驟雨の中で 〜Rêve〜
rêve=夢
霧雨の中、その少年は佇んでいた。
歳は、10代前半。闇を溶かし込んだような、真っ黒な髪と瞳。背は低く、異様なほど痩せていた。幼さを残すその顔は酷くやつれ、——闇が、巣くっていた。
「そろそろ、金がいる……」
年齢に似合わぬ冷たい声で呟き、彼は踵を返す。
生きる為の糧を得るために、彼は、他人の金を盗もうとしていた。その事に罪悪感を覚える事は、この数年で忘れた。
身を隠し、獲物を窺う獣の目で、彼は道行く人間を観察する。周りへの警戒を怠っている大人を探し、誰もが自分から注意を外す瞬間を待って。ただひたすら、目の前を通り過ぎる人々を睨み付ける。
やがて彼は、自然な動きで裏道を抜け出し、1人の老人に肉薄した。自然な歩調で歩み寄り、直ぐ側を通った自転車を避けるふりをして、老人にぶつかる。
老人がバランスを崩し、体勢を立て直す事に意識を向けた瞬間、彼は鮮やかな手際で財布をすり取った。
「すみません、大丈夫ですか?」
丁寧な口調で詫び、彼は頭を下げる。
「いや、大丈夫だよ。気にしないでくれ」
「すみませんでした」
彼は何事も無かったように歩き去る。あたかも偶然ぶつかってしまった1通行人であるかのように振る舞い、何気ない足取りで細道に曲がって、老人から距離を取った。
足音が大通りに届かない距離まで歩いてから、彼は走り出す。裏道の奥、まともな人なら近付こうともしない場所まで走って、彼は歩みを止めた。
今まで繕っていた、年相応の表情が消え去る。
「……何だ、これ。あのじじい、これしか持っていないのか?」
財布の中身を確認して、彼は吐き捨てた。財布の中には、2,3枚の紙幣と、ほんの少しの硬貨。見かけを裏切る少なさだった。
とりあえずありったけの現金を抜き出し、少年は金目になりそうなものを探す。その時、彼は妙なものを見つけた。
「……紙切れ? レシートでもないし、何でこんな所に入れているんだ?」
大人の手くらいの大きさの、縦長の長方形の和紙。そこには筆で何やら草書体で書かれていたが、彼には読めない。
大人ならば、それが神社などで売っている護符によく似ていると気付くだろうが、彼には当然分からなかった。
「……まあ、紙は高そうだし、売れば小金くらいにはなるか」
そう結論づけて、懐に突っ込んだ。財布は名前がないことを確認して、盗品を専門に取り扱う店で売ることに決める。残りのカードなどは、全て溝に棄てた。
「……さて、これで5日ぶりに、何かありつける」
これからの行動を頭の中で組み立てながら、彼が店を目指して躯の向きを変えようとした、刹那。
「ちょっと、聞きたいことがあるんだがね」
「!」
背後から聞こえた声に、彼は素早く振り返った。
声の主は、先程彼が財布を抜き取った老人だった。普通なら恐れをなして入ってくることの出来ない裏路地に、老人はまるで町中を歩くような様子で入り込み、彼に目を向けている。
少年の勘は鋭い。後を追われれば必ず気がつくし、何より、これだけ近くにいて気付かない事など、あり得なかった。
「……何でしょうか?」
警戒心を抱きつつ、上辺だけは丁重に答える。老人は、軽い口調で問いかけてきた。
「どうやら、大事なものを落としてしまったようでね。さっきぶつかった時、見なかったかな?」
「大事なもの、ですか? それが何かは分かりませんが、何かを落としたようには見えませんでしたよ」
さりげない口調を装って、彼はそう言った。嘘は言っていない。彼には、老人にとって財布が大事か金が大事か分からなかったし、何かを落とす所など勿論見ていない。当然だ、彼がすったのだから。
「そうだろうね。君の手口は見事なものだった。普通の人なら気付かんだろう。こんな所まで追う勇気のある人も、またいない」
そこで老人は言葉を切り、厳しい表情を浮かべた。
「金を取られただけなら、見逃していた。だが、財布には大事なものを入れていてね。それだけは返してもらわんと、儂も君も困る。返してくれないかな?」
「……何の事か、分かりませんね」
全て気付かれていたと分かった少年は、恍けるふりをしながらタイミングを計っていた。こうして自分の根城まで追ってきた以上、消さなければならない。それが、ここで彼が学んだルールだった。
「ああ、気付きづらいかな。財布の中に入れていた、和紙だよ。それさえ返してくれれば、お金は持って行ってもらって構わない。財布も好きにしてくれ。然程高価なものではないがね」
「一体何なんです? 僕は貴方にぶつかりましたが、何も盗っていませんよ? ほら——」
己の潔白を証明するようにして、少年は懐に手を入れた。次の瞬間、彼は大ぶりのナイフを鞘から抜き取り、老人に斬りかかった。
獲物を狩る獣そのものの俊敏な動きで、彼はナイフを振るう。大の大人でも反応しきれないほどの早さと、迷いのない動きで、老人の頸動脈目掛けてナイフが走った。
だが——
「……儂は危害を与えるつもりはないというのに」
溜息混じりにそう呟き、老人は無駄のない動きでそれを避けた。
攻撃を避けられるとは思っていなかった少年は、驚きと余った勢いで隙が生まれる。
老人の手が空を一閃し、少年の手首を打ち据える。痛みと痺れでナイフを取り落とした彼を、老人は押さえ込んだ。そのまま、手を少年の懐に差し入れる。
「っ、離せ!」
「落ち着きなさい。儂は本当に、金を取り返しに来たわけじゃない。……ああ、あった」
殺意を剥き出しにする少年を余所に、老人は彼の懐を探り、先程の和紙を取りだした。一通り確認した後、老人は少年を解放する。
「助かった、これをなくすと大変な事になるからな。手荒な事をして、すまなかった」
穏やかな空気さえ漂わせて、老人はそう言った。少年はやや戸惑いを顔に浮かべながらも、威嚇するように問いかける。
「……じじい、お前何者だ?」
「勘がいいな、君は。これだけのやりとりで、儂が君が今まで関わってきた裏の人間でもなく、かといって一般人でもないと気付いた。さっきの動きといい、こういう身の振り方を誰に教わったんだね? 随分手慣れていたようだが」
彼の問いかけをはぐらかすようなその言葉に、少年の漂わせる殺気が、より激しいものになった。
「答える義理はない。——死ね」
彼はじりじりと近付いていたナイフに飛びつき、再び老人目掛けてそれを振るう。老人の纏う空気が変わった。
「……どうやら君は、こうして人を殺したことが、今までに何度もあるようだな」
先程までとは打って変わった冷たい声でそう言って、彼の振るうナイフに手をかざす。
ガラスが砕けるような儚い音と共に、ナイフが砕けた。
「……何っ!?」
驚愕の表情を浮かべる少年を、老人は壁に押さえつけた。
苦しげに顔を歪め、それでも彼はもがき続ける。老人とは思えない膂力も身のこなしも、今の彼にはどうでも良かった。
「じじいお前、化け物、かっ!」
凶器を容易く砕いてみせるその様は、彼がかつて見た化け物と酷似していた。
「……化け物、か。なるほど、確かに君から見たらそうかもしれないな」
その呟きを聞いた瞬間、少年は憎悪の表情を浮かべた。濃密に煮詰められた負の感情を向けられて、老人は初めてたじろぐ。
僅かに緩んだ老人の手をすり抜け、彼は飛びかかった。武器もなく、ただただ憎しみを持って、彼は老人に襲いかかる。
「死ね、化け物!」
負の感情を目一杯詰め込んだ声で叫び、彼は老人を殴り倒した。そのまま組み伏せ、頸動脈を引き千切らんと手を伸ばす。
老人の首にもう少しで手が届くその直前、彼は唐突に動けなくなった。
「な!? くっ……!」
少年は慌てたように、しかし憎しみの炎をその目に宿したまま、目に見えない拘束を解こうと四肢に力を込めたが、躯はぴくりとも動かない。
それでも必死に拘束から逃れようとする少年の額に、老人の指が触れた。
「……!? う……」
少年の意識が、急速に薄れていった。老人を殺そうとする意思とは裏腹に、躯が勝手に、眠気に身を委ねていく。
「お休み、ゆっくり休むといい」
遠くにそんな声を聞いて、彼は闇に落ちていった。
少年が目覚めた時、彼は知らない部屋のベッドに身を横たえていた。
「っ、ここは……?」
起き上がった彼の顔には戸惑いしかない。まともな寝具で寝るなど、随分久しぶりのことだった。
「ん? 目覚めたかね?」
だが、声と共に部屋に入って来た老人を見た瞬間、彼の心は憎しみに満たされた。
「化け物! 何をした!!」
凄まじい形相で飛びかかる少年を、老人は包み込むように抱き留めた。彼は激しく暴れたが、体格差もあって、その腕は小揺るぎもしない。
「離せ!」
「少し、落ち着きなさい。君は誤解している」
「何をだ、化け物が!」
「それだよ。儂は化け物ではない。君から見ればそう見えるかもしれないとは言ったが、それを肯定はしていないだろう」
「屁理屈を言うな!」
老人の言葉にますます反発した彼は、敵意を剥き出しにした声で叫び、尚ももがいた。老人が溜息をつく。
「何度でも言おう。儂は、人間だ。化け物ではない」
「嘘付け! 人間にあんな事、出来るものか!」
「出来るとも。魔法、と呼ばれるものだ。先程のようにナイフを砕けるし、使い方によっては、化け物を殺すことも出来る」
唐突に、少年の動きが止まった。興味に駆られ、けれど敵愾心は未だ持ったまま、少年が聞き返す。
「……お前が化け物を殺す、だと? 嘘だ。出来るわけがない」
「出来る。化け物退治は儂の仕事だ。魔法の威力が分かりにくいかな? なら、もう1度見せてあげよう」
そう言って、老人は少年を離した。
彼は老人を襲わない。老人の言う魔法に、完全に意識が移っていた。真剣な目で老人を見つめている。
少年の視線を受けた老人は小さく微笑み、片手を掲げた。途端、彼が先程まで寝ていたベッドが粉々になる。
「……っ」
声もなく息を呑む少年に、老人が優しく声をかけた。
「納得できたかな? 勿論これは化け物の技などではなく、人間が長い年月をかけて編み出した、技術だ」
少年が老人に向き直る。その瞳に強い光を宿らせ、彼は鋭く尋ねた。
「その技術とやらは、俺でも使えるのか」
老人はやや躊躇った後、頷く。
「……そうだな、君には魔力がある。使い方さえ覚えれば、化け物を祓うことも可能だろう」
それを聞いた少年の目が、いっそう鋭い光を宿した。
「——ならば。その技を、俺にも教えてくれ」




