にしまった。皿にちょこんと乗った白い欠片の上では、艶々しい苺が寂しげな顔をしているように見える。

 ふんわりとした生クリームに、照明を照り返す銀色のフォークが刺さると、指先に柔らかな感触が伝わる。それは、美味しいはずだ。雑誌でも紹介されるような人気店の品物なのだし、くだんの洋菓子店の前を通りすがるたび、食べてみたいと思っていたものだ。だから、それは美味しいはずなのだ。けれども、予想通りのやさしい味の中には、微かな苦さがあるような気がした。


 濡れた髪を乾かした私は、友人からの誕生日祝いのメールにお礼の返事をして、明日起床するべき時間に目覚まし時計をセットしてから、ベッドに入った。アナログ式の目覚まし時計は、その針の形を、もっともシンプルな一直線にしようとしている。もうすぐ、誕生日はおしまいだ。二十代も半ばになって、誕生日に幻想を抱くことが、そもそも間違っていたのかもしれない。トナカイは北のどこかにいるけれど、サンタ・クロースは、本当はどこにもいない。十二月二十五日に、魔法がかかっていないことは知っているのに、十一月二十六日の魔法を信じるというのは、論理的ではないように思える。


 私は暗く深い天井に向かって、小さく息をついた。


 まぶたを閉じてから、数分後だろうか、数時間後だろうか。渦を巻く意識の先に、ずっと待っていた色の光が差した。真夜中の静寂に包まれた私の部屋に、振動音が響く。逡巡の後、私は目を開けて、枕元に置いた携帯電話に布団の中から手を伸ばした。指先に伝わる震えを感じながらそれを開くと、そこには、望んでいた光の名前が発信者として表示されていた。

 再び躊躇ったものの、私は通話のボタンを押した。そして、一般的に電話をかけるときと同じように、その小さな機械を耳に当てる。息を切らした様子の彼の声が、スピーカーから流れ出した。背景に聞えるざわめきと、聞き馴染みのあるアナウンスから推測するに、彼は駅から電話をかけているのだろう。


「――ごめん、……今日、約束だったのに」

 慎重に言葉を選ぶように、口ごもりながら彼は詫びを告げる。

「……別に、気にしないで。仕事なら、仕方ないよ」

 私の声は、意図したより暗かったかもしれない。そのせいだろうか、彼は謝罪を繰り返した。

「大丈夫だから、本当に……。私、もう寝ないと――」

 その声を聞くだけで、心はざわついた。鼻の奥が、じいんと熱い。

「もちろん、忘れてたわけじゃないんだ。ただ、朝からどうしても抜けられなくて……、電話の一本もかけられればよかったんだけど――」


 ぜんぶ、言い訳。ぜんぶ、ぜんぶ、言い訳じゃない。

 今日、あなたに会えなかった。その事実は、どれだけ声を聞いたって、変わらない。

 あなたは、会いに来てくれなかった。そのことも、同じ。


 だけど、そのことはもうどうだっていい。

 だから、そんなに苦しそうな声を出さないで。

 あなたの言葉に、泣かされるなんて絶対に嫌だから。


「だから――、奈帆子?」

 彼は、いつも私の名前をやさしく呼ぶ。嗚咽をこらえる私の頭を撫でる、そのあたたかい声。私がまだ幼かったころは、父がよくそうしてくれた。あの少女は、少しばかり冷めた子どもだったけれど、父の腕に包まれているときだけは年相応に笑っていたように思う。そして大人になってもまだ――、ほんの少し、斜に構えた性分が抜けきらない。まっすぐ前を向くためには、誰かの助けが必要だ。

「……俺、今から行く。奈帆子が会いたくなかったら、ドアを開けてくれなくていい。だけど一度だけ、ベルを鳴らすから――、だから、ちょっとだけ起きてて欲しい」

 夢見がちで、陳腐で、現実味のない提案だ。カッコつけた言い回し、のはずなのに、どこか締まらない言葉。もし、この筋書きがドラマだったなら、脚本家に次の仕事は来ないだろう。役者が困ってしまうし、観る方だって恥ずかしくなるに決まっている。私は、ただ無言で頷いた。彼に、伝わったかはわからない。


 通話が途切れると、無機質な記号が音になって流れた。暗いままの部屋をしばし満たすそれは、どこか怪談めいているように思える。静寂が支配を取り戻してから、私ははっとして待ち受け画面に目を向けた。日付は、まだ十一月二十六日のままだった。あと、十分ばかりの猶予がある。

 鼓動が速くなっているのを感じた。私、どきどきしている。ほんの少し声を聞いただけ――、頭では、大したことじゃないって思っていても、こんなにも心は正直だ。


 だから、少しだけ。待ってあげても、いいなって思った。

伊藤かな恵さんの楽曲『サボテン』より着想。

せつない曲調に少しでも近づけていたらいいなあ、と思います。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ