眠り 〜Noir〜
異様な程の飢えと渇きに耐えきれず、俺は目を覚ました。
喉や口の中はおろか、唇までからからだ。皮膚も乾き始めている。喉はあまりに渇きすぎて、鈍痛を発していた。
重い躯を無理矢理動かし、ベッドから腰を浮かせた。残っていた水や果物が目に入り、迷わず手を伸ばした。そのままひたすら口に詰め込む。あっという間に全てを食べ、飲み尽くした。
ぐらりと視界が揺れる。テーブルに手を付くも、目眩はどんどん酷くなっていく。
……そういえば、意味無いんだったな。
忘れていた忌々しい事実を嫌という程思い出す。受け容れるのは吐き気がする程嫌だったが、どうせここで死ぬので、もうさほど気にならなくなっていた。
「……聞こえますか」
ドアの外から少女の声が聞こえた。黙殺する。
「聞こえているものとして、続けます。今、貴方の状態は非常に危ういものです。貴方に施された魔術は、貴方の躯に相当な負担となっているそうです。ぼろぼろの躯を回復させる為の体力を補うべく、貴方の躯はかなりの栄養を必要としています。
……前に私と言葉を交わしてから、5日。限界でしょう。そこにある食料や水分は、貴方の飢えや渇きを満たす事は出来ません。私の血を飲んで下さい。早くしないと、手遅れになります」
その言葉に、思わず笑みを浮かべた。やはり俺の予想は間違っていなかった。このまま閉じこもって血を飲まない限り、俺は死ぬ事が出来る。
「お聞きなのでしょう? 私を入れて下さい」
必要な情報も手に入った。これ以上、この少女の話に付き合う義理はない。
結界に更に魔力を流し、外部の音を遮断した。
完全な静寂。これでもう、外で何を言おうと、俺を煩わせる事はない。
——体力が底をついた状態で魔力を消費した事が原因か、不意に全身から力が抜けた。ベッドから少し離れた所で立っていた俺は、床に叩き付けられた。
身を起こそうとしたが、躯が言う事を聞かない。冷たい石造りの床に、体温がどんどん奪われていく。
——さて、お迎えまで後どのくらいか。
いつの間にか、飢えや渇きが意識に上らなくなっていた。徐々に他の感覚も無くなっているらしく、床から体温を奪われている筈なのに、寒さもさほど感じない。
失血死しかけたときの感覚に似ている。これなら、大体後1時間も待てば死ねるだろう。
ぎりぎりまで意識は保つ。今意識を手放すのは、昏睡と同義。昏睡の状態でいつまでも結界を保つのは、流石に厳しい。結界が解ければあの少女が入って来て、救おうと考えるだろう。それだけは避けたい。
まあ、後1時間待つだけだ。10年以上待った死を、たかだかその程度の時間待つ事位、どうってことはない。
そう思って、俺はぼんやりと天井を見つめていた。
不思議な程心地よい眠気が、俺を襲っていた。既に全身の感覚は無く、呼吸は半ば止まりかけている。僅かに聞こえて来る心臓の鼓動も、相当頼りない。しかし苦しさは無く、自分が死にかけているとはどうも信じがたい。
存外、餓死も悪くないようだ。
餓死というと、飢えに苦しみ抜いて死ぬイメージがあったのだが。死を待つのがまだるっこしくて、眠りの魔法で5日間寝ていたのが良かったらしい。
ふと気になった。そういえば、あの少女は諦めたのだろうか。それとも、まだ部屋の外で、届きもしない言葉を紡いでいるのだろうか。
内心で直ぐに首を振った。流石に赤の他人に対して、そこまで執着しないだろう。俺が死ねば、餌などという巫山戯た役割からも解放される。むしろ、何故あれほど俺の身を心配したのか、その方が不思議だった。
終わりゆく人生を振り返ろうという気は、無い。どうせ碌な人生ではなかったし、俺に先立って死んだ連中の行き先は天国。確実に地獄行きの俺にはもう関係ないから、顔を思い出す必要もなかった。
とりとめもない思考の流れに身を任せているうちに、本格的に眠くなって来た。もう寝ていいものか確認すべく、魔法を使う。
魔力を全身に流し、状態を調べる。身体のありとあらゆる部位を精査し、結果を脳に送り届けた。
結果、既に躯の機能はほぼ停止している事が分かった。今までの訓練や数多い瀕死体験でタフになった脳が、脳内麻薬の力も借りて、辛うじて活動していたというだけらしい。
最期に、意識が途切れた後も可能な限り結界が維持されるように、魔術を施した。こうすれば、あの少女が入ってきても、出来る事は何も無い。
さて、眠るか。
まるで、1日の終わりのように。俺は、人生に別れを告げた。