少年の羽
子供の頃、私は羽を持っていた。
鳥のように大空を舞う翼じゃない。薄く、華奢で脆い。一度触られれば、たちまち朽ちてしまう脆美な羽だった。
もう羽ばたく事は叶わない。幾多の夢想を駆け、飛翔する。私だけの羽。かつてまだ私が少年だった頃、確かにあった美しい羽。
子供の頃の私は宝物を持っていた。
父が撮った写真だ。
私は父がたまに帰ってきては置いていく写真の山から選り好み、 ブリキの缶に隠していた。
けれど母は私の写真を、父の仕事を快くは思っていなかった。母は恐れていたのだ、私の羽を、私の飛翔を。
母は父の愚痴を日常的に私に聞かせていたし、父の書斎で写真を漁っているのが見付かると、それはもうこっぴどく叱られたものだ。
それでも私は母の目を盗んでは書斎に忍び込んだ。子供らしい使命感と、子供らしからぬ情念の為に。
すべての始まりはブリキの宝箱に収められた数ある写真の中でも、一等大切で価値ある一枚だった。そしてこの一枚こそが私の羽で、始まりだった。
私が初めて見た父の撮った写真。写っていたのは一人の少女。私の見知らぬ世界でたった一人。血に濡れて死に向かうしかない異国の少女。痩せこけた頬、半開きの口からは血が滴り落ちている。みすぼらしくて、惨めで、憐れで、どうしようもなく美しい少女だった。
生と死の狭間。死へと傾倒する境界線。数秒とせずに死へと転がり落ちてしまうような急傾斜にほんのひと時、しがみ付いている。
少女にはおよそ下半身と呼べるものが無かった。腸と赤黒い血が、乾いた大地に広がっているだけだった。写真の隅々を探しても、少女の足は何処にもなかった。正確に言うのなら、写真には死体とすらも呼べない人の欠片が多すぎて、私には探し当てることができなかった。
私と歳の変わらない少女が、必死にあがいて、助けを、救いを求めていた。ファインダー越しの父に、写真越しの私に、手を伸ばしていた。
衝撃だった。乾いた土に染み込む血のリアリティが、無惨に広がる臓腑のグロテスクが、見開かれた両目に揺れる生への渇望が、死んでしまう事への純真な恐怖が――そのすべてが私を強く、強く打った。
その時私は十年と少しばかりしか生きていなかった。だがその十年という時間の中で、私は一度も出会わずにいた。虚ろな母、怠惰な教師、無自覚な級友、町中ですれ違う有象無象。その誰もが写真の少女に劣っていた。誰も彼もが生きてなどいない。当時の私はそう確信していた。
彼女こそは、彼女だけは、間違いなく生きていた。写真の時を、ほんの数瞬と進めるだけで死に絶えるだろう少女が、十年あまりの間に出会った誰よりも生き生きと輝いていた。
彼女の生は炸裂し、閃光は私の網膜を焼き、脳裏にありありと彼女自身を刻みつけて、気付けば私は彼女の虜となっていた。
夜空に咲く花火のように、宇宙の石塊が最後に瞬く流星のように、彼女は末期の美を誇っていた。
これは私の初恋。いや、少し違うのかもしれない。尊敬、もっと強い。信奉と、信仰と呼んで遜色ないものだったように思う。
私は彼女の様な、生きている者に焦がれていた。彼女のようにたとえ数秒とせず死ぬのだとしても、生きてみたい。そうする価値はあるに違いないと思っていた。死を目前として生きる事を許された彼女に近づく為、日頃抱く夢想の中で私はひたすら飛翔を繰り返したのだ。
ある日、運命の日と言ってもいいのだろう。
何の事は無い普通の一日に、なるはずだった。ほんの少しのすれ違いすら無かったのなら、今でも運命の日などではなくて、思い出すことすら無い。本当にただの一日であっただろう。
その日の母は珍しく上機嫌だった。いつも鬱屈としていて、どこか疲れた影に憑かれていた母が、その日ばかりは笑顔だった。
日曜日で用事も無かった私は、朝食後に母からゴミ出しを頼まれた。黒いビニールの大袋を手渡された私は、マンションの前にある収集所まで行って捨ててきた。何のことは無いただのゴミ捨て。収集所から見上げれば、母がベランダから見下ろしていた。憑き物が取れたような顔で私に微笑みかけていた。
午後になり母が買い物に出かけると、私はいつも通り父の書斎へと向かった。
父が撮った写真を見る為だ。異国の少女だけじゃない。彼女が一番である事にはなんら違いはないけれど、彼女と同種の輝きを持つ生きている人間は、極稀にだけれど父の写真の中にはいた。
当時の私にとって、無造作に段ボールに詰め込まれたままの、文字通り山の様な写真から、彼女たちを見つけ出して、ブリキの缶に匿う事は崇高な使命だと思っていた。クッキーの空き缶は、死んでしまった彼女たちの棺で、写真の一瞬に生きている彼女たちを、時間の浸食から守る聖域だった。
書斎の鍵は、居間の戸棚で見付かった。母は忍び込んだ私を見つけるたびに、鍵の場所を変えていたが、前に見つけた場所から動いていなかった。
鍵探しは余興にすぎなかったけれど、私は無邪気な楽しみを感じていた。母とのちょっとした遊びのつもりだったから、私は少し寂しく思った。
書斎のカーテンはいつも閉じられて、光は一筋として入っていない。私は馴れた手つきで電気をつけると、椅子を本棚へと寄せてよじ登り、本棚の上へと手を伸ばした。そこに写真の箱、彼女たちがいる。――いる筈だった。
私の手は空を切った。何度やっても手にあたる物は無かった。言い様のない焦りが私を襲う。胃に鉛が落ち込む様な、気持ちの悪い予感がした。本棚に足を掛け、精一杯の背伸びをして本棚上の隙間を覗いた。ない。何も無かった。
転げ落ちる様に本棚から飛び降りた。ブリキの缶。私の宝箱。その事ばかりが頭をめぐった。書斎を駆け出し、自分の部屋へと走った。ベッドに飛び乗り、シーツをはがし、布団をめくる。木の板を外して――見付けた。銀色の棺。ブリキの宝箱だ。この時の安堵は救いに近かった。そしてこの後に押し寄せる絶望は裏切りに違いなかった。
空っぽ、空っぽだった。私の宝箱は中に宝を持たない、クッキーの空き缶になっていた。胃が焼かれるような焦燥。どうしようもない。どういう事かも分からない私は焦っていた。どこに行けばいい。どうすればいい。思考はぐるぐると堂々巡りをして、彼女たちを取り戻す方法を必死に考えて……いや、彼女たちの不在から目を背けて、目の前の事実が恐ろしく、思考を進める事が怖かったから、ただぐるぐると頭の中を焦燥で埋め尽くしていたのだ。
無益な思考を止めたのは、彼女たちの発見ではなく。母の帰宅だった。私は冷静に問い詰めるつもりだったが、動転した口から零れ落ちたのは半ば悲鳴だった。
母はいつになく落ち着いていた。ゆっくりと両の手いっぱいのスーパーの袋を台所に置いて、言った。
――写真はあなたが捨てたんじゃない、と。
私は全身が凍りついた様に錯覚した。いや、錯覚ではなく、本当に凍りついていたのかもしれない。身体も、思考も、そして心も――。すべて、何もかもが凍りついてしまった。
母は私自身に捨てさせていた。朝の黒いゴミ袋の中には私の写真が詰まっていた。信じられない事だった。母は私に、他ならぬ私の手で、自らの羽を毟るように仕向けたのだ。そんな事があって良いはずが無かった。許せるはずが無かった。
母が捨てたのなら、まだよかった。それでも許せはしなかっただろう。私は激昂したはずだ。だけど、まだましだ。幾分か、ほんの少しだろうが、ましな筈だった。致命的な少し。そのほんの少しが、ましだったはずなんだ。
何より私を傷つけたのは母の笑みだった。イタズラが成功した子供の様な、無邪気な笑顔に大人の傲慢さを隠して、私をたしなめた。母は確信していたのだろう。私が許すと、ヘソを曲げるだろうが一晩も経てば、怒りもぼやけて、写真への妄信から解放される。何もかもが上手くいく。そんな風に考えていたに違いない。
私はそれを嗅ぎ付けた。子供特有の嗅覚で、その異臭を嗅ぎ付けてしまった。
その直後の事はよく覚えていない。確かなのは私が母を罵ったという事だけだ。それも私に言える限りの言葉を吐きだした。酷く汚い言葉で母をなじった。日頃感じていた事を、母が聞けば傷付くだろうと知っていて、それでいて知らないふりをしていた事全部、出来るだけ傷が深まるように、持てる限りの悪意で吐き出した。
自分で言うのもおかしな話ではあるけど、私は母の支えになっていたのだと思う。海外を飛び回って、ろくに帰ってこない父の代わりの支えになっていた。母は多少変わった趣味を持ち始めたとはいえ、それさえ目を逸らせば十分普通と言える息子を頼っていた。息子の為に家事をして、息子の為に生きていた。少なくとも私は依存されていると自覚していたし、誇りにも思っていた。私の、息子の存在が母を支えていたことは紛れもない事実だった。
驚き打ちひしがれた母を置いて、駆け出していた。ただ、母の顔を見ていることが耐え難かった。
気付くと私は屋上にいた。7階建てマンションの屋上。
高かった。目の前には鉄柵が無い。当然だ、乗り越えてしまったのだから。
視界に鉄柵の無い屋上は、いつもより随分と高かった。鉄柵を失うことで、より空へと延びたマンションの屋上は、私が飛翔するに十分な高さに思えた。
幾度となく繰り返した夢想を現実に。飛翔を今こそ果たして見せよう。母は知ることになるんだ。夢想の羽を奪う事が、逆に夢想を現実へと加速させる事になると。これは復讐だ。私自身の死が夢想を体現することになる。……単に私を失わせることで母を悲しませてやりたかっただけなのかもしれない。後悔させたかったのかもしれない。酷い事をしてしまったのだと、取り返しのつかない過ちだったと、思い知らせたかった。それだけだった。
そんな馬鹿げたくだらない腹いせは、素晴らしい夢想の陰に、確かにあった。
足が竦んだ。堪らなく恐かった。夢想にはひたすらな高揚だけがあった。こんな恐怖は微塵も存在してはいなかったのだ。
空気は酷く乾いて、そよぐ風すら殺意を持っていた。
世界のすべてが恐くなった。だけど、だからこそ、私は恥じた。心臓の動悸は恐怖ではなく、胎動なのだと、自分に思い込ませた。死んでいた私の心臓が始めて動き出したのだと信じ込んだ。
積み上げた夢想の数は誇りになって、その夢想を駆けた羽は勇気になっていた。
跳べる。飛べる。翔べる。
羽ばたかせる。次第に奪われたはずの羽が夢想を捉える。次第に私の体は軽くなって、世界は私に馴染んでいった。
体が傾く。
鉄柵から手が離れる。
重力が緩く溶けていった。
遠回りになってしまった。だけど、ようやく私は夢想に辿りつける。そう思った。
見えたのは、血塗れの――ようやく誕生し、そしてすぐに絶える生きた私――ではなかった。
母の顔、すごく必死な顔だった。
落ちる我が子を捕まえて、鉄柵の内側へと放り投げた母親の顔。
母は捕まえる瞬間、体を乗り出していた。私を救ったのは、母自身を鉄柵の向こうへと飛ばす力の反動だったのだ。
呆然としていた私が見たのは、飛翔する母だった。私から羽を奪い、飛翔を憎んでいた母が飛んでいた。なんとも皮肉げで、妬ましい。
私がそんな事を思えたのは一瞬で、現実は夢想とは違うと知る。母は重力に捕まった。その瞬間でさえ、母は安堵の表情を浮かべていた。それが堪らなく私を苛む。今でもこの顔を夢に見る。
どこか遠くで、生々しい音を聞いた。夢想の中では何度となく幻聴していた音だ。生々しくて、水っぽい。べちゃり、だとか。ぐちゃり、だとか。そういう音にもっと硬い、鈍くて重い音を足せば完成する。そういう嫌な音がした。
鉄柵に駆け寄った。乗り越える勇気はなかった。隙間から顔を覗かせて、見下ろした。赤い点が見えた。
弾けるように走った。エレベータは使わなかった。恐かった。立ち止まってしまう事が恐ろしかった。何か良くないことを考えてしまいそうで、耐えられなかった。視界は滲むみたいに歪んで、あれほど美しかった夢想が、私の裏切りを責めるように見えた。階段を転がるように降りる。途中本当に転んだけど、痛みは感じなかった。
一階の玄関から飛び出す。左を向いて走った。
母が潰れていた。衝撃で砕けていた。半身は崩れていた。
夢想が現実を浸食していた。母自身が嫌い侮蔑していた夢想に、母はなってしまっていた。
駆け寄った私は気付いた。駆け寄らずに傍観していれば良かったのに……気付いてしまった。母は生きている。腰をあり得ない方向に折り曲げて、臓物をまき散らしながら、一方通行の生死の境に立っていた。
血に濡れた唇は言葉なく上下して、虚ろな瞳はわずかに揺らめかせ、私に焦点を合わせていた。それでも写真の少女とは違った。死を恐れているわけでもなく、だからといって諦めてるわけでもなかった。そう、考えていない。そんな顔。ただ私の無事に安堵している顔だった。
誰かの悲鳴が聞こえた。周囲が騒がしい。気づけば辺りには人垣が出来ていた。
余り鮮明に見えすぎないように、血の匂いがしないように、死のリアリティから距離をとって輪になった群衆。ある人は好奇心を隠そうともせず、またある人は他人行儀な悲愴を振りまいていた。だけど全員に共通しているのは、死を『誰かにおきた悲惨の事故』として客観を持っていられる一線の向こう側から見ていた事。落下事故にあった女性と、縋りついて泣きわめいている子供を、ただ遠巻きに眺めているだけだった。
パシャッ――
シャッター音。輪の内側から、一度だけじゃない。何度も何度もシャッターを切る音がした。
私は辛うじて母であり続けている者から、母だったモノから、顔を離して見上げた。
父だった。ファインダーを覗き、ひたすらにシャッターを切っていた男は父だった。無関係の境界線。その内側に踏み込んだのは父だった。
この日母が妙に上機嫌だったのは、数カ月ぶりに父が帰ってくる日だったからだと、後になって聞いた。
父は仕事を辞めて帰って来ていたそうだ。母との約束だったのだという。今後は国内で仕事をやっていくと約束し、現に約束を果たした。果たされるはずだった。私がいなければ約束は果たされていたのだから。
母が私にした事も、今となっては納得できる。清算だったんだろう。強引にでも歪んでしまった家庭を直そうとしたんだと思う。幸せな家庭をやり直すためにしていたんだ。
でも私の歪みは母を傷つけ、殺した。私の歪みは反発してしまった。母もぎりぎりで、だからこそやり直すことに全力を出していた。崖の淵に踵だけが乗っているようなものだ。背中を、トンと押すだけで落ちてしまうほどに、かろうじて保たれていただけだったのだ。
父は救急車が来るまで、写真を撮り続けた。
カメラで顔は覆われて、父がどんな顔をしていたかは分からない。シャッターを切る指の震えが、私に問うことを躊躇わせ、結局私はあの時の父の表情を知ることはなかった。
父は私が高校に入ると同時に出て行った。私は何も言わず送り出した。引き留める術なんて知らなかった。
高校に入ってしばらくして、父の友人の編集者から父の死を知らされた。父は聞いたことも無い国の紛争で死んだ。事故みたいなものらしい。父は銃を持って殺し合いをしていた訳じゃない。カメラを持っていただけだ。だから流れ弾なんてものは、事故と変わらない。そう聞かされた。
帰ってきたのは、小さな箱に収まった父と、カメラが一つ。
高校は卒業したが、大学へ行くつもりは無い。
カメラを首から下げて家を出る。父の知人編集者は、地方雑誌の編集長らしい。尋ねてみようと思う。
この国では、死体が遠い。映画や漫画なんかではよく見るのに、実際の死体が隠されている。あたかも死体なんてこの国にはない、なんて言わんばかりに死体が無い。死のリアリティがぼかされている。
この国で死体を見た人がどれほどいるのだろうか。ほとんどの人は綺麗な、およそ死体とは思えない亡骸を、棺桶の外から眺めた事しかなのではないか。それが死とはほとんど別物に加工されてると知らないで、夢想と現実の違いを理解しようとしていないのではないだろうか。そう、かつての私のように。
父は外国の、見知らぬ世界の真実を伝えようとした。
母は家庭の、小さな世界を守ろうとした。
なら私はこの国の、小さな世界の真実を伝えたいと思うのだ。
読んで頂きありがとうございます。
ご苦労様でした。
一年前ぐらいに書いた物になります。たしか「岬にての物語」を読んだ後に書いた文学風ライトノベルです。……ライトノベル、なんですよ。何度も改稿してライトにしたはずが……。いや、これでもかなり文体軽くなってるんです。
短編でもこの内容でこの文体、果たして何人に最後まで読んで頂けるのか……。
批評感想ご指摘を頂けたら嬉しいです。
1月15日
指摘を頂くことが出来たので、誤字、言いまわし、表現などを改稿しました。
まだ難しく、活かしきれない部分も考え中ですので、まとまり次第改稿していこうと思います。
親身に助言を下さった皆様にお礼申し上げます。