Epilogue 〜Noir〜
本日、2話連続投稿です(1/2話目)
歴史に刻まれた最終決戦が明けた夜から、4月。
小さな混乱を残しつつも、世界はこれまでの平穏を取り戻しつつあった。荒れ地と化した草原は復興され、交通が回復し、人々は以前と同じ生活を送っている。
あるいは、よりよい生活と言っていいのかも知れない。戦争で命を喪った者はほとんどおらず、一夜で終わった為に民の生活が苦しくなる事もなく。しばらくの厳重体勢はあったものの、戦に駆り出されないまま全てが終わり。
その結果、町外れの村が一夜にして滅びるような襲撃がなくなったのだから。夜に怯えて過ごす民が、減ったのだから。
……勿論、喪われた命は確かにあり、それによる悲しみがなかったわけではないけれど。それら全てを抱えて、私達は一歩一歩、前へと進んでいる。
神話のような戦いで、ヴァスト国王が斃れた後。その場で戦っていた吸血鬼達は全て死んでしまったけれど、人間の国の中で集落を作っていた吸血鬼達や、戦いの中で呪いを解かれた人々は生きている。
彼らは人間を決して襲わないと誓った上で新生ヴァスト国として再生しつつも、各国が派遣する騎士を監視体制を受け入れた。また新たな「魔王」が生まれないように。また国内で虐げられる人間が出ないように。
人と吸血鬼が手を取り合って、1つの国として再建されていく。餌の仕組み、より不幸な人が出ない方法が作れないか、国の上層部の方々が今も話し合っている。
各国間の関係を見直す話し合いはSランクを交えて行われ、今後の国交や協力して行っていく施策が順番に定められていった。
教会の在り方もその中で再度話し合われ、各国の監視を行う機関は必要であるが、そこに権力が集中しすぎるのも良くないとして、人員整理や法規の見直しが行われているそうだ。
政に関わる事をまだ許されていない私に見えない部分では、もっと沢山の変化があるのだろう。けれど、人間の興亡を左右する戦いがあったのが嘘のように、世界は平和を取り戻している様に感じる。
少なくとも、学院の授業が通常通り行われ、実習としてギルドの依頼を受けるのを許可される程度には。
ただ……それは表向きのものだったのかも知れないと、今更に少し後悔しているけれど。
「……さて、どうしましょうか」
困った気持ちで呟いて、私は魔法具を掲げた。
ベンとエマ、お兄様といつも通りに依頼を受けて。近場で魔物の討伐と採集を、とユーナで出向いた矢先。安全を確認されていたはずの森の側で、予想よりも遥かに多くの魔物達に取り囲まれた。
直ぐに体勢を整え、迎撃したまでは良かったのだけれど。吸血鬼という魔物の中でも頂点にいる存在の消失は、おそらく魔物の生態に大きな影響を与えたのだろう。本来ならばある程度手傷を負わせれば逃げていくはずの種族が血気盛んに私達を攻撃してくるせいで、私達はじりじりと追い込まれていった。
後衛を務めるベンと私で、既に応援要請の連絡は風魔法で済ませているけれど、応援が来るまではもう少しかかるだろう。それまではと必死で戦っていた私達は、気付けば分断されていた。
スレイヤの群に囲まれたエマが孤立し、慌てて助けに向かったベンとお兄様がイリーサールに襲われて。引き離されたと気付いた時には、私の周りにも沢山の魔物が押し寄せてきていた。
ひとまず障壁で攻撃を防いでいるけれど、このままでは押し切られてしまう。
「こんな事なら、下手な意地を張らずにエドワルト様の申し出を受けておくべきでしたね……」
後悔先に立たず。いつも四人で戦っているのだからと、着いてこようとした彼の厚意を断ったのは失敗だった。おそらく彼は、四家の後継者として何らかの情報を手に入れ、心配してくれたのだろう。
とはいえ、ここまでの危険な状況は予測していなかったかも知れないけれど。
「いえ、仕方ありませんね」
今は反省よりも先に、目の前の事。障壁が破られる前に、この魔物達を倒す為の魔法を。
すう、と大きく息を吸い込んで。魔法具に取り付けた台座を1度確認して、私は静かに詠唱を唱え始めた。
『万物の生きる源たる光よ』
ふわり、と光が周囲に満ちる。呼吸を整え、魔力を整えて、私は唱う。
『全ての命に祝福を。全ての敵に救いを』
光は私の周囲を回り、どんどんと眩くなっていく。そこに込められた魔力の量に反応した魔物達が更にいきり立つけれど、障壁を……首に提げた翡翠の魔道具を信じて、詠唱を続ける。
『この光は矢となり、槍となり、刃となりて、すべからく命を奪いし光』
光が明滅し、形を変える。幾つもの武器となって魔物に標準を定めた魔法の弦を引き絞るように、魔力を魔法具に込める。
『光よ——我が敵を——』
そうして、魔法を発動させる引き金となる最後の一音を発音しようとした、まさにその時。
——カッッッッ!
視界を白く塗りつぶすような眩い光が弾けた。思わず目を閉じてしまった私は、魔法が暴走してしまったのかと全身から血の気が引く。
けれど、そうであれば必ず起こる魔法の逆流も、魔力の暴走も起こらない。だったらこれは一体、と思って……ふと、気付く。
……知っている。この、どこか寒々しい気配を帯びた、魔力を。
一体何処で知ったものなのか、記憶を探ろうとして……私は、聞いた。
「——っ!?」
耳に馴染む声が、声にならない叫びを上げたのを。
「……え?」
呟いたのと、周囲の魔物一帯が綺麗に消し飛ぶのと、どちらが早かっただろう。
呆然と目を見開いた先。土煙がもうもうと立ちこめる中、魔物の気配は消え去っていた。代わりに、煙でよく見えない人影が、1つ。
「……っ、」
「……、」
焦燥の滲む呼気。1つ息を呑み込んで、私は、ふらりと歩き出した。
既に、魔法は放棄していた。だって、必要が無い。
この人の側ではいつもいつも、私は、守られて来たのだから。
「……ぁ」
風が強く吹いた。土煙を浚っていく強風が、私の髪を持ち上げて視界を阻む。手でそっと髪を押さえて見えたその姿に、小さく声が漏れた。
「ったく……」
黒で統一された上下。学院の制服と殆ど変わらない、飾り気のない服装。
長く細い指が掻きむしるざんばらの髪は、漆黒。折角、夜会の時に綺麗に切り揃えたのに、もう伸びてしまったらしい。
何が気に入らないのか、顔を顰めて。その瞳の色は、右が黒、左が金。彼が確かにこの世界にいた証のような、その色彩。
「……。ふふっ」
小さく、笑い声が漏れてしまった。尻餅をついたような姿勢が珍しくて。
彼は、声に気付いて私の方を向いた。記憶にあるままの無表情。けれど、ほんの少し見開かれた目は、綺麗に感情を映し出すのだ。
時間はさほど、経っていないはずだけれど。こうして、私を見る彼を正面から見ると、何故か強く……懐かしい、と感じた。
しばらく私を見つめていた彼は、やおら息を吐きだした。
「……成程」
低い声を落として。ゆっくりとした動作で、彼は立ち上がる。
数歩分の距離を開けて足を止め、私はゆったりと微笑みかけた。
「……お久しぶりですね。ノワール」
「多分、な。ミア」
そう言って彼は——ノワールは、軽く肩をすくめた。
「多分、ですか?」
「ずっと寝ていたから時間の感覚がない」
「え……と、こちらでは、4月ほど経ちました」
戸惑いながらそう答えると、ノワールは軽く顔を顰め、額に手をやる。その様子を見て、戸惑いながら尋ねた。
「あの……ずっと、と言いますと……?」
「ここに来る直前まで」
「は?」
目を見張った私に、苦い顔で溜息をついて。
「……目覚めるなり、胸ぐら掴んで転移魔術に投げ込まれた」
「……」
誰の仕業か……なんて、聞くまでもない。そんな無茶苦茶な真似をする男を、私は生まれてこの方1人しか知らない。
「……あの方は、相変わらずなのですね」
「相変わらずというか、更に磨きがかかっている気がする。完全に無防備な状態で魔物の群に囲まれるなどという目覚ましがあってたまるか」
「…………何だか、申し訳ありません…………」
私のせいでは無いはずだけれど、こうして魔物との交戦中だったのは確かで。何とも言えない気持ちで、頭を下げた。……後少し遅ければ攻撃魔法にも晒されていた事実は、胸にしまっておこう。
吸血鬼の王との、最終決戦。胸の前で手を組んで、私はただひたすらノワールの無事を祈っていた。だから、神話のような大魔法が朝焼けの空を覆った時には、良かったと安堵の息を漏らした。
終わったのだ。彼は、無事だ。ちゃんと、生きてくれた。
見える範囲でもかなりの怪我を負っていたから心配で堪らなかったけれど、地上に降りたノワールは落ち着いた様子で周りの人に指示を出していた。怪我人の把握、周囲の被害状況の確認、治癒魔法等の必要の有無。的確な行動指標を示されたお陰で、私達も大きな混乱なく動けた。
そうして、夜が明けた空の下、私達は国へ戻り。幾つも抱えた「これから」の問題について、ノワールは指示や助言を次々としていった。それらはどれもよく考えられていて、私達は感謝しながらそれに従って動けば良かった。
彼曰くの「後始末」があったからこそ、今の私達の平和はあるのだろう。
『あー、疲れたー!』
一通りの指示を出して、事態を収拾付けて。日がすっかり沈んだ頃、大きく伸びをしながらそう言ったフウと共に、ノワールは去った。
『本当に、大丈夫なのですか?』
『体調なら、大丈夫とは言えないな』
あっさりと言われて血の気が引いた私に、フウが横から口を挟んだ。
『そもそも前から大変だったもんねー、ノワ。無茶して無茶する為に無茶を重ねてたのは、ミアも知ってるでしょ』
『煩い。そのツケを今から払うんだから良いだろうが』
『え?』
さらりと言われた言葉に驚くと、フウが安心させるように頷いた。
『マスターのお屋敷でゆっくり療養するから、大丈夫。マスター、元気になるまで屋敷から出さないーって言ってたよ』
その説明にほんの少し渋い顔をしたノワールと、それを見て笑ったフウと、ずっと部屋で待っていた協力者の男は。本当にあっさりと、彼らの住む世界へと帰っていったのだ。
全く音沙汰がなかったから、どうしているのだろうと気になっていたけれど。まさかこんな形で再会するとは思わなかった。
「もう、良いのですか?」
「目が覚めたという事は、そうなんだろう」
首を傾げた私に、ノワールは言葉を付け加える。
「前に見ただろう、回復するまで目覚めない魔法を。あれを使われた」
「……ああ」
懐かしい。思わず目を細めて、私は小さく笑った。ノワールが軽く舌打ちを漏らす。
全ての始まり。出会ったばかりでぎこちない私達の間に入って、おどけた様子で空気を和らげてくれたピエール。彼が騙し討ちのようにしてノワールに休息をとらせたのが、遙か昔のようだ。
「あれから、1年が過ぎたのですね……」
懐かしむようにそう言うと、ノワールも黙って頷いた。
吸血鬼にさせられた彼と、治癒能力を買われ餌とされた私。最初の出会いは決して良いものではなかった。……特に、ノワールにとっては。
それから、本当に色々な事があって。沢山考えて、悩んで、彼の側で見届けると決めて。全てが終わった今、1年という時が流れた。
長いような短いような、そんな日々にしばし思いを馳せる。風が私達の間を流れ、静けさを際立たせた。
1年の間に変わったものの多さは、抱えきれないくらいあって。沢山、話したい事があったはずなのに、唐突な再会に、何を話して良いのか惑ってしまう。
「……あの、」
それでも何か言わなくては、という気持ちに急かされるように、声を出す。少し眉を上げたノワールは、黙って私を促してきた。
いつものように。私の、言葉に耳を傾けようと。
「……ノワール、は」
その、変わらぬ様子に背中を押されて。私は、思い付くままに訊いた。
「魔法士をやめたと、聞きました」
「そうだな」
軽く頷いて。ノワールは、小さく息を吐く。
「理由を、伺っても?」
「……方針の食い違い、だな。根本的な部分で、意見が合わなくなった。だからやめた……それに」
「?」
言葉が途切れて、ついまた首を傾げてしまった私に、ノワールは肩をすくめた。
「……もう、必要が無いからな。情報を得るという利点が失われた以上、わざわざ幹部の面倒な仕事を押しつけられてまで残る理由もない」
「あ……」
まだ、その話に触れるつもりはなかったのに。さらりと言われて、私は言葉に詰まった。
ノワールが、魔法士協会にいた理由。仇である吸血鬼について、情報を得る為。それが終わった今……協会にいる価値がないと、そういう事なのだろうか。
何となく、それだけでは無い気がしたけれど。話す気が無いのならと、追求せずに彼の言葉に耳を傾ける。
「ただ、それを告げた際に少々揉め、こちらが裏切り者のような形になった。だから今後はお尋ね者だな」
「……フウにも聞きましたが、一体どんな話し合いだったのですか」
追求しないと決めた矢先だというのに、ついじっとりと見上げてしまう。ノワールは肩をすくめ、小さく溜息をついた。
「まあ……色々な」
答えた時に一瞬、とても複雑な感情が瞳に過ぎったのを見て取り、やはり聞くのはやめようと思った。きっと、彼にとって好ましくない話題なのだろう。
「そうですか」
だからそれだけ言うと、ノワールはやっぱり頷いた。
「そういう訳で俺は今、逃亡者なわけだが。……その立場を利用して引っ掻き回せというお達しも受けているからな、しばらくは忙しい」
「ええと……それは、あの」
「詳しく聞くのは精神衛生上勧めない」
「はい、分かりました」
素早く頷いて、それ以上の深入りを避けた。ノワールがまた溜息をつく。
疲れたような顔を見て、小さく笑ってしまう。何だかんだ文句を言いながら、結局、ノワールはあの男と敵対しないどころか協力し合う関係のままなのだな、と。何となく、そう思ったらおかしかった。
「……何がおかしい」
「いえ、なんでもありません」
くすくすと笑っていては、誤魔化す気もないと言っているようなものだろう。ノワールも呆れた顔で肩をすくめていた。
「……、ノワール」
顔を上げて、彼を見上げる。私を見下ろす顔は、変わらず表情に乏しくて。何事にも無関心そうな態度も、感情の欠けたような雰囲気も、変わらない。
けれど。確かに、何かが違うから。
「終わった、のでしょう」
間違いなく、そう言える。
「貴方の、長い長い、復讐は」
ノワールが人生賭けて挑んだ敵は、確かに彼の手で露と消えた。
「もう……全て、終わったのですよね」
だから、これで終わり。彼の生きる意味が、終わってしまった。
「……ああ。そうだな」
果たしてノワールは、静かに肯定する。ほんの少し目を細めて。
「貴方は……」
迷う。言って良い言葉ではないと、そう思うから。
だって、ずっと分かっていた。ノワールも、きっと分かっている。
「本当に、これで良かったのですか?」
こんな哀しい生き方で、と。その、問いに返す答えなんて。
「そうだな……」
それでも訊かずにいられなかった私に、ノワールは小さく息を吐き、一瞬だけ空を見上げた。つられて上を見れば、木々の隙間から青い青い空が広がっている。
顔を戻して、ノワールに向き合う。彼は私の聞く姿勢が整うのを待って、静かに答えた。
「最初から、分かっていた。復讐に何の意味もない事など、な」
ぎゅっと唇を結んで両手を握りしめて、目を閉じるのを堪える。問いかけた私に、そんな権利はない。
「過去の全てを奪われたからと、過去に執着して未来を擲つ。それは愚かな選択だ。「今」、その時の選択肢次第では、過去のように平和で穏やかな生活を取り戻す事も出来たのだから。人間というのは、そういう生き物だ」
淡々と。他人事の様に事実を述べていくノワールの姿は、けれど以前のような儚さはない。
「だからこそ、復讐に意味はない。そこに生まれるのは嘆きや憎しみであって、喜びや幸せは生まれない。死んだ人間は、生き返らない」
静かな声に、重さが滲み出る。表情は変わらないけれど、ノワールは僅かに目を細めて、静かに思いを言葉にしていく。
「俺がやった事は、大切な者を奪われたから他者の大切な者を奪ったのと同じだ。相手が化け物だろうとそれは変わらない。奴を慕っていた吸血鬼だって、いたにはいただろうからな……例えそいつが、奴にとって道具でしかなかったとしてもな」
「……それは」
「言い訳にもならないのは知っている」
違う、と言おうとした私に被せるように、ノワールはそう言った。
「かつて、何も知らずに守られていただけのガキだった俺は、そういう血を血で洗う考え方を軽蔑していた。自分を理由に他者を蔑ろにする在り方を赦さなかった。それが本来の道徳観であり、倫理観だ」
その言葉を聞いて、思う。やはり彼は本質的に、優しい人なのだと。当たり前のようにこんな事を言える人が、本当の意味で心を失っているわけがない。
「マスターが示したように、途中でやめられたはずだ。ミアが言ったように、普通の生活を取り戻せたはずだ」
目を逸らさずに認めて。周囲の言葉を、想いを、無視しているように見えたのに、きちんと受け止めて。
「……それでも、許せなかった」
それでもノワールは、自分の想いから目を逸らさなかった。
「父が、母が、未彩が……多くの人々が弄ばれ、殺された。その光景を目の前に、俺は、自分が掲げていた理想を裏切った。理想を貫く事が出来なかったんだ」
淡々と。感情を滲ませずに話すのは、私に気遣ってのこと。ノワールはどんな時でも、私達を怯えさせないように、自分の心を制御していた。
「それほどに、絶望が深かった。怒りが大きかった。憎しみが、重かった」
そんな彼が抑えきれなかった程の、強い強い感情を、想いを。私は、ほんの一欠片だけ知っている。知る事が、出来た。
誰よりも優しくて、でもだからこそ憎んで。その真っ直ぐな心がそのまま裏返ったからこその、深い深い憎悪。
「だから、……俺は堕ちた」
「ノワール……」
「人をやめて鬼になり下がってでも、奴を殺したかった。必ずこの恨みを晴らしたかった。……復讐の為の力を求め、強くなろうと足掻いた、ただの愚か者だ」
違う、と。今度こそ言おうとして、ノワールと目が合った私は、言葉を失った。
彼はほんの少し、苦く笑っていた。
「なあ、ミア。気付いていたんじゃないのか?」
それは、私に尋ねたものなのだろうか。
一瞬そう惑って、直ぐに思い直す。
ノワールが無意識に私と「あの子」を重ねていたのは、分かっていた。けれど、彼は私にあの子を当てはめようとは、決してしなかった。だから、今も同じ。
ノワールは私を通してあの子に聞いているのではない。あの子にきっとどこかが似ている私に、私自身の答えを求めている。
「俺が、復讐に拘った理由を。ガキの俺が、復讐を選んだ理由を」
「…………」
押し黙ったからには、はいと答えているようなものだろう。そう、いつからか、気付いていた。
彼の身を削るような、そのやり方に。目的の為には簡単に自分の身を投げ出し、痛みを気にもしない、その様子に。
それが「復讐の為」だけではないのだと、気付いていた。
「俺から全てを奪ったのはドゥルジだ。俺の仇は奴だ。……それでもな。俺は、選んだ。感情のままに憎むのではなく、選んだんだよ」
ノワールは、心からあの吸血鬼を憎んでいた。その感情の深さや重さは、決戦の時の様子からも疑いようがない。
それでも、それだけではなく。彼は——
「復讐を——ドゥルジに全てを押しつける事を、憎む事を、選んだ。復讐を、生きる糧にした」
——生き続ける為に、復讐を選んだのだ。
……分かって、いたから。
「ドゥルジは俺の魔力を狙った。俺が居たから、俺を守ろうとして、両親や家族は死んだ。俺の幼馴染みだから、未彩はドゥルジの餌にされた。全ての原因は、俺だった。それを、あの時の俺は知っていた」
ノワールの存在があったからこそ、惨劇が起こってしまった、その事実を。
「俺自身に責任があるわけではない。才能を持って生まれただけの俺に罪はない。罪は全て、ドゥルジのものだ。そう分かっていても……俺のせいで、大切な人達が死んだというのも、また事実。……俺は、赦せなかった」
自分自身を、と。声に出さずに、彼は呟いた。
「守ってくれる人を全て喪って。圧倒的な力に蹂躙されて。……それら全てが、俺のせいで。そういった現実を、俺は直視出来なかった。その上で生き続けるだけの気力は、俺には無かった。生き続ける事を、俺自身に許せなかった」
それが、ノワールが復讐の為にと、無茶を重ねた最大の理由。復讐を諦めようとしても、傷付くのを躊躇わなかった理由。
「だから、俺は復讐を生きる理由にした。復讐の為に、生きる事を自分に課した」
さながら、それは咎人の贖いのようであり。
「復讐という、明確な目標でもなければ、俺は……生きていけなかった」
……ひとりぼっちになってしまった子どもの、支えだったのだ。
「そんな身勝手な理由で、俺は堕ちた。多くの命を斬り捨て、手を汚し、道を大きく外れた。お前達が示した真っ当な道を歩めない程に歪んだ。……大切なものの為ではなく、自分自身の為に、復讐の道を進んだ」
そう言って、ノワールは今度こそ、はっきりと苦笑いを浮かべた。
「だから、ドゥルジがヴァスト国王かもしれないと気付いた時、臆したんだ。もしそうなら、今度こそ生きる理由を失うからな。……とんだ英雄もいたものだろう」
彼の苦しそうな様子を思い出す。悩んで、迷って、彼らしくもなく足踏みしていた時の表情を思い出す。私がただ側にいて守られていた時に、彼は、これほど重く苦しいものを抱えていた。……そして、選んだ。
「……それでも、貴方は選んだのですね。終わらせる事を」
「ああ」
ノワールは、ゆっくりと目を閉じた。息を吸って、私の言葉を認めた。
「全部分かっていて、それでも止まれなかった」
最後の最後まで残った感情を、吐き出す。
「それでも、許せなかった。それでも、憎かった」
複雑な、理屈で割り切れない。言葉では言い表しきれない。矛盾に満ちた……この上なく、人間らしい感情を。
「全てを奪われた怒りを、憎しみを。奴にぶつけて、終わらせたかった。……自分で始めた愚かな復讐劇に、俺自身の手で、幕を下ろしたかった」
おもむろに開かれた瞳が、私を真っ直ぐ見る。静かな眼差しが、強い意思を宿して、私に注がれた。
「だから、どんなに馬鹿馬鹿しくとも、間違っていたとしても」
揺るぎのない声が、はっきりと宣言する。
「俺は、この復讐を——後悔していない」
私の問いかけに対する答えを、そう示して。
ふと、目を細めた。
「……やっと、終わらせられて良かったと。そう、思っている」
その声に滲み出た感情に、私は、静かに笑った。
「はい。本当に、良かったです」
彼の行いが正しいのかどうかは、私にも分からない。きっと、絶対の答えなんてどこにもない。
それでも、良かったと。そう、思えるならば、それで良いのだ。
「ミア=ティーナ=パーヴォラ」
不意に、名を呼ばれる。反射的に背筋を伸ばすと、ノワールは真摯な目で、真剣な表情で私を見て、告げた。
「愚かな男の身勝手で何も生まない復讐劇を、最後まで見届けてくれた貴女に、心からの感謝を。俺の選択を肯定も否定もせず、ただひたすら見守り続けてくれた貴女の存在がなければ、俺は自分の意思を貫き通す事は出来なかっただろう。……何度も貴女に助けられた。ありがとう」
胸に手を当てて腰を折り、深々と頭を下げる。その姿に、その言葉に、胸に暖かいものが溢れかえる。
ずっと彼の中で「被害者」でしかなかった私が、「恩人」になれた。
初めて聞く、ノワールからの感謝の言葉。飾り気のない「ありがとう」が、とても嬉しくて。
「スブラン・ノワール」
身に纏っているのは防護服だけれど、見えないドレスの裾を手に持ち、膝を折る。恭しく頭を下げて、最上位の敬意を示す。
「唯一つの意思を貫き通した貴方に、心からの敬意を。これまで貴方が歩んできた人生に、貴方が成し遂げてきた全てに、最大の祝福を。今貴方の手にあるものは、確かに貴方自身が掴み取ったものです。……9年にも渡る復讐、本当に、お疲れ様でした」
これまでの彼への尊敬を、私に出来る最大限で伝えて。
私の最高の笑顔で、彼の所行を、肯定した。
「最後まで側で見届けさせていただき、本当にありがとうございました。……ずっと、守っていただき、ありがとうございました」
彼がずっと否定し続け、それでも成し遂げた「誰かを守る」行為に、感謝した。
「……ああ」
目を細めて頷いたノワールが、ほんの少し、笑った気がした。
厳かな沈黙を、2人共有する。穏やかでかけがえのない時間が、緩やかに過ぎ去っていった。
いつまでもそうしていたいという願望を振り払って、私は尋ねた。
「これから、どこへ行かれるのですか?」
生きる目標を果たしたノワールの、これからの行く道が気になって。まさかこのまま死出の旅へ、とは言わないとは思うけれど、彼はどうするつもりなのか、どうしても訊かずにはいられなかった。
「さあな」
軽く答えて、ノワールは肩をすくめるだけ。
「いろんな場所を逃げ回るだろう。まずは借りを返さないと、おちおち夜もゆっくり眠れない」
「ふふっ」
冗談めかした言い方につい笑う。そんな理由でも、生きるのならばそれで良いと思ったのだけれど。
「その後の事は、考えていないが。まあ、いろいろやってみるさ」
前向きな言葉に、目を見張る。そんな私を見て、ノワールは口の端を持ち上げた。
「ご高説賜ったしな。折角時間を持て余すんだ、今まで放置してきた事を学ぶのも悪くないだろう?」
「……意地が悪いですね」
ぷいと横を向いてみせる。身の程も弁えず偉そうに説教してしまった自覚はあるけれど、わざわざ今それを突いてこなくても良いのに。
「言いたい放題言われるだけの無様を見せた俺も俺だがな」
くっと喉奥で笑うような音が聞こえて、顔を前に戻す。ノワールは相変わらず無表情だけれど、どこか……楽しそうに、見えた。
(……ああ)
心に、すとんと落ちるものがあった。
(本当に……)
ノワールがずっと無かった事にしていたもの。復讐の為に、忘れ去ったもの。それが少し戻っていると、そう感じたのはつい最近。お父様の記憶を口にしていた、夜会の時。けれどそれは、本人も自覚出来ないほど曖昧なものだった。
(やっと——)
それが今、はっきりと形になりつつある。彼の表情に、雰囲気に、僅かに浮かび上がったそれを見て取って、ようやく、実感した。
(やっと——終わったのですね)
やっと、全て、終わったのだと。
本当の意味で、全てが、過去に変わったのだと。
「……ふふ」
ならば。私も、最後の仕事を果たそう。
「そういえば」
軽やかに切り出す。大事に大事に胸に抱えていた宝物を、こっそりと手に取りながら。
「今後は、何とお呼びすればよろしいのでしょう?」
「……」
彼が、顔を顰めた。私の意地悪に率直な反応を示す彼が可笑しくて、くすくすと笑う。
魔法士協会を離脱した彼が、協会で名乗る為に与えられた<漆黒の支配者>という名を、もう使う理由も義理も無い。寧ろ、逃亡者となるならば、同じ名前を名乗り続ける方が危険かもしれない。
それなのに不本意だと嫌がっている名前を名乗り続けるのか、と問いかけに込めた意味を、どうやら正確に受けとってもらえたようだ。渋い顔で私を軽く睨み付けている。
「……わざわざ変えるのも面倒臭い」
「それでは、」
「ノワール、と。それだけ名乗る」
敢えてフルネームで言おうとした私を遮って、ノワールは言い切った。その様子に、また笑いが止まらなくなる。
「ふふふっ……」
「ちっ」
不本意そうな舌打ちに長引きそうになる笑いを、なんとか収めて。私は、未だに顰め面をしている彼に、にっこりと笑って見せる。
「ノワール」
「なんだ」
律儀に応じる彼に、ずっとずっと大事にしていたものを、丁寧に差し出した。
「——『カミヤシューヤ』、というお名前を、ご存知ですね?」
問いかけの形をとりながら断言すると、彼は少し眉を寄せ、考えるように視線を落とした。動きを止め、しばらく考え込んでから——
「……ああ」
声を漏らして、ノワールは顔を上げる。複雑そうな表情を浮かべて、答えた。
「俺の、名前か」
「はい」
やっぱり、ちゃんと覚えていたのだ。その事に安心して、嬉しくて、表情を綻ばせる。
「マスターだな」
「はい。初めてお目にかかった時に、渡されました」
「ったく、何を勝手にあのじじいは……」
盛大に溜息をついて、髪を掻きむしった。呆れたような様子からは、危惧していた追い詰められた雰囲気は無くて、少しほっとする。
「変わった音ですね」
「……一音で発するからだろう。まあ確かに、俺の故郷は変わった発音と文法を持つがな。ファーストネームを後ろに持っていくし」
「ああ、そういえばそう言っていましたね」
会った最初の頃に教えてもらった気がする。ファミリーネームが前に来る、という物珍しさに驚いたのをぼんやりと思い出した。
「それでは……ええと……」
「カミヤ・シュウヤ。この世界に合わせるなら、シュウヤ・カミヤ、となるな」
口の中で、その名前を転がす。
「シュウヤ……ですか。綴りはどのような?」
「文字からして別物だから、見ても分からないと思うぞ」
「え?」
驚いて目を見張ると、彼は肩をすくめる。
「言っただろう、変わっていると」
「……文法は違っても文字は同じだろうと、勝手に思っていました。どういう風に書くのですか?」
「知らんで良い」
「気になります」
いつかのやり取りと同じく食い下がると、彼は諦めたように指先を動かした。魔力が宙を動き、「香宮 修哉」と絵のような図形のような形を作る。
「全然読めません……」
「だろうな」
驚きに瞬く私を見て、彼は図形を消し、何とも言えない表情で髪に手をやった。
「ただでさえ魔力の波動が近い相手に、真名を教えるとはな。あいつじゃないが、本当に耄碌が始まっていないか」
「側にいると決めた私に、と。餌を相手に当たり前のように偽名を名乗るような貴方だから、ピエールもそんな方法を取ったのだと思いますよ」
反論すると、彼が眉を寄せて言い返してくる。
「よく言う。ミアこそ偽名……登録名だろうが」
「……あら、ばれてしまいましたか」
「割と最初の頃に気付いていた」
ぴしゃりと言われ、苦笑する。気付いていなかった私に合わせてくれていたと知って、少し申し訳ない気分になった。
「考えてみれば、学院で堂々と真名を晒すはずがありませんよね。お父様達が隠している事にも気付かなくて、先日お兄様と2人で唖然としました」
「……つまりつい最近知ったのか……」
呆れた眼差しを向けられて、少し首をすくめてしまう。フウはこんな気持ちでいつも怒られていたのだなと、関係のない事を思う。
決戦が終わって、彼らが帰った後に教えてもらった事実。私達がずっと真名だと思っていた名前は、公用の登録名だったのだ。
子どもが純真な心のまま、不用意に言いふらさないように。悪い大人に利用されないように。私達の世界では、成人するまで真名は教えないものなのだと。お父様、お母様が私達に教えていた名前も、登録名だったのだと。
驚きに言葉を失った私達に黙っていた事を謝罪して、私達はようやく、自分達の、家族の真名を知ったのだ。
「では、改めて」
にこりと笑って、軽く膝を折って名乗る。
「ユーフェルミア=クリスティーナ=パーヴォラと申します」
「誰が名乗れと言った……」
呆れきった顔で深々と溜息をつきながらも、彼はしっかりと頷いてくれた。
——これで、私の仕事は、終わりだ。
抱えていたものを手放して、胸の奥が少し寂しい。けれど、この寂しさもまた、私にとって大事なものだから。
「大切にしてくださいね? 次に会った時に忘れたと言ったら、怒りますよ」
「……善処する」
「シュウヤ?」
「分かった。分かったから、真名で呼ぶな。落ち着かない」
「はい、ノワール」
言葉通り落ち着きのない表情を浮かべるノワールに、くすりと笑って。私らしい笑顔のまま、軽やかに、楽しげに、言葉を紡ぐ。
「また、会いに来て下さいね。これからも私は光属性として、この国で上位属性の地位向上に努めていきますから。次来られた時には、きっと国を挙げて歓迎出来ると思います」
「次」を、未来を、見据えて。
「……騒々しいのは嫌いだ」
「ふふ、そうでしたね。では、私が歓迎します」
背筋を伸ばして。にこやかに。
——別れの挨拶の、言葉を。
「忘れないで下さい。パーヴォラ家も、私も、貴方をいつでも歓迎します。どんな時でも、貴方が何を敵に回していても。この世界に来た時には、必ず貴方のお部屋を用意します。……いつでもお待ちしていますから、必ず、会いに来て下さいね」
ただし、と。心からの祈りと、願いを込めて。
「——出来れば、貴方がまた、大切なものを見つけた時に」
「…………」
ノワールは、口を開いて何かを言いかけ、何も言わずに閉じた。
ふう、と息をついて。ノワールは肩をすくめてから、言った。
「——やっぱり、お前は苦手だ。ミア」
「あら、そうですか」
沢山の意味が込められたその言葉を、笑顔で受け止めて。
「私は——」
もし機会があったら絶対に言ってやろうと思っていた言葉を、贈る。
「——無神経で身勝手な貴方が、」
私の気持ちを分かろうともしないで。どこまでも自分の意思を貫こうとするばかりに、私の決意を、想いを振り解いて。
結局最後まで、「付いて行く」という選択肢を示してもくれなかった彼に、抱く感情に無理矢理名前を付けて、贈り出す。
「ノワールが、嫌いです」
「……そうか」
彼の返事は、それだけ。けれど、ちゃんと伝わったのは、私に向けられた眼差しの穏やかさで分かったから。
言えて良かった、と思った。
「——なら、その奇跡的な時とやらがくれば、また会おう」
ノワールの足元に、魔法陣が現れる。綺麗で精緻な図形は、彼が元いた世界に戻る為のもの。
「はい。また会う時を、楽しみにしています」
笑って、答える。だって、これが最期ではないから。
「ああ。じゃあな、ミア」
「さようなら、ノワール」
挨拶を交わして、彼は、今度こそ去って行った。
魔力の余韻がしばらく残る。親しみ馴染んだその波動を、身体に染み込ませるように覚えさせて。交わした言葉の1つ1つを思い返して余韻に浸っていた私は、友人達の声にようやく我に返った。
「あっいた! ミアー! 大丈夫!?」
「落ち着いて、エマ。怪我は無さそうでしょう」
エマとベンの声に、ゆっくりと振り返る。大きく手を振って駆け寄ってくるエマと、宥めながらも心配そうに私を見ながら小走りで近付いてくるベン。
「ミア!」
そして、その後ろから走ってくるお兄様。みんな元気そうで、ほっとする。
「どこにいたの!? 魔物がいなくなってからも、全然見つからなくって……」
「……?」
ずっとここで話をしていたのに、と首を傾げかけて、気付く。きっと、聞こえないように、邪魔が入らないように、彼が結界を張っていたのだろう。
大事な話を、2人で、する為に。
「……、ふふ」
言葉にしない気遣いが嬉しくて、私はそっと笑った。
「大丈夫ですよ。だって——」
そう、大丈夫。だって、私は。
「——ノワールに、助けていただきましたから」
最後の最後まで、彼に守られたのだから。
「ええっ!? あいつ来てたの!?」
エマが仰天に声をひっくり返す。ベンもお兄様も、驚きに目を見張っていた。
「はい。このタイミングだったのは、偶然のようでしたけれど」
「……何話したの?」
「内緒です」
にこりと笑ってはぐらかす。2人の会話は、私の宝物。親友にも家族にも、話すつもりはなかった。
「挨拶は、ちゃんとしましたよ」
そう付け加えると、エマが私の両肩に手を置く。真剣に、心配そうに、顔を覗き込まれた。
「……本当に、これで良いのね?」
念押しのように問われて、微笑む。身分も損得も関係無しに、心から私の事を心配してくれる親友がいる私は、本当に幸せ者だ。
エマだけではない。ベンも大事な友人で。お兄様を始めとして、私の事を慈しんでくれる家族がいて。私にずっと真っ直ぐに甘い言葉を贈ってくれる人もいて。
私の大切なものが、私を大切にしてくれるものが、この世界には沢山ある。
「勿論ですよ、エマ」
だから、私は笑顔で答える。これが私の出した答えだと、言葉にして示した。
「——私の居場所は、私の生きる世界は、ここですから」




