宴前夜 〜Rouge—Noir〜
ノワからの合図を受け取って、私はヴィルさんを振り返った。
「じゃあ、行ってきます。化け物の襲撃には気をつけて下さいね」
「ああ。……フージュこそ、気をつけて」
心配げに答えたヴィルさんに、軽く笑みを浮かべて答えた。
「はい。ありがとうございます。……では」
そう言って、私は軽く地を蹴り、塀の上に飛び乗った。
身を低くして中の様子を窺う。あたりに吸血鬼の姿は無い。むしろこの辺りは、人の気配が多い。
その人の気配も街路にないことを確認してから、私は飛び降りて中に入り、一気に駆け出した。
走ること数十秒、ノワのいる屋敷の前にたどり着いた。
ここに近づく前に、吸血鬼たちは示し合わせたように屋敷の中に入っていった。何をしているのかは分からないけれど、私としては好都合だ。ノワからも何も連絡が無いから、別に問題も無いだろう。
ノワの結界を察知し、そっちの方へ走る。ノワは、屋敷の中でも随分外れの部屋にいるみたい。閉じ込められているみたいだから、当たり前と言えば当たり前か。
ノワのいる部屋の真下に来ると、窓の部分に張られていた結界に穴が開いた。ぴったりのタイミング。私は地面を蹴って、窓枠に足をかけた。軽くノックする。
鍵が開く音が聞こえて、窓が開いた。素早く中に入る。
部屋の中は、予想外にもごく普通の客室に見えた。ベッドとテーブル、洋服ダンス。ソファは無いし、物は少ないけど、ホテルの1室と言っても通用しそう。
部屋の中をきょろきょろと見回していると、後ろから声をかけられた。
「お前な……。もう少し緊迫感とかは、無いのか?」
振り向くと、ノワが私に背を向け、窓を閉めていた。外の様子を窺いながら、言葉を続ける。
「遊びに来てるわけじゃないんだぞ」
「んー、ノワが安全を確認する事も無く、私を入れるわけないし」
「……もういい」
溜息混じりにそう言って、ノワが振り返った。その顔を見て、思わず息を呑む。
闇と同化したような黒髪に縁取られた精悍な顔は、酷く憔悴していた。変わりないように振る舞ってはいるけれど、随分追い詰められているように見える。
「ノワ……?」
「ああ、ちょっと待ってくれ」
呆然と呟く私の様子を気にする事もなく、ノワは一旦部屋の外に意識を向けるそぶりを見せた。私の心配をする余裕も無い、そんな感じだ。
「……よし、気付いていないな。これなら、会話の途中で邪魔が入る事もない」
ノワが独り言を漏らして、私に向き直った。
「さて、フウ。そっちの状況を聞きたい。誰かと行動を共にしているようだが、あれは誰で、どういう目的で共にいる?」
急かすようなノワの問いかけに、自分の疑問を後回しにせざるを得なかった。
「えっと、ノワを探す途中で会った人。馬車に乗せてもらったの。ここには、餌として連れられて行った妹さんを助けに来たんだって。協力依頼されてるよ」
ノワが溜息をついた。
「お前はまた勝手に依頼を受けたのか……。俺かマスターを通して受けろと言っただろう」
「だって、ノワと合流するついでだし」
「……ついで、ね。フウ、1つ確認だ。その娘、つい最近連れ出されたのか?」
「うん。新しい吸血鬼が生まれたらしいって」
「……そうか。分かった」
そう言ったときのノワの顔を、私はきっと、一生忘れられないだろう。
憎悪と嫌悪と自嘲を押し込めた表情の奥から、何かを決意したような色の瞳が覗いていて。<漆黒の支配者>という魔法士の肩書きを取り払った、ノワ自身の中身が凝縮したような、そんな顔だった。
「さて、フウ。いや、<緋華の舞姫>。俺もお前に、依頼をする」
改めて向き直ってそんな事を言うノワが、不意に、私の知らない人に見えた。
「……おい、聞いているのか?」
眉をひそめてそう問いかけるノワに、慌てて頷いた。
「その依頼、受けるよ。内容は?」
「……せめて内容を聞いてから受けろよな。まあいい。依頼内容は————
————吸血鬼の、殲滅だ」
最後の言葉を言った瞬間、ノワの身から魔力が吹き荒れた。魔力の渦から感じるのは、怒りと憎しみ、そして……吸血鬼を倒す事への、飽くなき執念。
「勿論、俺もやる。お前はそのサポートだ。ここの吸血鬼の数は思ったより多いようだからな。1人だといささか面倒だ。……厄介な奴もいるしな」
忌々しげに吐き捨てるノワに、あえて何も気付いていないふりをして尋ねた。
「分かった。でも、サポートって何するの?」
「陽動だ。明日の朝、俺が合図を出したら突入して、奴らを片っ端から切り刻め。出来るだけ派手にやれ。その間に俺が奴らの中枢に潜り込み、騒ぎに意識を向けた隙に、奴らを順に祓う。大まかな作戦は、こんな所だな」
「いいよ。久しぶりに、派手な仕事になりそうだね」
思わず口元に笑みが浮かぶ。それを見て、ノワも笑った。化け物を倒す目処が立った時にだけ見せる、冥い喜びに彩られた笑み。
「久しぶりにその顔を見るな、確かに。奴らに手加減は無用だ。存分に舞えよ、舞姫様」
「うんっ」
大きく頷く私にもう1度笑みを漏らした後、ノワは表情を引き締めた。
「さて、仕事の話に戻ろうか。フウ、ここに来るまでに、何か気になることはあったか?」
「えーとね、随分たくさんの吸血鬼が、今ここに集まってるみたいだよ。ほとんど皆、ここにいると思う」
その言葉に、ノワが周囲を探る様子を見せた。
「……そういえばそうだな。妖気が随分濃い。外にいるのは人だけか?」
「多分。餌、かな」
「他に無いだろうな」
顔を歪めて頷くノワ。その単語を不用意に言わない方がよさそう。
「だとすると、フウには最初からこの屋敷に来てもらった方がいいな。明日もこのままだとすれば、だが」
「だねー。この部屋から1番遠く、かな?」
「いや、中心となる奴らのいる所から、1番遠い所が良い。俺がその場所を見つけ出して、襲撃地点を指示する」
「分かった、任せる」
ノワの判断力はいつも的確だから、下手に私が考えるより、ノワに全て任せた方が安心。
「今日の所はこんなものか。後は明日だな」
「そうだね。……あ、私の依頼はどうしよう?」
ノワの依頼に流されて忘れていたけれど、ヴィルさんの依頼も大切な依頼だ。
「ああ、それは俺が何とかする。依頼主をお前が連れてくると……邪魔だよな」
「出来ればいない方が助かるなー。あ、でも、妹さん、外にいるんじゃない? だったら、騒ぎの間に探してもらえば……」
「いや、その娘はこの屋敷にいる。そうだな……、俺が合図を出したら、まずそいつをここに連れて中に入れ。会えるように手配しておく。後は全て終わるまで待機してもらえ」
やけに確信に満ちたノワの言葉が引っかかった。
「ノワ、その人と知り合い?」
「……知り合いというか……まあいいだろう。とにかく、その件はそれで良い。後は何かあるか?」
無理矢理話を流すノワに、これ以上何も聞けなかった。首を振る。
「今は良い。仕事終わったら、聞きたい事も言いたい事もいっぱいあるけど」
「出来れば聞きたくないんだが……」
「駄目。絶対聞いてもらうからね。全部終わったら、この部屋に集まればいいの?」
「……ああ」
やや渋い顔で頷くノワににっこり笑って見せてから、私は身を翻した。窓枠に手をかけて、もう1度振り返る。
「じゃあ、一旦戻るね。ヴィルさんに説明しておく」
「そうしてくれ。明日になっていちいち説明している余裕はないだろうからな」
ノワが頷いて、結界に穴を開けた。カーテンを開け、鍵を外して窓を開ける。
「じゃあ、また明日」
「ああ。今日はきちんと休んでおけよ」
「了解!」
元気よく——ただし小声で——返事をして、私は窓の外へと身を躍らせた。
******
フウが無事帰って行くのを確認して、息を吐き出した。
どうやらフウは、俺の変化に気付かなかったようだ。おそらくだが、俺の魔力が妖気を打ち消しているのだろう。フウは感覚が鋭いが、あの距離でも気付かなかった。
気付いた場合にも対応できるように計画を練っておいていたが、思わぬ第三者の事も考えると、運が良かったと言える。
「……さて、舞台は整ったな」
呟いて、俺は右手を振った。現れた漆黒の刀を入念に確認する。刃毀れ1つない刃に魔力を通し、強度を上げておいた。
準備は出来た。後は明日だ。明日、全てを終わらせる。