(3-4)
◇
誰もいなくなって静まりかえったルクスの館でエレナは掃除道具を探してみたが、そんなものはどこにもなかった。
雑巾や箒くらいはあるかと思ったのに、どうしたものだろうか。
歩けば床にたまった埃が舞い、くしゃみが止まらなくなるし、ドレスの裾につく汚れも気になってしまう。
エレナは心の中で「箒よ、出ろ!」と唱えてみた。
光を望んだときは明かりがついたのに、今度は何も出てこなかった。
望んでも手に入らないものもあるのですね。
ため息しか出てこない。
それから屋敷の中をいろいろと探してはみたものの、明かりのない真っ暗なところも多くて、結局掃除用具は見つからなかった。
ただ、思わぬものも見つけていた。
エレナに用意された寝室のクローゼットを開けてみると、何着もの服が用意されているのだった。
洗練された夜会服に闇の世界には似合わない華やかな色合いの舞踏服から、散策向きの軽装もある。
どれもサイズもぴったりだ。
いつの間に採寸されたのだろうか。
王宮の牢屋でゴキブリ姿の彼をドレスに潜り込ませたときだろうか。
ルクスに撫で回されたような感覚がして身震いしてしまう。
思えば、胸の詰め物もとっくにお見通しなのだろう。
エレナは腰に手を当ててため息をついた。
そもそも、この闇の冥界ではこのような服を着る機会すらないではないか。
宝の持ち腐れというもので、ちっともうれしくなどない。
ただ、クローゼットにはメイド服もあった。
今のエレナにとっては、こちらの方がありがたかった。
不意に、子供の頃のことが思い出される。
十年くらい前だったろうか、遊びでミリアと服を交換したことがあった。
その頃すでに成長していたミリアのメイド服は、エレナには胸のところがだぶだぶで、逆にミリアはエレナのドレスがきつくて腕が上がらないと困惑していたのが懐かしい。
そうやって服を交換すると、自然に立場も入れ替わったような気がして、お互いになりきって演じる遊びも楽しかった。
エレナが床に雑巾がけをしていると、頭上で高笑いが聞こえたものだ。
『もっと丁寧になさいな、エレナ。埃がたまっていますわよ』
『はい、ミリアお嬢様』
意地悪な伯爵令嬢になりきったときのミリアの演技は見事な物だった。
『下手くそねえ。やりなおしなさいな』
『ちょっと、ミリア、わたくし、そんなに意地悪じゃなくってよ』
『口答えをするのですか。おまえはクビです。出ておいきなさい』
あの時は演技とは分かっていても、悲しくて涙が出そうになってしまったものだ。
でもおかげで、自分がミリアにずいぶん頼っていたことも自覚できたし、甘やかせてもらっていたことに感謝をしたものだった。
皮肉屋で、ときには悪ノリもする侍女とそんな遊びをしたのも、今となってはいい思い出だ。
でも、そういった幸せだった時間がすべて嘘偽りでしかなかったとは全く気がつかなかった。
ミリアはそんなにわたくしを恨んでいたのでしょうか。
あんなに優しかったのに。
どちらが本当のミリアだったのでしょうか。
エレナはもう会うことのない彼女の幸せを祈った。
母の形見のドレスについた汚れをブラシで払ってクローゼットにしまい、メイド服に着替える。
クローゼットの横に大きな姿見が置かれている。
自分の姿を映してみようと歩み寄ったエレナは思わず声を上げてしまった。
「まあ、どういうことかしら?」
鏡に映っていたのは、道化師のような奇妙な顔の女だった。
顔を白く塗り、頬は紅をべったりと塗りつけ、下品な口をだらしなく開けて薄笑いを浮かべている。
なんでこんな姿が鏡に映っているのだろうか。
服装は同じメイド服なのに、顔だけがおかしい。
わたくし、こんな顔じゃありませんわ。
と、そのときだった。
「あんたに決まってんじゃん」
鏡の中の妖魔がエレナを指さした。
「ち、違います」
思わずエレナが首を振ると、妖魔がケケケッと声を上げて笑う。
「あたしはあんた。あんたはあたし。鏡に映ってるんだもん、あんたに決まってるじゃん」
「違います。あなたはわたくしではありません」
「えー、なになに? あたしの方がカワイイから? ま、そうだけど」
「何を言うのですか。わたくしの方が美しいに決まっています」
「やだ、この人、チョー自慢してんだけど。なんかムカツクんですけどぉ」
それはこちらも同じだ。
なんという下品な話し方だろう。
まともに相手をしているとイライラしてしまう。
エレナは鏡の前からどこうとした。
すると、逃がすまいと鏡の中から手が伸びてきた。
「ちょっと、あんたどこ行くのよ」
ヒッと悲鳴を上げて逃げようとしたエレナはメイド服の背中をつかまれてしまった。
「や、やめて! 離して!」
「べつに怖がることないじゃん。あたしはあんただって言ってんでしょ」
「そんなはずありません」
振りほどこうとすると、「なんでよ」と力が弱まる。
エレナは振り返って妖魔と向かい合った。
「私はそんな変な顔ではありませんし、言葉遣いも違います。あなたはとても下品で不快です」
「言うじゃーん。でも、まあ、たしかに体型も違うしぃ」と、鏡の中で妖魔が腰をくねらせる。「あたしバインバインのお色気たっぷりナイスバディだけど、あんたぺったんこだもんね」
言われたとおりなので言い返せないのが悔しい。
妖魔が腕で自分の胸を挟み込んで谷間を強調して見せつけてくる。
「まあ、でも帝王様はあたしみたいないい女の方がお気に入りだからべつにいいけど」
「お、お気に入りとはどういうことですか」
「だから、あんたみたいなつまんない女より、あたしみたいな抱き心地のいい女の方がかわいがられるってことよ」
「そ、そんなのわからないじゃありませんか」
「アハハ、ムリムリ。あんたじゃ無理だって。絶対あたしに決まってんじゃん」
「いいえ、わたくしの方です」
「なんでよ」
「わたくしの方が美しいからです」
エレナは自信を持って断言した。
体型はともかく、こんなへんな化粧の女に負けるはずがない。
すると、鏡の中の妖魔が突然口をゆがめてまた両手を伸ばしてきた。
ガッチリと肩をつかまれる。
「ま、顔がカワイイのは認めてやんよ」
急に様子が変わって、エレナは恐怖を感じた。
妖魔がいきなり鏡の中へ引きずり込もうとする。
「あんたのそのかわいいお顔をあたしによこしな。ナイスバディにあんたの顔が手に入ればあたしは理想の女になれるのよ」
「お、おやめなさい!」
逃げようと背を向けたエレナの頬を妖魔が後ろからつかむ。
「フンッ、お上品なのも気に入らないねえ。顔を剥ぎ取ってやる」
思わず肘で突き放そうとすると、顔がビリビリと音を立てて引きはがされそうになって、エレナは叫び声を上げながら振り向きざまに拳と肘で鏡を殴りつけた。
バリン、ガシャンと派手な音を立てて鏡が砕け散る。
そのとたん、強い力は消え去り、周囲はまた物音一つしない暗闇に覆われていた。
かろうじて自分の周辺だけがぼんやりとした明かりに包まれている。
床に散乱した破片を見つめながら、エレナは息を整えた。
妖魔の姿はどこにもない。
いったい、あれはなんだったのだろう。
「何をしている?」
ヒャッ!
背中から急に声をかけられて思わず無様な声を上げてしまった。
もう、嫌。
今度は何!?
心臓が止まりそうで、振り向くこともできずに思わずエレナは泣き出してしまった。
「どうした、俺だ」
それは聞き覚えのある落ち着いた低い声だった。
「安心しろ、俺だ」
背後から包み込むように抱きしめてきたのは、人の姿をしたルクスだった。
「な、なんですか。お、驚かさないでください」
「そのつもりはなかったんだが」
エレナはルクスと向かい合った。
「いつお帰りだったのですか」
「今だ。おまえが助けを求めていたのでな」
地上に行っていたはずなのに、この部屋で起きた騒動を感じ取ったというのだろうか。
「わざわざわたくしのために戻ってきてくださったのですか」
「俺は冥界の帝王だからな。どこにいてもおまえの声は聞こえるし、いつでもすぐに戻ってこられる」
ルクスの腕の中で落ち着きを取り戻したエレナはわびを述べた。
「す、すみません。鏡を割ってしまいました」
「かまわん。怪我はないか」
「ええ。大丈夫です」
「手を見せてみろ」
言われるままに両手を差し出すと、ルクスは丹念に確かめてエレナの小指に口づけた。
「なっ何を……」
「血が出ているぞ」
と、見ると、小指に細かな破片が刺さっていた。
痛みはないがかすかに血がにじみ出している。
「た、たいしたことはありません」
「いいから見せてみろ」
ルクスが破片を抜いてもう一度口づける。
すると、すぐに血は止まり、傷口も塞がっていた。
これも魔力なのだろうか。
それに、王宮の牢獄ですりむいた傷口もきれいに治っていた。
「ありがとうございます」
「礼にはおよばん」
エレナは鏡の破片を見下ろしながらつぶやいた。
「帰ってきてくださって安心しました」
「なぜ鏡を割った」
「おかしな魔物がわたくしを鏡の中に引きずり込もうとしていたのです」
ルクスの答えは意外だった。
「ここにはおまえ以外いないぞ」
「そんなはずは……」
「鏡に映るのは自分だろう。それは冥界でも同じだ」
まるであの妖魔のような言い分だ。
「いえ、わたくしは、あのような者とはまったく違います」
「人は自分の姿を認めたがらぬものだ」
「でも、全然違うんです。顔も似てませんし……」
体つきも、と言おうとしてエレナは黙り込んでしまった。
「なんだ、どうした?」
「いえ、なんでも……」
心の中を見透かされたくなかったので、そのことを考えないようにして、エレナは話題を変えた。
「お掃除の道具はありませんか?」
「掃除などする必要はないと言っただろう」
「でも、鏡も片付けませんと」
「それならば心配はいらん」
ルクスがパチンと指を鳴らすと、ガラスの破片は跡形もなく消えていた。
ずいぶんと便利な能力だ。
「ならば、この埃も片付けてもらえませんか」
「だから、この埃は掃除などしても無駄だと言っている。人の罪は永遠に降り積もるからな」
と、言いながらルクスがエレナの服装をじろりと眺める。
思わず胸の前で腕を合わせて身構えてしまう。
ルクスは無表情に感想を述べた。
「なかなか似合うではないか」
褒められてもあまりうれしくない。
「その服に似合うというのであれば、用意してやろう」
ルクスが指を鳴らすと、箒や雑巾などの掃除用具一式がほこりまみれの床の上に現れた。
エレナは箒を拾い上げて床を掃いてみた。
もうもうと埃が舞い上がるばかりで、いくら集めてみてもきりがない。
「だからやめろと言ったのだ」
「いえ、少しでもきれいにします」
「やっても、またすぐに積もるだけだ」
「いいのです。わたくしの気の済むようにさせてください」
「頑固な女だ」とルクスが口元に笑みを浮かべる。「俺好みのな」
「べつにあなたのために掃除をしているのではありません」
「当たり前だ。俺はするなと言ってるのだからな」
なんだろう。
どうもこの男とは合わないような気がする。
でも、この男と一緒でなければ、ここでは生活ができない。
しかも、この時間は永遠に続くというのだ。
かといって、自分にできることは何もない。
エレナは箒の手を止めてため息をついた。
そんな彼女の手を取って、ルクスが闇の中で青く輝く指輪をはめた。
「おまえにこれをやろう」
「これは……」
サファイアの指輪だった。
地下牢で男たちに奪われた母の形見の指輪に違いない。
「これをどこで?」
「地上で男どもが売り払おうとしていたのでな。俺が買い取った」
「まあ、そうだったのですか。ありがとうございます」
冥界では何の価値もないものかもしれないが、エレナにとっては心の支えとしては十分なものだった。
「それにしても、あの者たちにお金を払うのはもったいなかったのではありませんか」
ルクスはエレナの手をそっと離した。
「俺は金など持っていないぞ」
「どういうことですか?」
「そこらへんに落ちている石ころをやつらが勝手に金だと思い込んだだけだ」
「まあ、それは魔法か何かですか」
「人の欲望が自分自身を惑わせるだけだ。人は価値があるものを望むのではなく、それにふさわしいものを望むのだ。やつらにはその指輪より、ただの石ころの方が似合っていたというわけだ」
なんだか難しい話でよく分からないし、あの男たちには気の毒だが、元々この指輪はだまし取られたものなのだから、返してもらっても悪くはないだろう。
「ありがとう、ルクス。大切にしますね」
「それは何よりだ」
よく分からない相手ではあるけれども、彼なりに思ってくれているのだろう。
とはいえ、素直にその好意を受け入れるのは、まだ抵抗があった。
人だったら良かったのに。
巨大化したゴキブリの姿を思い出しそうになって、エレナはあわてて頭からその想像を振り払った。
感想・ブクマ・評価ありがとうございます。