第3章 冥界の帝王に見初められましたけど……(3-1)
目を開けると真っ暗だった。
真夜中に目覚めたときのような感覚だが、少しも目が慣れてこない。
いつまでも闇のままだ。
ただ、体に痛みなどはないし、気分も悪くはない。
エレナは身を起こしてみた。
少しはまわりの気配くらい分かるかと思ったが、やはり何も見えない。
目がおかしくなったのだろうかと手で瞼を押さえてみる。
指の温かさを感じる。
そういえば、縄で縛られていたはずなのに、手を動かせる。
エレナは少しずつ記憶をたどっていった。
たしか地下牢に閉じこめられて火事に巻きこまれたんだった。
自分はどうなったのだろうか。
ここはどこなのだろう。
「誰か……いませんか?」
人を呼びたい気持ちと、また牢屋番のような悪人が来ても困るという不安が重なって、大きな声が出ない。
闇からは何も返ってこない。
立ち上がってみる。
手探りでまわりの様子を知ろうとしても、何も触れる物がない。
一歩足を出してみる。
床なのか地面なのかは分からないが、しっかりとした固い土台で、穴や障害物のようなものはないようだ。
エレナは手を突き出し、摺り足で少しずつ移動してみた。
何も見えないし、なんの気配もない。
完全な闇だ。
「誰か。誰かいませんか!」
今度は思いきり大きな声で叫んでみた。
しかし、その声も闇に吸い込まれるように消えてしまう。
のどが痛くなるほどの大声を出しているというのに、反響どころか、自分の声が自分の耳にすら届かないうちにすうっと消えてしまうのだ。
体が急に震え出し、鳥肌が立つ。
ここはいったいどこなのでしょう。
何もない場所。
完全な虚無。
誰からも相手にされず、一切の感覚がない場所。
ああ、もしやこれが地獄というものなのでしょうか。
この状態がずっと続くのでしょうか。
これならいっそ、炎で焼かれたり、串で刺されたり、猛獣に噛まれたりといった苦しみをあたえられる方がまだましに思えてくる。
「誰か! 誰もいないのですか!」
返事はない。
エレナは周囲を探るのをやめてその場にしゃがみ込んだ。
地面はある。
ただ、冷たくも暖かくもない柔らかくもなくなめらかでもなく、かといって、ごつごつもざらざらもしていない。
落ちたり崩れたりはしなくても、地面と呼んでよいのかすら分からない、なんとも不思議な場所だった。
もしかしたら、さっきから歩いているようなつもりだったけれども、一歩も動いていないのかもしれない。
エレナは祈りを唱えた。
「ああ、神よ。わたくしは地獄へ落ちようとも、父はなにとぞ天へお召しください。亡き母とともに仲睦まじく平穏に暮らせるようにお取りはからいくださいませ。そのためなら、わたくしはどうなってもかまいません。この場で永遠の時を過ごせとおっっしゃるのであれば、それを受け入れます」
父と母にはこのような場所にいて欲しくはない。
エレナはもう一度同じ祈りを唱えた。
と、その時だった。
真っ暗闇の中で何かが動く気配がした。
姿は見えないが、どこかで音がする。
カサ、カササ。
聞き覚えのある音だ。
エレナの周囲でこちらの様子をうかがっているようだ。
カサ、カササ。
間違いなく、何かがいる。
嫌な記憶がよみがえる。
閉じこめられた地下牢で最後に見たもの。
巨大化したゴキブリのおぞましい姿だ。
思い出しただけで背筋がぞくぞくし、歯が鳴り始める。
また意識が遠くなりかける。
だが、大きく息を吸って拳に力を込めると、恐れや不安がやわらいでいった。
気味の悪い虫だろうとなんだろうと、むしろこの際、なんでもいいから姿を現してほしかった。
この何もない闇の世界にこれ以上一人で放置されたら、おかしくなってしまいそうだ。
「どなたか……いますか?」
「いるぞ」
「ひゃあっ」
思わず悲鳴を上げてしまった。
巨大ゴキブリに襲われるかと身構えたが、何も起こらなかった。
それに、それは間違いなく人の声だった。
ゴキブリではなさそうだ。
相変わらず周囲は闇で、見回してみても誰もいないし、何も見えないけど、誰かがいるらしい。
エレナは闇の中へ呼びかけた。
「どなたですか?」
「俺は冥界の帝王だ」
低く太いけど、よく通る声だ。
ただ、不思議なことに、どちらの方から聞こえてくるのかが分からない。
後ろと言われればそのようにも思えるし、上と言われればそちらのようにも聞こえる。
「冥界の帝王ですか」
「そうだ」
どこにいるのかは分からなくても、声はしっかりと聞こえる。
そういえば、さっきまでのように、自分の声も消えてしまうことがなくなった。
会話ができるだけで、なんだか心が弾んでくる。
「あの、あなたはどこにいるのですか」
「ここにいる」
と言われても、やはり何も見えない。
もしかして、目が見えなくなってしまったのだろうか。
「いや、見えている」
エレナの心の中を見透かしたように声が聞こえてくる。
「では、どうして姿が見えないのでしょうか」
「冥界だからだ」
「冥界では何も見えないのですか?」
返事がない。
「明かりをつけてもらえませんか」
「おまえがつければいい」
ランプもろうそくもないのに、どうやったらいいのだろうか。
「唱えろ」
「何をですか?」
「おまえの望むことを」
明かりをつけてほしい、と?
エレナはラテン語を唱えた。
「フィアトルクス」
光あれ!
大げさかと思ったが、他に言葉を思いつかなかったのだ。
だが、言葉を唱えた瞬間、目の前に人の姿が現れた。
周囲は暗闇のままなのに人の姿だけが浮き上がって見える。
なんだか夢の世界を見ているようだ。
現れたのは黒いマントに身を包んだ背の高い若い男だ。
肌につやがあり、目鼻立ちのスッキリしたなかなかの美男子だ。
まわりの暗黒は変わらなくても、人の姿が見えただけで、エレナは泣きそうなほどうれしかった。
「よかった。やっと人と会えて」
「俺は人ではない」
「ああ、悪魔だからですか」
「悪魔ではない。冥界の帝王だ」
違いがよく分からない。
「わたくしはエレナと申します。あなたは?」
「だから冥界の帝王だ」
「それは称号でございましょう。お名前をお聞かせ下さい」
「だから冥界の帝王だと言っているではないか」
ええと、どうしたらよいのでしょうか。
やっと出会えたというのに、少々面倒な御方のようですわね。
「面倒ではない。事実を言っているだけだ」
どうやら思ったことはなんでも見透かされてしまうらしい。
そういう能力があるところはいかにも冥界の帝王らしい。
「冥界に帝王は俺一人だからな。名前は必要ない」
それはそうかもしれない。
家来たちは直接名前を呼ぶのを遠慮して『陛下』と呼ぶのだろうし。
「それでは、陛下とお呼びすればよろしいでしょうか」
「好きにしろ。何と呼んだところで問題ではない。ここには俺とおまえしかいないのだからな。おまえが好きなように呼べ」
それならば、とエレナは名前を考えた。
「では、『ルクス』ではいかがでしょうか。『光』という意味です」
「よかろう」
光という言葉に反応するかのように彼のマントが黒光りする。
「ルクス」
「なんだ」
「これからどうぞよろしく」
手を差し出すと、ルクスもマントの下から手を差し出した。
しかし、エレナはそれを握ることはできなかった。
それは細長く、節で折れ曲がった昆虫の脚だったのだ。
絶句しているエレナを見て、ルクスは「おっと、すまない」と、いったんマントの中へ引っ込めてからもう一度手を差し出した。
今度は人間の手だった。
だが、その直前の印象が強すぎて思わず手を引っ込めてしまった。
「あ、あなたは……」
もしかして、あの地下牢から私を連れ出した……。
エレナは後ずさろうとした。
しかし、下がっているつもりなのに相手との距離はまったく変わらない。
いや、むしろ、縮まっている。
いつの間にかエレナはルクスに手をつかまれていた。
と、その瞬間、ルクスのマントがガバッと開いて中から昆虫の手脚が飛び出してきた。
ギシ、ギシシ。
カサ、カササ。
「ゴ、ゴキ……」
エレナはその脚にからめとられて抱きしめられた。
「キャアアアアアアアアアアアア!」
自分自身の悲鳴を聞く間もなく、エレナは失神していた。
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