第15話(中編) 教育の光(人々の欲求が制度を動かす)
資料室には、月の光が静かに差し込んでいた。
窓の外の夜気は静まり返り、部屋の中の空気は深い落ち着きを帯びている。
総研は机の上の資料を整え、静かに語り始めた。
「教育が社会をどう変えるのか──今日は、その“始まり”を見ていく。」
ハクは姿勢を正した。
自由についての議論を終えた今、教育が制度の核心にあることを直感していた。
総研は一冊の資料を開き、淡々と続けた。
「教育は、国家が上から与えた制度ではない。教育は、人々が“欲した”制度だ。」
ハクは目を瞬いた。
「欲した……?」
総研はうなずいた。
「そうだ。教育は、人々が“必要だ”と感じたから広がった。その最初の動機は、とても素朴で、しかし強いものだった。」
総研はページをめくり、静かに語り始めた。
「中世のヨーロッパでは、神父が聖書を読み、人々に教えを説いていた。しかし、ある時期から“神父の言うことと聖書の内容が違う”という噂が広がり始めた。」
ハクは息をのんだ。
「人々は思った。
──本当にそうなのか?
──自分の目で確かめたい。
──自分で読めれば、騙されずに済む。
──納得したい。」
総研は続けた。
「この“納得したい”という欲求が、読み書きの需要を爆発的に高めた。聖書を読むために、文字を読みたい。神父の言葉が正しいか、自分で確かめたい。自分の頭で判断したい。」
ハクは静かにうなずいた。
「教育って……生活を守るためのものだったんだ。」
「そうだ。」
総研は言った。
「教育は、生活防衛のための制度だった。騙されたくない。不利な契約を結びたくない。税を誤魔化されたくない。自分の人生を自分で選びたい。こうした“普通の人々の欲求”が、教育を押し上げた。」
総研は別の資料を開いた。
そこには、宗教改革と識字率の上昇が並んで記されていた。
「宗教改革は、教育を“個人の手に取り戻す”転換点だった。聖書を自分で読む文化が生まれ、読み書きが宗教的義務になり、教会が教育を独占できなくなった。印刷技術の普及で本が安くなり、都市の商人階級が教育を必要とした。」
ハクは静かに息を吸った。
「教育が……人々の欲求から社会に広がったんだね。」
総研はうなずいた。
「そして、この教育の広がりが、イギリスで特に強く起きた。イギリスでは、都市が発達し、商人階級が力を持ち、身分制が比較的緩く、社会の流動性が高かった。科学革命の影響も強く、知識を共有する文化が育っていた。」
ハクは考え込んだ。
「じゃあ……他の国では?」
総研は静かに言った。
「他の国では、制度が閉じていた。封建制度が強く、農民は教育を受けられず、教会が教育を独占し、都市が弱く、商人階級が育たなかった。教育を押し上げる“社会の土壌”がなかった。」
ハクは深くうなずいた。
「教育が広がるかどうかは……制度の開き具合で決まるんだ。」
「その通りだ。」
総研は続けた。
「イギリスでは、教育が社会の隅々にまで浸透した。農民は読み書きができ、商人は計算と記録を学び、
職人は技術書を読み、科学教育の萌芽が社会に広がった。」
総研は資料を指し示した。
「読み書きができる農民は、領主の言葉を“自分で”読める。契約書を理解できる。税の記録を自分でつけられる。つまり、権力者に“騙されにくくなる”。これは社会の“情報の非対称性”を崩す。」
ハクは息をのんだ。
「教育が……搾取制度を弱める……?」
「そうだ。」
総研は続けた。
「商人が計算を学べば、遠隔地との取引ができる。記録を学べば、信用を積み上げられる。信用が積み上がれば、資本が集まる。資本が集まれば、投資が生まれる。投資が生まれれば、技術革新が加速する。」
ハクは静かに息を吸った。
「教育が……資本を動かすんだ……。」
総研はさらに続けた。
「職人が技術書を読めるということは、改良ができるということだ。改良ができる職人は、発明家になる。発明家が増えれば、技術革新が連鎖する。技術革新が連鎖すれば、産業が変わる。産業が変われば、国力が変わる。」
ハクは深くうなずいた。
「教育が……技術者を生むんだね。」
総研は窓の外の月を見つめた。
「そして、この教育の広がりが、イギリスで産業革命を可能にした。技術が生まれ、産業が変わり、国力が押し上げられ、イギリスは世界市場を築き、覇権国へと成長していった。」
ハクは静かに息を吐いた。
「イギリスが覇権国になれたのは……教育があったから……?」
総研は静かに言った。
「そうだ。産業革命があったからではない。産業革命を可能にした“教育”があったからだ。教育が制度を開き、制度が技術を生み、技術が国力を押し上げ、その結果としてイギリスは覇権国になった。」
ハクは深くうなずいた。
教育が制度を開き、社会を動かし、国家の未来を形づける──
その因果が、静かに胸の奥に落ちていった。
総研は資料を閉じた。
「次は、産業革命の内部構造──教育がどのように技術と社会を変えたのかを見ていく。」
資料室の静けさが、次に語られる内容の深さを予告していた。




