(3-3)
◇
道端に木が生えている。
はじめは一本だけだったのが、歩いていくうちにだんだんと街路樹のように何本も現れてきた。
周囲は相変わらず荒野なのに、木にはリンゴのような実までなっている。
手を伸ばせば届くような高さにもたくさんぶらさがっている。
「あれはなんですか?」と、エレナはルクスにたずねた。
「冥界の木の実だ。青いのは固くて毒がある。それでも空腹に耐えきれず食べるやつがいる。苦しむと分かっているのに、目先のつらさから逃れようとする。人間はどこまでも愚かなものよ」
ルクスが赤い実を一つもいでかじりついた。
「だが、熟した赤い実は毒が消え、こうして食べられるようになる。冥界のものとは思えないほど甘美な誘惑だ」
赤い実からはいい匂いも漂ってくる。
エレナも赤い実を一つ取って食べてみた。
柔らかいのに、シャクシャクとした歯触りが心地よく、絶妙な甘さが上品で、地上で食べたどんな果物よりも癖になりそうなおいしさだ。
「さあ、行こうか」
ルクスはエレナをいざなってまた道を歩き始めた。
歩きながらエレナは残りの実をかじり続けた。
ミリアと一緒に城の中庭に生えていたリンゴを食べたことを思い出す。
甘みよりも酸味が強くて固い実だったけど、思えば綺麗にむかれた食卓のリンゴよりもおいしかったような気がする。
もうミリアとあんなことをして笑い合えるときは来ないのだろう。
どうして自分たちの運命はこんなにねじれてしまったのだろうか。
「着いたぞ」
果物の木に囲まれた場所に家が建っていた。
貴族の城館よりは小さく、田舎領主や地主の館といった趣だ。
しかし、石とレンガでできた重厚な建物には明かり一つなく、壁は一面ツタのような葉で覆われ、外れかけた窓の鎧戸がきしむ音があちこちから聞こえてくる。
「ここは?」
「俺の家だ」
エレナが入口に足を踏み入れようとすると、ポーチの屋根からコウモリの群れが甲高い鳴き声を上げながら飛び立っていった。
陰鬱な影に覆われた建物を見上げてエレナは思わずルクスにしがみついた。
「来るがいい」
ルクスは玄関ドアを開けてエレナを中へ招き入れた。
中は真っ暗で何も見えない。
エレナは心の中で『光あれ!』と唱えた。
壁際の燭台に灯がともり、中の様子がほんのりと浮かび上がる。
がらんとした玄関ホールには埃が積もっていて、ルクスのものなのか、足跡がはっきりと残っている。
掃除はしていないのだろうか。
「無駄だ」
心の中を読み取るかのようにルクスがつぶやく。
「これは埃ではない。冥界に降り積もる人の罪だ。掃除をしたところできれいにはならない」
ルクスは奥へ進んでいく。
そこはキッチンだった。
頑丈そうな足に支えられた分厚い板のテーブルが置かれ、その上には肉の塊が何種類か並んでいる。
気のせいか腐敗臭が漂っているようだ。
しかも、それ以外に食材らしい物は何もなく、調理道具も埃をかぶった鍋が一つあるだけだった。
かまどには炭の燃えかすすら残っておらず、調理した様子はなさそうだ。
「普段は誰が調理しているのですか」
「しない」
「では、お食事はどうなさっているのですか?」
「俺は食わなくてもよい。冥界の帝王だからな」
冥界とはそういう場所なのだと言われればそうなのかもしれない。
でも、ならばなぜ肉や鍋があるのだろうか。
口に出さずとも、すぐにルクスが説明してくれる。
「これは冥界をさまよう獣の肉だ。冥界にやってくる罪深き罪人は、人ではなく獣としてこの闇の世界をさまよい続ける。それを捕らえて肉として調理してやれば、永遠の苦しみから救済されるというわけだ」
「つまりこれは、元々人だったものの肉ということですか」
「人ではない。獣だ。獣が人の皮を被っていただけだ。だからこそ、冥界へ堕ちてきた」
「それでも人は人ではないのですか」
「さあな。それは言い方の問題だ。食いたければ好きなようにするがいい」
由来が分かってしまった以上、食べる気など起こらなかった。
家の中には他に、寝室が二つと、暖炉のある居間、それと書斎があるだけだった。
その書斎にしても、本棚はあっても、本は一冊もない。
「どうしてここには何もないのですか」
「俺は本など読まんからな」
「なぜですの?」
「すでにあらゆる知識を身につけているからだ」
「物語などは?」
「つまらん空想など不要だ。冥界では何の役にもたたんぞ」
退屈しのぎになるのでは、と思ったが、エレナは黙っていた。
どうせその心も読み取っているのだろう。
それにしても、冥界の帝王だから大きな城や宮殿に住んでいるのかと思ったのに、案外質素な暮らしのようだ。
「おまえもここで暮らすがいい」
「わたくしもですか?」
「それともそこらへんの荒野で野宿をするか?」
「野宿とは何ですか?」
「地べたに寝るんだよ。まあ、毒蛇やサソリの餌食になるだけだがな。苦痛は永遠に続く」
それと比べたら、この埃だらけの家の方がよっぽどましだ。
「分かりました。では、ここでお世話になります」
ルクスの表情に笑顔が浮かんだような気がした。
「ならば、俺は出かけてくる」
「どちらへ?」
「地上の世界だ。人々を観察して、冥界へ堕とすものを決めるのが俺の仕事なのでな」
「地上へ戻れるのですか」
「俺はな。おまえとも地上で出会ったであろう」
王宮の牢屋にいたのはそういうことだったのか。
たしかに監獄には罪人がたくさんいるだろう。
エレナはルクスに詰め寄った。
「わたくしは? わたくしもつれていってはもらえませんか?」
「無理だ」
「なにゆえですの? あなたにはできて、わたくしにはできないのですか?」
「俺は冥界の帝王だ。おまえは違う」
単純だが、分かりやすい説明だ。
「それに、おまえは冥界の木の実を食べた」
さっきの赤い果物のことだ。
「あれを食べた者は二度と冥界を出ることはできなくなる」
なんということか。
エレナはルクスに詰め寄った。
「わたくしをだましたのですね!」
「だましてなどいない。おまえが自分で勝手にもいで食べたのだろう。人の欲望とはそれ自体罪深きものだ」
言われてみれば確かにそうだ。
ルクスが食べているのを見て、安心してつい手を出してしまったのは自分だ。
「でも、あなたも食べたではありませんか」
「俺は冥界の帝王だからな。食べても影響はない」
またそれだ。
エレナは議論する気力を失っていた。
「それと、もう一つ言わなかったことがある」と、ルクスが爪の長い指でエレナを指す。「体がうずいてこないか?」
あの実を食べてから、体が火照っているような気はしていた。
空腹が満たされたからだと思っていたが、違うのだろうか。
「あの木の実は快楽の実だ。食べたものはあらゆる欲望をほとばしらせ、求めるようになる。そのうちおまえは俺に身も心もゆだねたくなるさ」
「ひ、卑怯な罠を……」
ルクスはエレナの頬に手を当てた。
「そんなに頑なになることはない。おまえにとって、悪いことではないだろう」
「そのような卑劣な手を使わずとも、好きなようにすればよいではありませんか。冥界の帝王なのですから」
「痴態を眺めるのも一興だ」と、ルクスが耳元に顔を寄せた。「とくにおまえのような女のな」
「最低な人ですね」
「俺は人ではない冥界の帝王だ。人間ごときの善悪など超越している」
ルクスの手が変形して巨大なゴキブリの足になったかと思うと、爪の先をエレナのドレスに引っかけて抱き寄せる。
「俺はおまえをいつでも思い通りにできる」
「す、すればいいと言っているではありませんか」
「まだまだだ。まだつまらん。そのときが来るまでおまえはここにいればいい。冥界とはいえ何不自由ない暮らしだ」
そう言うと、ルクスは小さなゴキブリの姿になって埃だらけの床を這い回り始めた。
巨大化した姿を思い浮かべてしまい、エレナは目を背けた。
「これなら怖くあるまい」
と言われても、正体を知ってしまっているせいで背筋が寒くなるのは止められない。
「ごめんなさい。無理です」
「まあ、いいだろう。俺はこの姿で地上を観察してくる。人間どもに悟られる心配がないから便利だ。たまに俺を潰そうとするやつがいるが、遠慮なく冥界に堕とせるしな」
そう言うとゴキブリがエレナのドレスを這い上がってきた。
「俺を家の外に出してくれ」
「自分で行けばよいではありませんか」
「少しくらい助けてくれてもいいだろう。俺もおまえを助けたではないか」
「気を失わせて連れてきて、だまして出られないようにしたのではありませんか」
「そうしないと助け出せなかった」と、ゴキブリがドレスのひだに隠れて背中の方へ回ろうとする。
「わ、分かりました」
エレナは玄関へ駆けていき、ドレスをバタバタとはたいてゴキブリを追い払った。
姿は闇に紛れて分からなかったが、カサ、カササという足音がだんだん遠ざかっていくのだけは分かった。
ふう。
私はいったいここで何をしたらいいのでしょうか。
ドレスの裾についた埃をはたきながらエレナはため息をついた。
お掃除でも、しましょうかしら。
感想・ブクマ・評価ありがとうございます。