絶望 〜Noir〜
目を覚ますと、俺はどこかの寝台に寝かされていた。躯が鉛のように重く、動けない。目が霞み、さほど遠くもない筈の天井すらまともに見えなかった。
ここはどこだ。俺は何故ここにいる。
無意識のうちに僅かに身じろぎした途端、全身に激痛が走った。
「……っ!」
思わず、声にならない悲鳴を漏らす。と同時に、徐々に記憶が戻ってきた。
フウを追って魔法陣に引きずり込まれた先で、この上なく憎い化け物に叩きのめされ、何らかの魔術を掛けられ、その際の激痛と熱に耐えきれずに意識を失ったのだ。
どうやらあの後、またどこかへ移動させられたらしい。
そこまで考えて、余りの頭痛に耐えられず、思考を一旦止めた。
焼けた鉄の棒を脳に直接捩じ込まれたような痛みに、思考も五感も削がれていく。少しでも鎮めようと努めて呼吸を深くゆっくりと繰り返すも、時を追うごとに酷くなっていく。
痛みに呻きを漏らしかけて、喉が酷く渇いている事に気が付いた。今直ぐ水が欲しい所だが、躯が動かせない以上どうしようも無い。
無様な自分に内心奥歯を噛み締めたその時、部屋のドアが開く音がした。人の気配が入って来る。
気配は、俺の方へ歩み寄って来た。霞む視界に、華奢な輪郭が映った。
「……お目覚めですか」
柔らかな声が、耳鳴りの酷い俺の耳に、辛うじて届いた。何か言おうと口を開くも、急に頭が強く痛み、呻く事しか出来なかった。
「大丈夫ですか? 何か、私に出来る事は……?」
俺を心から心配しているかのようなその声に、必死で声を絞り出す。酷く掠れた、力の無い声が出た。
「……み……ず……………を……………」
「……水、ですね。少し待っていて下さい」
何故か躊躇うような間を置いた後、少女はそう言って、俺の視界から消えた。少しして視野に戻って来た少女は、俺の唇に何かを押し当てた。
「どうぞ」
言葉と共に、冷たい液体が口に流れ込んで来る。上手く機能しない喉で、必死になってそれを飲み下した。
「……!」
顔を強く顰める。水を飲み、潤う筈だった俺の喉は更に渇き、疼き始めた。
「大丈夫ですか?」
心配げに屈み込んで来る少女と、白い靄越しに目が合った瞬間、頭が脈打つように激しく痛んだ。
「……ぐ……う……」
声が漏れる。奇妙な拍動が身の内から沸き上がり、痛みでぐらぐらする頭を強く揺さぶった。次第に意識が朦朧としていく。
駄目だ、と頭の片隅で声が聞こえた。今意識を失えば、取り返しのつかない事になる。絶対に意識を手放すな、そう叫んでいた。
「しっかりして下さい。水、まだ飲まれますか?」
少女が先程よりも大きい声でそう言って、腕を掴んで来た。更に強い頭痛の波が襲いかかる。意識が大きく揺らいだ。
——駄目だ、呑まれる——
抵抗しろと本能が叫ぶが、その声すら聞こえなくなっていく。次第に、思惟が溶けていくのを感じた。
「聞こえますか! 返事をして下さい!!」
切迫した声で少女がそう言って、俺に顔を近づける。霞のかかった視界でさえ、その翡翠色に輝く瞳がはっきりと見える距離になった途端、突き刺すような頭痛が脳髄を貫いた。
視界が赤く染まる。痛みに何もかも飲み込まれていく中、消えゆく意識の片隅で、少女が小さく悲鳴のような声を漏らしたのを、聞いたような気がした。
どれくらいの時間が経っただろうか。潮が引くようにゆっくりと頭痛がおさまり、目の前の赤い霧が徐々に晴れていった。同時に、意識もはっきりして来る。
完全に視界と意識が元に戻ったとき、何かが倒れかかって来た。
いつの間にか身を起こしていた俺は、咄嗟にそれを支えた。視線を落とし、それの正体に気付いた時、言葉を失った。
銀色に輝く髪の向こう、白い首筋に、何かが噛み付いたような赤い痕が2つ。俺の腕は少女を捕らえるように抱えており、少女は明らかに俺に引っ張られて拘束されていたように見える。
いつの間にか、躯が大分軽くなっていた。喉の乾きが解消されており、口の中には鉄のような味が広がっている。唇に触れると、指先に赤いものが付いた。
「…………何…………?」
指先を見つめたまま呆然と呟いた時、歓声が耳朶を叩いた。
「成功だ! 我等の同胞よ、歓迎する!!」
顔を上げると、俺に魔術を施した吸血鬼が、口角を上げて手を叩いていた。奴の後ろには、奴の仲間がそれに倣って、手を、叩いて、いる。
——まるで俺を、歓迎、しているかの、ように。
「……何、を……言って…………」
「分からないか? その娘は人間で、お前は今、その娘を餌として選んだ。戦いぶりからしても、我等には詳しかろう。我等の新しい——同胞よ」
その言葉に、弾かれたように少女に視線を戻す。少女は青白い顔で、力無く目を閉じ、頼りない呼吸を繰り返している。
——目の前の光景が消える。代わりに見えるのは、幼い少年。
『起きて、お願いだ! 目を、目を開けて!』
既に事切れた少女を抱え、必死で揺さぶり声を掛ける。少女の顔には血の気が無く、瞼が力無く降りていた。
それでも呼び掛け続ける少年に、哄笑が浴びせ掛けられた——
「……嘘、だ」
「嘘ではない。お前ももう、分かっているのだろう? お前が今、行った事の意味を。お前が既に——」
「嘘だ!!」
喉が痛む程の叫びとともに、魔力が吹き荒れる。轟音を伴う暴風の中、吸血鬼の声は不思議とよく聞こえた。
「現実を受け容れろ! 否定した所で、何も変わらない! まあ、ゆっくり理解する事だな! お前が——」
「黙れ!」
更に魔力が激しく吹き荒れ、吸血鬼どもの気配が遠ざかる。そのまま奴らを切り裂こうとした時、冷たい手が、俺の腕に触れた。
視線を落とすと、翡翠の瞳と目が合った。
「……駄目、です。それ以上は、貴方の命が危ない。……餌として、言わせていただきます。……お願い、もう、やめて下さい」
その言葉に、俺の思考は、認めたくなかった結論に、辿り着いてしまった。
俺は、渇きを解消する為に彼女の血を飲み、彼女を餌とした。それは人の身にできる事ではなく、化け物でもそれをするのは、ただ1種族のみ。
——俺はもう、人ではなく、……吸血鬼、だ——―
「出て行け!」
喉が張り裂けんばかりに絶叫し、俺はその華奢な躯を吸血鬼ども目掛けて突き飛ばした。よろめくように奴らの腕に飛び込んだ少女は、俺を戸惑いがちに見つめた。
「あの、私と離れては、貴方は——」
「出て行け! 今すぐ、俺の目の前から、失せろ!!」
もう1度叫んで、側にあった物を投げつける。苦もなくそれをはたき落とした吸血鬼は、口元を歪め、少女を連れて部屋から出て行った。鍵のかかる音が聞こえる。
結界を張って誰も入れないようにして、俺はベッドに倒れ込んだ。強く強く、破れかねないほど強い力でシーツを握り、歯を食いしばる。
目に浮かぶのは、何よりも大切だった少女の末期。感じるのは、生々しく残る血の感触、そして、それを当然のように受け容れ、喜ぶ、軀。
「—————————————!!」
吠えるような叫び声を上げて、俺はそのまま気を失った。