第一話 そうして僕は逃げ出した2
デーンというのはこの世界において、空とか見える範囲とかを現わす言葉だそうで、最近まではそれほど使われる言葉では無かったそうだ。
「一年程前から、別の世界の人間と名乗る輩が現れだすまでは、世界はつまり世界だった。別とか異なるとかは無い、一つの世界だったわけだ」
立ち並ぶ机と椅子。どこか学校の教室を思わせてくるそんな部屋で、机の上に置かれた地図やら資料ならが雑に広げられた状態で、勇太はそれを眺めていた。
目はそれらの資料の内容を、耳には勇太を先ほどの部屋……どうやら牢屋や拘留部屋の類だった場所から連れ出して来た赤毛の女の声を頭の中に入れている最中。
「情報がこう……一気に入って来て、説明されたり見たりしてもわけが分からないというか……」
「そうか? お前達にとっては酷く簡単な話だろう? そっちからこっちにやってきた。しかも妙な力を持って」
「妙な力って、元の世界では非力な一般人だったんですよ、僕は」
言いながら、手のひらで机を叩く。力を込めたつもりも無いのに、机からは激しく音が鳴り、振動した。壊れなかったのは幸いだが、これが拳だったのならそれこそ机を割ってしまったかもしれないと思うと恐ろしい。
「我々が聞いた限りは、実際にお前達は一般人だったそうだな。実際のところはどうか知る方法も無いが」
「そりゃあ……こっちの世界にあなた達みたいなのが現れてそのまま帰ったなんて話は聞きませんから、調べろってのは無茶なんでしょうけど。困っているのはこっちもだ」
「ま、だいたいの異世界人は当初そんな様子だな。お互いが混乱する。これでも漸く一年。突然やってきた連中への扱い方も、ある程度分かって来た状況だ」
「それが今やってる事だって言うなら、反感を買うだけですよ」
突然に拘束されて、気絶させられ、牢屋に入れられ、次にはいきなり大量の情報を浴びせかけられる。相手に良い印象を持てるタイミングが一切無い。
「多少、恨まれる程度でのファーストコンタクトならば上等だ。私は少なくともそう考えている。お前をいきなり拘留したのもそれが理由でね。こっちの世界の社会情勢についてはさっき説明したが、ちゃんと分かっているか?」
「えっと、デーン内には幾つか大陸があって、その大陸の一つ。複数国がある中で、その一つがここ、キープハイン王国……一番上に王様が居て、王様の下に騎士団とか統治機関が存在しているでしたっけ……?」
「その通り。私も王国騎士団に所属する一人の騎士だが、まあ詳しく知って貰うのはまだまだ早いだろう。お前達にとっての問題……というより、我々の問題でもあるのだが、それは、お前達が良くこっちを知らずに、こっち以上の力を持っているという点だ」
こっち以上の力。何故か勇太にもある、元の世界では無かったはずの怪力。それは彼らの世界へやってきた人間なら誰しもが持っているものだそうだ。
「世界を移動する際に何らかの力を得ているというのは確実だ。怪力の方は知らんが、今なお、それをしているだろう、お前も」
「僕が……さっきの怪力以外で?」
「こうやって、普通に喋っている。資料に書かれた文字すら見れるらしいな」
言われて気が付く。文化も文明も違う世界で、普通に見聞き出来る事がそもそも異常であるという事に。
相手が日本語を話しているとばかり思っていたが、こんな、文化どころか世界すら違う場所で、同じ言語が使われているのは不自然が過ぎる。
この世界がおかしいのではない。きっと、勇太の方に何かあるのだ。そう考える他無いだろう。
「そういう……奇妙な存在だから、僕を捕らえたって、そういう事ですか」
「有り体に言えばそうだ。そちらの世界ではしないのか? だとしたら随分と無警戒だし、心も広いのだろうな」
いいや、きっと、珍獣扱いはするのだろう。立場が違うだけ。それは納得出来た。出来たが、危機感は消えない。
「あなた方の言い分は分かりましたけど、じゃあ僕はどうすれば良いんですか。元の世界に帰れるなら……」
「そういう方法があれば、我々とて楽なのだろうが、こっちへ来い。そうして窓の向こうを見てみろ」
四肢は自由であるからこそ、赤毛の女に示された様に窓際にも行ける。そうして、そこから見える光景に、漸く勇太は意識を向けた。
現在、相応に高層な建物の上階に居るのであろう勇太は、そこから多くの物を見る事が出来た。
キープハイン王国の王都と呼ばれる、勇太が現在居る街、エンドヘルト。勇太が居た世界よりかは文明的な臭いが薄れるかもしれないが、それでも多くの人間が賑わい、大規模な建築物が立ち並ぶ、圧倒されそうな街。
主に赤レンガ造りの街並みは、街の色にもなっており、どこか華やかさを感じさせてくる。ただ一箇所を除いて。
「街の色が……変わってる……?」
街の、恐らく一区画丸ごと、印象が変わっていた。他の街並みが華やかなのであれば、そこはどうにもくすんで見える。いや、これは……。
「あれは破壊されていると言うんだ。お前より前にやってきた異世界人が、元の世界に戻せと暴れてな。方法なんてこっちも必死に探しているというのに聞かなくて……ああなった」
ああ、なんて事だ。街の賑わいが活気であればある程に、あの破壊の跡は痛々しく残っている。
自分の責任では無いなんて事は分かっているが、それよりもまず、この赤毛の女がこちらへの警戒を隠していない理由に納得してしまった。
警戒であり敵意。当たり前だ。彼らは街を破壊され、当たり前にそこに生きていた人命を失ったのだ。勇太の様な異世界から来た人間によって。