第一話 そうして僕は逃げ出した3
この世界に来てどれだけ経ったろうか。
一週間くらいはきっちり日付を数えて居たかもしれないが、それ以上になってくると、勇太には何故か経過した日数がはっきり記憶出来なくなった。
というのも、活動範囲が勇太用の個室(牢屋より少しマシ程度のもの)と、監視付いた庭園の様な場所。後はどこかの会議室や研究室に出向く程度で終わってしまっているからだ。
余計な知識を与えない、余計な行動をさせない、余計な考えを浮かばせない。
そんな日々が何日も続けば、日数の経過という記憶すら曖昧になってくるのだなと勇太は知る。
「不味いと思うんだよね。これ」
と、ぼんやり空に呟く。空は元の世界と変わらない青。夕方になれば赤く染まり、夜には暗くなるというのは変わらない。
太陽と月らしきものはきっちり一つずつであるが、それが元の世界と同じ理屈で存在しているかは分からないし、そもそも元の世界の方だって理解出来ていたかは怪しい。
ただ、どうにも自分が曖昧な存在になってきているとは感じる。
「この庭園……そういえば僕のために用意されたんだろうか?」
部屋に籠っていると陰鬱になってくるため、唯一行動を許されているその庭園のベンチで勇太はまた呟いた。
恐らく大きな施設の中に作られたもので、四方は建物に囲まれている。出入口は二つあるが、それぞれに兵士らしき人間が立っており、常に勇太を睨んでいる。
彼らも暇にならないのだろうかと思うものの、その次にふと疑問が湧いてきた。
(まるっきり刑務所の中庭みたいな場所だけど……見るのは僕だけ? 本気で僕のためだけにここは用意されてる?)
刑務所にしたって優遇されている気がする。そりゃあここに居るのは苦痛ではあれど、狭苦しいと思った事は無い。
むしろ所在の無さの方が苦しい。この空間はもっと……多くの人間が使うべき場所に思えている。
(そう言えば、僕みたいなのがこの世界に来る様になってから一年程って言っていたな? つまり、僕以外にも複数人居るって事で……ここはその収容所みたいなものだったり?)
そんな推測をしてみるも、やはり疑問は消えない。どうしてここには勇太一人だけなのか。
「そろそろ色々と疑問が湧いて来る。そういうタイミングだろう?」
「!?」
勇太は咄嗟に立ち上がる。何時の間にか、近くにあの赤毛の女が立っていた。何時の間に近づいたのか。というか、何時頃にこの庭園に入って来たのか。
混乱が続く勇太に対して、赤毛の女は遠慮なんて一切無く話を続けて来る。
「お前が見ている世界は狭い。狭い世界というのは、歪な部分が必ずあるし、そこを見て不自然を感じるのはむしろ自然だ。だから……そろそろここ以外の世界を見てみたくは無いか?」
「ここ以外って……外に出れるって事ですか?」
「そうは聞こえなかったか? とりあえず、お前を何時までも閉じ込めておく事も難儀な事情があってな。外出許可はすぐには出ないが、手筈については整った。これはその証だ」
言いつつ、赤毛の女は取っ手の付いた何かを投げて寄越してくる。
慌ててそれを受け取る勇太は、受け取ったそれが何であるかの確認を始めた。
「これって……えっと……」
「何だ? そっちの世界には無いのか? 短剣が」
「い、いや。そりゃあ誰でも持ってるわけじゃあ……短剣? 僕に?」
確かに、ずっと閉じ込めて置く相手に渡すものではあるまい。この世界がどの様な社会かは知らないが、囚人に凶器を持たせる文化もまず無いだろうし。
「短剣を渡された事が不満なのか? 試しに抜いて確かめてみろ。ちゃんと扱えるかな」
「ちゃんとなんて扱えませんよ。刃物なんて持つ機会、そこまで多いわけじゃあないし……うわっ。本物だよ」
鞘から短剣を抜き、その刀身を見つめる。
ギラギラ鈍く輝いて、その刃先は鋭い。刃物の切れ味の差なんて分かる身では無いが、他人に無暗に振るえば、傷つける事は出来るだろうそういう道具。
「ふむ……まあ、今はそれで良いか」
「なんです? ここに来てから、そういう思わせぶりなセリフばっかり聞いている気がしますけど」
「そりゃあ、お前に対して、こっちはでは思うところが無い者も珍しい」
「そのお前って言い方も気になります。一応、僕は中沢・勇太って名前があるんですから」
「私にはアイシンカ・クイーズとういう名前がある。で、それをお互いに知って、何か状況が変わるのか?」
「変わりましたよ。とりあえず、僕の方は多少なりとも親しみを感じる。ほんのちょっとだけですけど」
親指と人差し指の間を狭めて、ちょっとだけを表現する。このジェスチャーがこっちの世界でどういう意味を持つのかなんて事は知らない。
「ま、名前で呼び合うのは確かに関係性が変わるか……だが、そのナカザワ・ユウタだったか? その名前の発音はこちらに馴染みが薄い。そうだな……ユウくらいだな。他人から名前を聞かれたらそう名乗れ。お前を知らない人間に異世界人である事がバレた時よりはマシな反応があるだろう」
「僕が異世界人だと警戒していない人間と、この世界に来て出会った事も無いんですけどね」
言いつつ、赤毛の女。アイシンカを見つめる。向こうはどうであれ、こっちは心の中でも彼女を名前で判断してやる事にする。なるほど? 確かに勇太にとっても馴染みの無い発音をしている名前だ。
「これから、会う事もあるだろう。もう少し時間が経てば―――
じっくり話でも始めるつもりだったらしいアイシンカであるが、その目付きが変わり、視線も勇太から外れた。
一方の勇太も、アイシンカが見ている方へ、咄嗟に視界を移動させる事になる。建物で隠れて状況は分からないが、その方向から何かの破壊音が聞こえたからだ。
「何? 爆発?」
「いや、襲撃だ!」
アイシンカは走り出し、庭園を出ていく。聞こえて来た破壊音の方へ向かったのだろう。
取り残されるのは勇太一人。庭園で見張りをしている連中すら、今の状況に慌てて、勇太から意識を逸らしている。
(……これは選択のタイミングじゃあ無いか?)
ここで大人しくじっとしているのも手だろう。それで平穏は得られるかもしれない。このままずっと、同じ退屈で窮屈な日々という名前の平穏が。
一方で、自分でも、ここで起こった変化を確認するべきではという思いも生まれた。少なくとも、この世界に勇太の味方は居ない。自分の身は自分で積極的に守るしか無いのだ。
「仕方ない。行くか」
見張りの兵士らしき人間はどこぞの上司にでも叱られるだろうが、申し訳ないと思うだけで済ましておく。
さすがに脇を通り過ぎた時には、勇太が逃げた事に気が付いたろうが、走る速度は勇太の方が速かった。
(やっぱり、僕の身体はどうにかなってるらしいな!)
これまでに無い速度を勇太自身が感じていた。一歩一歩が力強く地面を踏みしめ、床がひび割れんばかりの脚力で勇太を前方に進ませていく。
妙な爽快感がそこにあった。どこまで自分は速く動けるのか。人生で経験した事の無い疾走速度に感動しながら、一瞬忘れかけた目的の場所へと向かう。