VS世界地図
「……何を読んでいるのだ?」
ある日の昼過ぎ、アンが居間で本を読んでいると、良に話しかけられた。
「あ、良さん。またアイス食べて」
「うるさい。俺が買ってきた物を何本食おうが俺の勝手だろう」
「またお腹を壊しますよ」
相変わらず昼間から怠惰な生活をしている良にアンがそう言ってやると、彼は先日の苦しみを思い出したのか、うぐっと呻いた。
彼から一本取れたのが嬉しくて、アンが良から顔を逸らし、くすくすと笑っていると。
「ひゃっ!」
背中にいきなり冷たい感触が走った。
慌てて振り向くと、良がアイスを傾けている。
どうやら溶けかけたそれを襟口からアンの背中へと垂らしたらしい。
「な、何するんですか良さん! 染みになったらどうするんですか!?」
まさに魔王である。信じられない暴挙に出た良にアンが抗議すると、彼は呆れたような顔で「所帯じみたやつめ」と呟いた。
それがくやしくて、アンは更に文句を言う。
「大体、食べかけのアイスなんて唾がついてるんですよ!? 今良さんは私の背中を舐めたも同然なんですからね!?」
「変態的な発想をするな!」
良にそう言い返され、アンははっと我に返った。確かに今の例えはおかしかったかもしれない。
良が自分の背中を舐めるなんて……その光景を思い浮かべてしまい、アンは更に赤面した。
「……」
良もまた、何か気まずそうに頭をかき、しばし沈黙が落ちた。
何だか変だ。彼と仲が悪くなったわけではないのに。
自らの気持ちに整理がつかずにアンが黙っていると、アイスを食べ終えた良が口を開いた。
「で、何を読んでいるのだ?」
冒頭のセリフである。そう言えばそう問いかけられたのだと思い出し、アンは胸の動悸を沈め、良に自らが読んでいた本のタイトルを見せた。
「世界観光ガイド?」
「はい、この世界の地図です!」
それは、舞が渡してくれた本の中にあった、この世界の地理と主要な都市の解説を載せたガイドブックというものだった。
首を捻る良に、アンは胸を張って答える。が、彼にはアンが何故誇らしげか分からないようだ。
「……お前も世界征服の野望にでも目覚めたか?」
「いえ、地名を見て、ここにどんな人が住んでいるか想像するだけで楽しいんです」
アンが解説すると、良はついには視点が九十度傾く勢いで首を捻った。良にアンの気持ちが分からないのも当然だろう。彼女自身も自分がなぜ胸を張っているか分からないのだから。
「相変わらずの妄想女っぷりだな。こんなつまらん世界より、お前の世界のほうが数倍楽しいだろう」
そんな彼女を、良は呆れた目で見てそう言った。
その言葉に、アンはむっとなる。
「良さんは、ブラジルに行ったことがあるんですか?」
「いや、無いが……どうせサッカーとコーヒーぐらいしかないだろ」
「そんな事ないです。ブラジルには世界遺産というものが十七件あって、中でもフェルナンド・デ・ノローニャの景観はとても素晴らしい物なんですよ」
「は、はぁ……」
勢いごんで話すアンに圧倒された様子を見せながら、良が向かいの椅子に座った。
「世界の事を全部見ていないのに、つまらないなんて言っちゃダメです」
良が、自らの世界をあまりよく思っていない事を、アンは知っていた。
だが彼が、この世界をつまらないと評すのは悲しかった。
何故なら――。
「私、良さん達と出かけた場所はみんな楽しかったです。良さんは、楽しくなかったですか?」
アンが見た世界は、どこも輝いて見えた。
未知の物で溢れていたからということもあったが、一番の理由は良達が一緒にいてくれたからだ。
自分が楽しんでいる間、良がつまらない思いをしていたのなら悲しい。
そう思い、アンが良の顔を伺うと。
「まぁ、そうだな。少なくとも、その、退屈はしなかったな」
目線をはずしてはいるが、若干朱の差した頬を見てそれが彼の照れ隠しであるということはアンにも分かった。
可愛らしい。同い年の男の子相手だというのに、そんな事を思ってしまう。
「きっと、世界には沢山素晴らしい場所があるんです。この世界にも……」
そして、自分の世界にも。俯きながら、アンは呟いた。
そんなアンの手を、唐突に温かい感触が包む。
彼女がびっくりして顔を上げると、良が真剣な瞳でアンの目を見つめていた。
「見たいか?」
「え、え?」
問いかけられるが、アンの胸中はそれどころではない。
先程まで照れて顔を背けていたはずの良が、いきなりこんな事をするだなんて。
手ならプールでも握られたが、あれは泳ぎの練習の為だ。そもそもあの時はこんな風に耳の横から血管の脈打つ音が聞こえるなんて怪奇現象は無かった。
エスカレーターで手を引かれた時もあったが、あの時も胸の動悸がした。でも今はもっと強い。
彼との思い出を思い出すたびに、何故だか動機は強まっていった。
良さんは? この世界では手を握るなんてなんて事ないことなの?
そう思って彼の顔を見ると、良の顔もやはり真っ赤であり、アンを余計に狼狽させた。
「俺は親切でも、ましてやおせっかいでもない。だから、はっきりとしか聞かんぞ。お前はその、俺達ともっと色んな場所を見たいか?」
心臓の鼓動が最大限まで高まると、今度は逆に良の声が鮮明に聞こえる。というか彼の声しか聞こえない。
答えようとするが言葉が出ない。首を縦に振ろうとするが……それを良一色になりかけている心の隅っこに引っかかるものが邪魔をした。
それが何か。考えようとして、ようやく意識が良から逸れる。すると――。
「……っだいまー」
廊下から声がして、アンは慌てて振り返った。
彼女の仕草で良も正気に戻ったらしい、さっと手を離す。
それとほぼ同時に、舞が廊下から顔を出した。
「んもー外あっづいよぉ。登校日なんて無ければ良いのに」
ランドセルというらしい赤い背負い物を背負った舞が、胸元を無防備にパタパタとあおりながら居間に入ってくる。
「あれ? なんか二人も顔赤いよ? クーラー利いてないんじゃない?」
そうして彼女は、アンと良の顔を見ながら問いかけた。その表情が若干ニヒルなのは、もしや一部始終を見ていたのではあるまいか。
「きょ、今日は暑いからな!」
「あ、あはは、そうですね」
誤魔化しながら、アンは自らの胸元をさすった。
さっきのは何だったんだろう。色々と。