拒絶 〜Noir〜
目が覚めた時、真っ先に目に入ったのは、洋風のランプが吊り下がった、質素な天井だった。
ベッドから起き上がり、手を目の前に翳す。何の変哲も無い手。以前フウに、男にしては指が細く長いと言われた時、そのままだ。
その手を強く握って拳を作り、額に押し当てた。目を閉じる。
「………夢だ」
強く強く、自分に言い聞かせる。意識を失う前に見たものは、聞いた言葉は、全て夢だったのだ、と。
「夢に決まっているだろう。俺は、フウを探しに来ただけだ」
暗示をかけるように、半ば祈るようにそう言って、俺は目を開け、立ち上がった。躯のあちこちが痛んだが、動けない程ではない。
そのまま窓から脱出しようと足を踏み出そうとして、ふと傍らにあったテーブルが目に入った。
テーブルには、様々な果物がバスケットに盛られている。その側には、水の入った瓶。それらを見て、空腹と喉の渇きが意識に上った。
魔法で毒が入っていない事を確認してから、果物を囓った。瑞々しく、甘い。
「久しぶりに、美味いものを食ったな……」
1人ごちながら、続けて水を煽る。コンビニで買うミネラルウォータなど、比べ物にならない程美味だ。
「さて、腹も満たせた事だし、行くか」
フウの事だ、既に俺の魔力に気付いているだろう。あれだけ派手に魔法を使ったのだ、感覚の鋭敏なフウが気付かない筈がない。
——魔力を暴走させた事は、出来れば気付かないままでいて欲しいが、まあばれただろう。また怒られるのか……。あいつに怒られるのは、不本意なんだが……
窓に手をかけ、結界を解除しようとした時、人の気配を感じた。咄嗟に結界を強化し、振り返る。
「……あの、私です。入れて下さい」
その声を聞いた途端、夢で見た光景が生々しく甦った。血の気を失った青白い顔、翡翠の目、そして、——化け物の、言葉。
頭を激しく振って、それを追い出す。違う。あれは、夢だ。
「喉が渇いていませんか? 結界を解いて下さい。そこにある水では、どうにもならないでしょう?」
あれは、現実じゃない。
「もう貴方は、水を飲んでも意味がありません。だから、私の——」
「黙れ」
黙れ。それ以上続けるな。
「黙りません。貴方もお分かりでしょう? このままでは、危ないんです」
「黙れ、失せろ!」
怒鳴り、頭を抱えた。混乱した頭が、事実を受け容れるのを拒絶する。
「駄目です。夕べまで起き上がる事も出来なかったのに、無理をなさらないで下さい。……結界を、解いて下さい」
「うるさい! 黙れ黙れ黙れ!!」
ただひたすら喚く。少女の言葉を、今さっき食料も水も摂った筈の俺の躯が飢え、渇いている事を、認められない。認めたくない。
ここで彼女を中に入れれば、目の逸らしようのない事実を突きつけられてしまうと、直感的に感じていた。
「入れて下さい。私を嫌うのも、彼等を恨むのも、貴方の自由です。けれど、そのままでは貴方の為になりません。私を中に入れて下さい」
「黙れと言っている! 俺は……っ」
不意に視界がぐらついた。躯に力が入らず、足下が覚束ない。
急激に飢えと渇きが酷くなっていた。咄嗟に果物を手に取り、まるで何日も食べていなかったかのように口に運ぶ。それでも飢えは収まらない。
「大丈夫ですか?何が……」
言葉が途切れた事で何か起こったと察したのか、切迫した声が外から届いた。
「……失せろ」
先程よりも声に力がない事を自覚しながらも、それでも拒絶の言葉を発した。
「入れて下さい! 体調が悪いのでしょう?」
「失せろと言っている!」
大声を出した途端に、強い目眩に平衡を崩し、ベッドに倒れ込んだ。無理矢理躯を起こし、ドアの外に魔法を放つ。悲鳴と、何か重いものが落ちる音が聞こえた。強い衝撃に耐えられずに転ぶ音だろう。
「そんな状態で魔法を使うなんて……! 危険です! やめて下さい!」
「うるさい! 失せろ! 失せろ!!」
よろめきながら立ち上がる気配を察し、突き飛ばす程度の衝撃を続けてぶつけ、ドアから遠ざけさせる。そのまま、3つ上の階に強制的に移動させた。
「く……っ」
頭がぐらつく。そのまま再び倒れ込みそうになるのを辛うじて堪えて、テーブルの上の水に手を伸ばす。そのまま煽り、飲み干した。
続けて果物に手を伸ばし、2つを腹に収める。1つ1つがかなり大きいから、相当な量だ。
それでも、空腹が、喉の渇きが、俺を苛める。
「認め、るか……っ」
無我夢中で更に食い、飲む。自分が欲しているものから目を逸らす為に、ただ目の前のものを口に運ぶ事だけに専念する。
そうして、テーブルの上のものが半分程になるまで食べ続け、俺はベッドに身を投げ出した。
「くそっ……」
飢えも渇きも、ますます酷くなっていた。躯からどんどん力が抜けていくのを感じる。
——もう、否定できなかった。
俺は今、痛切にあの少女を求めている。正確には、あの少女の——血、を。
今直ぐ血を飲まなければ、いくら飢えや渇きに慣れている俺でも危険な事が、感覚的に分かった。
「……はっ。正真正銘の、化け物、か……」
それも、存在する全ての化け物を忌み嫌う俺がこの世で1番憎んでいる、吸血鬼。奴らに無様な姿を晒したというだけでも十分屈辱なのに、奴らと同じモノにされるとは。
「……あいつらの思惑に、これ以上のってやるものか」
ずたずたにされたなけなしのプライドが、この結界を最後の砦と定めた。
外からの侵入を許さないそれを更に強化し、中からも出られないように張り直す。あの少女が、中に入れないように。俺があの少女を求めて、外へと出られないように。
フウには悪いが、まあ、何とか帰る方法を見つけ出すだろう。いざとなれば、マスターが見つけ出して連れ帰るはずだ。
化け物として生きるくらいなら、死を選ぶ。このままここに閉じこもっていれば、いつか飢え死にするだろう。幸い、規格外な俺の魔力は、死を目前としても尽きる事はない。それこそ死ぬその瞬間まで、この結界を維持してくれる。
まともな死に方はしないと思っていたが、まさか餓死とは。大方どこぞの化け物に八つ裂きにされるか、魔力の暴走による器の崩壊で死ぬと思っていたから、これは予想外だ。
——まあ、死に様なんて、どうでもいい。
生に執着などない。どういう訳か強くなりすぎたせいで、どれだけ化け物とやり合っても死ねなかったから、仕方なく生きていただけだった。
「……ここで死ねるのは、むしろ幸運かもな……………」
そう、呟きを漏らして。俺は、目を閉じた。