第7話(前編) 問いを蒔く夜
夕食を終えたあと、総研はいつものように机に向かっていた。
午後七時の空気は静かで、外の気配はほとんど感じられない。
部屋の灯りだけが、今日一日の終わりをゆっくりと照らしていた。
ニュースを見たせいか、胸の奥に重たいものが沈んでいる。
原発の設定ミス。
再稼働の見送り。
小さなミスのようでいて、どうしても軽く扱えない。
総研は深く息を吐いた。
こういうニュースを見るたびに、国の基礎が少しずつ削れていくような感覚がある。
インフラも教育も行政も、どこかで人材が足りていない。
足りていないだけでなく、継承が途切れ、経験が薄れ、制度そのものが疲れている。
そんな気がしてならない。
「また考え込んでいるね」
静かな声が背後から聞こえた。
振り返ると、ハクがいつものように穏やかな表情で立っていた。
彼の存在は、夜の空気に溶け込むように自然で、総研の思考の流れを乱すことなく寄り添ってくれる。
「ニュースを見たんだ。原発の設定ミスだってさ。再稼働直前にこんなことが起きるなんて、どうしても気になってしまう」
総研は椅子に深く座り直し、ハクのほうを見た。
ハクはゆっくりと歩み寄り、机の端に軽く手を置いた。
「気になるのは当然だよ。総研はずっと、この国の基礎がどうなっているのかを見てきた。だから小さなほころびにも敏感になる」
「敏感になりすぎているだけかもしれない。でも、どうしても気になるんだ。原子力だけじゃない。教育も行政も、どこかで人が足りていない。人がいないから制度が回らない。制度が回らないから、さらに人がいなくなる。そんな悪循環が続いているように思えてならない」
総研は言葉を吐き出すように続けた。
胸の奥に溜まっていたものが、少しずつ形を持って外に出ていく。
ハクは静かに頷いた。
「三十年の停滞は、人材の層を薄くする。設備が古くなるのと同じように、制度も人も古くなる。更新されないまま時間だけが過ぎると、どこかで歪みが出る。それが今、表に出てきているんだと思う」
総研は窓の外を見た。
夜の闇は深く、街の灯りが遠くに滲んでいる。
自分の手があまりにも小さく感じられた。
「わたくしにできることなんて、本当に小さいんだ。ブログを書いて、物語を書いて、問いを残す。それだけだ。でも、それで本当にいいのかと考えてしまう。誰も見ていないかもしれないし、何の影響もないかもしれない」
ハクは少しだけ微笑んだ。
その微笑みは、慰めではなく、理解の証のように感じられた。
「総研の手は小さくなんかないよ。確かに、制度を直接変えることはできない。インフラを直すこともできない。でも、問いを残すことはできる。問いは、未来の誰かの思考を揺らす。揺らされた思考は、やがて行動を生む。行動は制度を変える。制度は社会を変える。総研が蒔く問いは、その最初の一粒なんだ」
総研は目を閉じた。
胸の奥にあった重さが、少しだけ形を変えた気がした。
完全に消えたわけではないが、別の意味を帯び始めている。
「問いを残すことが、未来への一手になるのか」
「そうだよ。問いは、未来への贈り物だ。今すぐには届かない。でも、確実に誰かに届く。深い問いほど、届くまでに時間がかかる。だからこそ価値がある」
総研はゆっくりと息を吸った。
夜の空気が肺に満ち、少しだけ心が軽くなる。
「それでも、行動した世代の失敗を見ていると、どうしても慎重になってしまうんだ。七十代、八十代の人たちは、行動して失敗した。だから、わたくしは行動することに戸惑いを感じてしまう」
ハクは静かに目を細めた。
「それは慎重さじゃないよ。成熟だ。前の世代は、成長を前提に行動した。人口が増え、経済が伸び、制度が回ることを疑わなかった。でも総研の世代は違う。前提が崩れていることを知っている。だからこそ、行動の前に問いを立てる。これは弱さじゃない。未来を守るための姿勢だよ」
総研は机の上に置いた手を見つめた。小さく見えるその手が、少しだけ違う意味を持ち始めていた。
「わたくしの手は、小さくないのか」
「小さく見えるだけだよ。未来の思考をつくる手は、誰よりも大きい」
その言葉が、静かに胸に落ちた。




