意思 〜Noir〜
お兄様の後に続き、石造りの廊下を歩いて行く。向かう先は、お父様のお部屋。
この家に、もう1度足を踏み入れられるとは思っていなかった。どのような事情があろうとも、餌となった人間は忌避され、人里の中では生きていけない。そもそも、飼い主である吸血鬼が人の中で生活するわけにはいかないのだから、常に側に居なければならない餌が、戻る事なんて絶対に不可能。だから、諦めていた。家族にも、学校の友人にも、もう2度と会えないのだと。
それなのに、こうして、ここに帰って来る事が出来た。もしお父様が私と彼を匿うことを反対したとしても、帰って来られただけで、もう十分だと思える。
でも。
ちらりとお兄様の顔を窺う。お兄様は先程から、緊張しながらも、強い意志を宿した顔をしている。本気でお父様を説得する気があるのは、明らかだ。
だったら、私も、精一杯説得しなければ。私もノワールも、ここに居られなければ、行き先がないのだから。
屋敷の中央には吹き抜けの階段。私達の家は3階建てで、お父様の部屋は3階だ。3階には、お父様の部屋の他には、お母様の部屋と書斎。2階には私達子供の部屋と客室、1階には応接間や食堂の他に、厨房や使用人達の部屋などがある。
階段を上って、1階中央を望む廊下をぐるりと回った反対側、お父様の部屋の前に全員が立つ。お兄様が深く息を吸い込み、ノックした。
「入りなさい」
中から声が聞こえて、私達は部屋に入った。
最小限の家具しか置かれていない、シンプルな部屋。お父様の素朴な性格そのままの落ち着いたデザインで、所々に、お母様の気遣いだろう、目を引く置物が置いてある。
お父様は、部屋の1番奥に佇んでいた。物静かな表情の奥に、何処か緊張したような色を隠して、私達を見つめている。
「……父上、ただいま帰りました」
お兄様の言葉に、お父様は静かに頷いた。
「お帰り、ヴィル。急に飛び出したとユハナから聞いて、心配した。行動の制限をしようとは思っていないが、どこか行くならば、せめて行き先を言い置いて行きなさい」
「……すみませんでした」
お兄様が素直に頭を下げる。お父様の言葉からは、純粋な思いやりしか感じられなかったから、反感を抱くことなく反省できたのだろう。これがお父様のやり方だ。
輝く金色の髪に、濃紫の瞳。炎と水を操るのに優れたお父様は、小さく微笑みを漏らした。
「まあ、座りなさい。長旅で疲れたろう」
その言葉に、心の中で苦笑する。確かに行きはそれなりに長旅だったけれど、帰りは一瞬だった。
お父様に促されて、私とお兄様は、部屋の真ん中に置かれたソファに腰掛けた。お父様もその向かいのソファに座ろうとして、ノワールとフウが立ったままである事に気が付いた。
「……どうした? 遠慮することはない、君達も座りなさい」
「いえ、その権利はありません」
ノワールが、いつもの冷めた口調でそう答えた。あまりに淡泊な態度に、お父様が面食らった顔をする。
まじまじと見つめるお父様を無視して、ノワールは私達に目を向けた。説明は一任する気らしい。
お兄様が、深呼吸した。今までで1番緊張した顔をしている。
「……父上。何も言わずに、まず僕の話を聞いてもらえませんか」
お兄様の真剣な様子に何か感じ取ったのか、お父様はノワールから視線を外し、居住まいを正して兄に向き直った。
「話しなさい、ヴィルヘルム」
堰を切ったように、お兄様が、私がここを出てからの事を説明し始めた。ユハナに私の事を聞き、居ても立ってもいられなずにここを飛び出て、スレイヤに襲われた時にフウに助けられた事。フウの実力を知り、私を助け出す協力を依頼した事。ノワールの依頼をフウが受け、吸血鬼達を全滅させた事。……私が、ノワールの、餌で、ある事。
お父様が息を呑んだ。ノワールを見上げ、続いて私を食い入るように見つめる。
「父上、まだ話は終わっていません」
何か言いかけたお父様の口を、お兄様が言葉で封じる。お父様は口を閉じ、お兄様に視線を戻して、無言で続きを促した。
お兄様の話は続く。ノワール達が異世界の存在である事、彼らにユハナを救う手立てがあり、行き場が無いことも考え、彼らをここに匿い、共に学校に通いたい事。
「父上、ミアは、確かに餌です。けど、事情が事情だ、隠すことが出来ます。餌になる前に吸血鬼が滅ぼされたと言えば良いでしょう。ですから——」
懸命に説得を重ねようとする兄の言葉を、お父様が手を上げることで押しとどめた。部屋に無音の時が降り積もる。
やがてお父様は、静かに立ち上がり、歩き出した。向かう先は——壁に掛かった、魔法具。
細身の剣の形をした魔法具の切っ先を、ノワールに向けた。彼は、黙って目を細めるのみ。
「抜きなさい」
お父様が、威厳ある口調でノワールに命じた。彼は、まだ動かない。
「聞こえなかったのか? お前の武器を、抜きなさい。魔法学校への編入を望むくらいなら、魔法具の1つは持っているはずだ」
「父上、彼は異世界の人です。その常識は、通用しません」
「そんな筈はない。この国の魔物を倒すためには、魔法具が必要だ。持っていなければ、吸血鬼を全滅させることなど出来ない」
予想以上に冷静にお兄様の話を理解していたお父様に、改めて畏敬の念を抱いた。
「……伺いたい。何をなさるおつもりですか」
ノワールがようやく口を開いた。それを聞いたお父様の躯から、強力な魔力が漂い始めた。魔力に込められているのは——強く、純粋な怒り。
「お前が、私の娘を預けるに足る男か、この目で確認したい。王の目を欺き、我が領地の民を欺いて、化け物をここに住まわせるのだ。信頼していいのか、娘を守るだけの力を持っているのか。はっきりさせなければ、とてもではないが、その提案は受け容れられない。……何より」
そこで1度言葉を句切り、今度は、はっきりとその怒りを顔に浮かべた。
「……私の娘の人生を狂わせたお前に、この屋敷に住まれるのは、正直に言って、不愉快だ。今そこで平気な顔をして私の前に立っていると言うだけで、私にとっては十分な戦う理由になる」
ノワールは、口端を吊り上げた。その表情のまま、惑わすような口調で尋ねる。
「——俺を殺せば、貴方の娘も死ぬ。それを理解した上で、武器を向けるのか?」
お父様は迷わず頷いた。
「私達は既に、ユハナの為に娘を失う覚悟を決めた。このまま吸血鬼をここに匿い、結果、この街の人々をお前が襲う事になれば、娘も傷つく。第一、そんな事をここ一帯の領主である私が認めるわけにはいかない。……例え、血を分けた娘であっても」
強く頑なな意思に、私達兄弟は口を挟めなかった。フウは先程からノワールに押さえ込まれている為、何も言えない。
再びの沈黙。殺気に近い怒りをまともに浴びながら、ノワールは無言でお父様を見据えていた。その顔には何の感情も浮かばず、ただ、お父様を観察しているように見えた。
我慢しきれずに、お父様が攻撃しようとした時。
「——お前達の父親は、素晴らしい人間だな」
嘘偽りない響きを持ったその言葉を発して、ノワールが右手を振った。何時かのように、その手に、漆黒の刃を持つ、曲線を描いた剣が現れる。
驚きに目を見張ったお父様に切っ先を向け、彼は宣言する。
「その申し出を受けましょう。ただし、ここでやったら貴方の部屋がめちゃくちゃになりそうです。どこかに、訓練場のような場所はありませんか? この屋敷内にあり、人目を心配しなくてすむなら、その方が良いでしょう」
冷静な判断に、お父様の怒気がやや薄らいだ。お父様は剣を引き、頷く。
「2階の奥に、魔法の練習場がある。そこなら、使用人に見られることもないし、何かを巻き込むこともない。ある程度魔法の被害を軽減する工夫がされているし、部屋も広い。そこで良いな」
「ええ」
ノワールが頷いたのを見て、お父様が真っ直ぐドアに足を向けた。彼に背を向けても、不意打ちされないのを確信しているかのように。
ノワールもまた、それ以上何も言わず、黙って後に続いた。フウが直ぐ後ろをついていく。
出遅れた私達は、顔を見合わせた後、慌てて2人の後を追った。




