(3-2)
◇
目を開けると暗闇だった。
ああ、まただ。
でも、暗闇には慣れた。
それよりも、わたくしはどうしたのだったかしら。
思い出そうとしてさっと血の気が引いていく。
そうだ、おぞましい物を見たんだった。
と、エレナのかたわらで何かがうごめいた。
「気がついたか」
暗闇の中で額にかかった髪をそっとかき上げられる。
優しい手つきで、恐怖は感じない。
むしろ、何か懐かしいような穏やかな気持ちを感じる。
フィアトルクス。
エレナは『光あれ』と心の中で唱えた。
その瞬間、目と鼻の先に男の顔が浮かび上がった。
冥界の帝王ルクスがエレナに口づけようとしている。
「な、何をするのですか」
思わず突き飛ばそうとしたが、手を捕まれていて身動きが取れなかった。
「おっと、気の強い女だな」
逆にのしかかられて押さえつけられてしまう。
「俺の女になれ」
なっ……。
「なかなかいい女だ。俺の女になれば冥界は思うままだぞ」
ルクスが口元に笑みを浮かべる。
「す、好きなようにすればいいではありませんか。帝王なのですから、どうせあなたの好きなようにできるのでしょう」
「それではつまらん。俺を愛する女になれ」
「む、無理です」
だって、あなたは……。
「俺の正体を恐れているのか」
エレナは答えなかった。
答えようとすると体がこわばって声が出なくなってしまうのだ。
「王宮では、俺と結婚すれば牢屋から逃げられるかと親しく話していたではないか」
「あのときは……小さな虫だと思っていたから冗談を言ったまでです」
「約束はしていないと?」
それを言われると言い返せない。
あの心細い状態だったとはいえ、頼るものがいない中で、一縷の望みを託していたのは事実だ。
でも、それはかわいらしい小さな虫だと思ったからだ。
ゴキブリという生き物を見たことがなかったエレナにとって、それは頼りになる同室者だったのだ。
だからこそ親しみを感じて語りかけていたのであって、地下牢の火事場で見たあの巨大化したおぞましい姿を思い出すと、素直になるのは無理だった。
ルクスが顔を近づけてくる。
エレナは思わず目を閉じた。
我慢だ。
この冥界でこの男に逆らうことはできないのだろう。
あの形態に変身して自分をむさぼり尽くす姿を想像した瞬間、全身に鳥肌が立ってしまう。
だが、エレナにはどうすることもできなかった。
冥界に落ちた己の運命を呪うしかないのだ。
「俺のことが嫌いか?」
そうささやきながらルクスはエレナの耳たぶに口づけた。
嫌いではない。
窮地を救ってくれたことに関しては恩に感じてもいる。
だが、どうしても素直に受け入れることができないだけだ。
自分はあの黒光りする羽の下で幾重にも節で折れ曲がった手足をうごめかす魔物の妻にならなければならないのだろうか。
それが避けられない運命なのだとしても耐えられない。
エレナはぎゅっと目を閉じて身を固くしたまま涙をこらえていた。
「まあいいだろう」
ルクスが手を離し、エレナの背中に手を回して抱き起こす。
相変わらず周囲は暗闇のままでルクスの姿以外は何も見えない。
人としての姿でいてくれる間は、まだ少し落ち着いて相手ができる。
ただ、いつあの姿に変身するのかと思うと、やはり怖い。
どうしても、恐怖心や警戒心を払拭することはできなかった。
ルクスがエレナの顎に手をかけてじっと見つめる。
「おまえはそのうち俺の女になるだろう」
エレナは彼と目を合わせずにうつむいていた。
「一つだけ教えてやる」と、ルクスが人差し指を立てた。「おまえには冥界の特殊能力が備わっている」
「特殊能力とは何ですか?」
「冥界に堕ちた者に与えられる力だ。地上界でいう魔法のようなものだな」
「わたくしにそのような力が?」
「冥界では普通のことだ。地上とは違うのでな。ないと何もできないこともある」
そもそもこの暗闇の中でルクスの姿しか見えないのだから、今のままではたしかに何もできない。
「おまえの能力は『親孝行』だ」
親孝行?
それが特殊能力?
「あの、わたくしにはもう父も母もおりませんが」
「それは俺の知るところではない」
「では、何のための親孝行なのですか」
「それも俺には関係のないことだ」
まるで要領を得ない会話に、エレナはため息をついた。
「私は一体何をしたら良いのですか」
「それも俺には関係のないことだ。自分で考えろ」
なんだろう、なんだかひっぱたきたくなってしまった。
「さきほどから、関係がないなどと他人行儀で、まったく意味がないではありませんか。なぜそのようなことをわざわざ教えたのですか」
「知らんものは知らん」
「冥界の帝王のくせに」
「それとこれとは別だ。俺は冥界を支配しているが、おまえのことは自分で考えろ。それとも、おまえは俺に無理矢理支配してもらいたいのか」
ルクスがエレナの肩に手をかけて押し倒そうとする。
「望みであれば、俺はおまえを支配することができる」
エレナは手を突き出して抵抗しながら、ルクスに願いを述べた。
「親孝行のスキルと言っても、わたくしにはもう親はおりません。でも、一つだけかなうのであれば、わたくしの身はどうなろうとかまいません。お父様とお母様が天国で仲睦まじく暮らせるようにお取りはからいください」
「だから、それは俺には関係のないことだ。天のことは天の仕事だ」
それを言われてしまうと、何も言えなくなってしまう。
「だが、一つ教えてやれることがある」と、ルクスはエレナの肩に置いていた手を頭に回して髪をなでた。
「おまえの父母はここにはいない」
「ということは、天国にいるということですか」
「それは分からない。ただ、冥界にはいない。冥界のことなら分かる。俺に分かるのはそれだけだ」
エレナはそれを聞いて少しだけ安心した。
冥界でないのなら、天国なのだろう。
今の自分にできるのは祈ることだけだ。
その祈りが少しでも天に届けばいい。
「俺がおまえにしてやれることがもう一つある」
「なんですの?」
エレナは全く期待せずにたずねた。
今度は何の能力というのだろうか。
せめて、力持ちになれるとか、もっと周囲を明るくできるとか、役に立つ能力だといいのだけれど。
「能力ではない」と、心を見通したようにルクスがつぶやいた。「おまえの父とミリアとの間にあったことだ」
父のこと!?
「何か知っているのですか? いったい、何があったというのですか。父は本当に卑劣な裏切り者なのですか?」
ルクスは立ち上がってエレナに手を差し伸べた。
その手を取って立ち上がると、ルクスが歩き出す。
エレナも歩調を合わせてついていった。
「おまえがミリアという女から聞いたとおり、サンペール王国が民衆に重税を課そうとしたこと。そして、それに対してラベッラ公爵が異議を唱えたことまでは事実だ」
「父も公爵に同調したそうですね」
「そうだ。おまえの父も民衆を苦しめる政策には賛成できなかった」
「では、なぜ裏切りなど」
「サンペール国王が諸侯を軟禁して無理矢理賛成させようとしたときに、公爵と伯爵は共にその陰謀を察知して王宮へは行かなかった。そこまでは順調だった」
ルクスが歩く先は、ランプを持って夜道を歩くようにほんの少しだけ光が差して、周囲の光景がぼんやりと浮かび上がって見える。
ごつごつした道の両側は岩が転がる荒野だった。
エレナはわずかな視界に入る荒涼とした風景を眺めながらルクスの話に耳を傾けていた。
「しかし、公爵が行動を起こそうとしたときに間違いが起きた。公爵は伯爵家へ決起の使者をつかわしたのだが、それが途中で捕らえられてしまったのだ。連絡を待っていた伯爵は動けなかった。それで公爵は単独で王家と戦うことになり、あえなく戦死。伯爵も時機を逃して孤立してしまった」
「そうだったのですか」
「公爵家は滅亡、伯爵もサンペール王国に残ることはできずに、隣国のルミネオン王国に助けを求めたというわけだ」
エレナはため息をついた。
「真相はそうであっても、お父様がラベッラ公爵に味方しなかったのは事実なのですから、卑怯者と呼ばれても仕方がないのかもしれませんね。特にミリアにとっては親を裏切った仇のようなものでしょう」
汚名をかぶらなければならなかった父の立場を思うと胸が痛む。
ルクスがエレナの肩に手を回してクッと引き寄せた。
その優しさを彼女は素直に受け入れた。
「だが、話には裏がある」
「裏……ですか?」
「公爵からの使者をとらえて妨害したのはルミネオン王家だ」
「なんですって」
「両王家は裏でつながっていたのさ。ルミネオン王家はシュクルテル伯爵家に恩を売ることができ、サンペール王国はラベッラ公爵領を没収することができる。本来ならサンペールの混乱に乗じてルミネオンが戦争を仕掛けてもよかったわけだが、裏で手を握り合って家臣を犠牲にしたというわけだ」
「本当の悪者は両方の王家だったのですね」
ルクスが優しくうなずく。
「おまえの父は裏切り者でも卑怯者でもない。実直で人が良すぎたのだ」
そういうことだったのか。
エレナは納得していた。
お父様は裏切り者ではなかったのだ。
ならばおそらく天国でお母様と一緒に仲良く暮らしていることだろう。
それが分かっただけでも心が安らぐような気がした。
「それに、ミリアのことだが」と、ルクスは話を続けた。「公爵の娘のミリアだけはまだ赤ん坊で殺されることはなかったが、城から落ちのびさせた家来が金に目がくらんで奴隷として売り飛ばそうとしたのだ。伯爵はそれを知り、幼いミリアを保護した。だが、子供の身分を明らかにしてしまえばサンペール王家に狙われる。だから伯爵は使用人の娘として迎え入れたというわけだ」
「それは知りませんでした」
「おまえが生まれる前のことだからな。おまえが生まれ、侍女として姉妹のように育てていた伯爵夫妻の気持ちに嘘偽りはなかったと言うことさ。おまえが契約通りに王家に嫁いだときには、晴れてミリアを伯爵家の養女として家名を復興させようと考えていたのだ」
ああ、いかにも父らしい配慮だ。
エレナは涙を流していた。
父の名誉は守られたのだ。
「いいお話を聞かせてくださってありがとうございました」
「ミリアを恨まないのか?」
「いえ、お父様の潔白が分かればそれでいいのです。天国の母と仲睦まじく暮らしていることでしょうから」
そして、エレナは手を合わせた。
「今はただ祈るだけです」
「親孝行だな」
「これがわたくしの特殊能力なのですか?」
「さあな」
ルクスは一人、先に歩き出す。
エレナはその黒光りするマントの背中を追った。
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