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(1-3)


   ◇


 夕暮れを迎えたころ、馬車が橋を渡った。

 侍女が声をかけた。

「都でございますよ、お嬢様」

 いつの間にか眠っていたエレナは青白い顔を上げると、窓から外の風景を眺めた。

 馬車は門をくぐり、王都に入る。

 そびえる教会の尖塔はまだかすかに残った夕日を反射して金色に輝き、広い街路の両側には壮麗な装飾が施されたお屋敷が建ち並んでいる。

 時折通り過ぎる横町も賑やかで、明かりのこぼれる食堂や酒場からは人々の笑い声や陽気な音楽が聞こえてくる。

 市場で買った品物を抱えて家路につく人々の表情はみな朗らかだ。

 やはり田舎貴族の城下町とは華やかさが違う。

 次々と移り変わる街の風景が、エレナの沈んだ気分を癒してくれるようだった。

 石畳のせいで馬車が小刻みに揺れても、むしろ心地よいリズムを奏でているようにすら感じられる。

「なんてすばらしいのでしょう」

 エレナは吐き気も忘れてすっかり魅了されていた。

 王宮に到着して車寄せに馬車が止まる。

 外から扉を開けた王室執事が恭しくエレナを迎え入れる。

「ようこそお越し下さいました。エレナ・エル・パトラ・シュクルテル様」

「丁重なお出迎え、ありがとうございます」

 馬車を降りたエレナに周囲の視線が集まる。

 彼女はそれに対して微笑みを振りまきながら応じた。

 王都であってもこのわたくしの美貌はやはり注目の的なのね。

 田舎から出てきたとはいえ、自分はやはり由緒ある伯爵家の娘なのだ。

 気後れなどすることはない。

 エレナはツンと鼻を上に向けながら一歩を踏み出した。

 臙脂色の制服に身を包んだ召使い達が大ホールへと続く赤い絨毯の両側に並び、エレナに頭を下げる。

 だが、何かがおかしい。

 どこからかクスクスと笑い声が聞こえるのだ。

 どういうこと?

 空耳よね。

 しかし、正面の扉が開かれ、中へ招き入れられた瞬間、違和感が確信に変わった。

 パーティー会場にいる人々の服装が自分とまるで違うのだ。

 貴公子達と談笑している貴族の娘達はみな、異国から伝来したのか、見たこともないような軽やかな布地でできたドレスを身にまとっている。

 言われなくても、これが流行のファッションであることはエレナにも分かった。

 とっさに胸元で手を合わせてみても、そんなことをしたところで、自分の古くさいドレスを隠すことなどできはしなかった。

 もはや楽団の奏でる舞踏の音楽すら耳に入らない。

 すると、そばでシャンパンのグラスに口をつけていた女性が胸を揺らしながら歩み寄ってきた。

「初めまして、わたくし、ファレル公爵家のカミラと申します。あなたは?」

「わ、わたくしはエレナ、シュクルテル伯爵家のエレナです」

 カミラと名乗った女はエレナのことを上から下までなめ回すように観察している。

「あなたは王宮は初めてですの?」

「ええ、とても華麗なところですね」

「それはもう、緑豊かな田舎のお城とはまるで違いますでしょうね」

 トゲのある言葉に言い返すこともできない。

 高慢なプライドなど、物陰に逃げ込んだ子犬のようにどこかへ行ってしまっていた。

 気がつくと、周りに人が集まってきていた。

 やはりみな明るい色柄のドレスをまとっている。

 その中にいる自分はまるで暗い井戸に沈んで溺れているように思えてしまう。

「お召し物、ものすごく、独特ですわね」

 カミラが言葉を選ぶようにつぶやくと、まわりの女性たちが次々に感想を重ねていく。

「そうですわね。とても、その……古典的というか」

「ええ、歴史とか、時代の重みを感じますわね」

「布地も重いようですけど」

 誰かの一言に失笑がこぼれる。

 カミラが軽く咳払いをしながら唇に人差し指を立てると、目配せをしあいながら、わざとらしくみなが黙り込む。

 あからさまな嘲笑に耐えながらエレナは侍女を探した。

 ちょっとどういうことなのよ。

 ミリアが良いと言うから着たんじゃないのよ。

 だから、嫌だと言ったのに。

 しかし、彼女はどこにもいなかった。

 肝心なときに主人のそばについていないなんて!

 まったくもう、役立たずの侍女なんだから。

「それより、変わった装飾ですのね」

 手にした扇でカミラがドレスの裾を指す。

 プリーツとリボン、それとも王室御用達のレースのことだろうか。

 みなの視線の先をたどったエレナの耳が熱くなる。

 ドレスの裾には、道端で吐いた汚物がこびりついているのだった。

 カミラが扇で口元を隠す。

「あら嫌だわ。さきほどから奇妙な香水の臭いが鼻につくと思っていたら、あなたでしたのね」

 受けたことのない侮辱に耐えかねてエレナは人の輪から逃げ出そうとした。

 と、そのときだった。

 足下で何かがぶつかったようだった。

 ちょっと、もう何なの?

 見下ろすと、エレナのドレスに幼い男の子がしがみついていた。

 まだよちよち歩きといった年頃で、口からよだれを垂らしながらエレナを見上げている。

「オネオネ」

 は?

 何、この子?

 邪魔なんだけど。

 それよりミリアはどこなの?

 どうしてドレスの汚れを教えなかったの。

 こんな恥をかかせておいて、ただでは済まないわよ!

「オネオネ」

 ああ、もう、どいて。

 こんな子供の相手をしている余裕なんかないのよ。

 エレナは片足を上げて幼児を振りほどいた。

 尻餅をついた男の子が泣き声を上げる。

 そのとたん、音楽がやみ、会場の空気が固まった。

 泣き声のする方に人々の視線が集中する。

 カミラが泣く幼児に手を差し伸べて抱き上げる。

「ああ、よしよし王子様、いかがいたしましたか」

 エレナは当惑しながらその様子を眺めていた。

 ちょっと、どういうことよ、王子様って……。

 王子っていうことは、わたくしの婚約者ってこと?

 こんな子供がわたくしの婚約者?

 カミラの豊満な胸に顔を埋めて泣き止んだのはどう見ても幼児だ。

 まるで事情が飲み込めないエレナは呆然と立ち尽くすばかりだった。

「ぱふぱふぅ~」

 幼い男の子はカミラの胸を小さな手で撫でながら満足そうな笑みを浮かべて顔を押しつけている。

 まあ、なんていやらしいんでしょう。

 でも、子供なんだから、むしろ当たり前なのかしら。

 母親に甘えた記憶のないエレナにとってはうらやましく思える姿でもあった。

 それにしても、なんだか納得いかないわね。

 婚約者であるわたくしよりも、こんな性格の悪い女の方がお気に入りなんて。

 そりゃあ、わたくしでは物足りないでしょうけど。

 エレナは自分の平らな胸に手を当てながら王子と呼ばれた男の子をにらみつけた。

 だいたい、こんな幼児が王子って、何よ。

 カエルよりはましだけど。

 いったいどうなってるのよ。

 何かの間違いじゃないの。

 集まってきた人々のざわめきがだんだんと大きくなる。

 カミラの取り巻きたちもわざとらしく非難の声を上げていた。

「王子様を蹴飛ばすなんて」

「なんて乱暴なんでしょう」

「本当に、信じられませんわ」

 人垣をかき分けながら衛兵たちがやってきた。

「王子様、ご無事でございましたか」

 どうやら、本当にこの子が王子らしい。

 幼児はすっかりご機嫌で、カミラの胸の中で指をくわえながらうっとりと目を閉じている。

 エレナは彼女にたずねた。

「どういうことですの。この子が王子様ですの?」

「ええ」と、カミラがクィと顎を上げながら答えた。「ルミネオン王国第五王子クラクス様ですわ。あなたの婚約者なのに、そんなこともご存じないなんて」

 第五王子?

 王子様って、将来の国王のはずよね。

 でも、それは長男一人だけで、次男以下は違うってこと?

 じゃあ、この婚姻で、わたくしの立場はどうなるというのでしょう。

 だが、状況を理解する前に、いつのまにかエレナは衛兵に両腕を捕まれていた。

 彼女の正面に威厳のあるひげを生やした片眼鏡の男が立った。

「貴族の御令嬢ともあろう者が王子殿下をご存知ないとは。もしや偽者ではあるまいな」

「偽者!? このわたくしが?」

 ちょっとミリアはどこなの?

 いったいどこでなにをやってるのよ。

 本当に、役に立たないんだから。

 片眼鏡の老人がエレナに詰め寄る。

「偽者ではないというのであれば、この私が何者か、ご存知であろうな」

 は?

 誰、このおじさん?

 今日初めて会ったのに、分かるわけないじゃない。

 本来なら、この会場に着いたときにお披露目と紹介を受けるはずであった。

 だが、役に立たない侍女のせいで、衣装を酷評され、嘲笑されてしまったのだ。

 あげくに偽者扱いとは、なんという屈辱だろうか。

「失礼ながら存じ上げませんが、わたくしはエレナ。シュクルテル伯爵家のエレナでございます。手をお離しください」

 カミラが王子を抱きながら冷淡に見下ろしている。

「まずは王子様にお詫びを申し上げるのが筋ではございませんか。あなたが蹴飛ばしたのですから」

 彼女の言葉を聞いて片眼鏡の老人の顔が真っ赤になった。

「なんと、王子殿下を蹴飛ばすなど、とんでもないことじゃ。これは国家反逆罪ですぞ」

 反逆罪ですって!?

 なんて大げさな。

 しかし、両腕をつかんでいた屈強な衛兵たちは、エレナを跪かせてさらに頭を床に押しつけようとする。

 ちょっと、なんですの。

 おやめなさいな。

 こんな屈辱を受けるいわれはない。

 エレナは抵抗し、膝をつきつつもかろうじて頭を上げた。

「お待ちください。何かの間違いです。本日、父は病で不在ではございますが、わたくしはまぎれもなくシュクルテル伯爵家のエレナ、エレナ・エル・パトラ・シュクルテルでございます」

「わしが宮廷大臣であることも知らぬような小娘が伯爵令嬢を名乗る資格などあるまい」

 大臣?

 このおじさんが?

 どうして誰も教えてくれないのよ。

 周囲を見上げても、カミラたちは口元に冷笑を浮かべながら、屈辱的な格好をしているエレナの姿を見下して喜んでいるばかりだった。

 味方など誰もいない。

 頼りになるのは侍女だけなのに、やはり姿を見せない。

 ミリアはいったいどこなの?

 こんなときこそ主人の窮地を救うべきじゃないの。

 すると、取り巻いていた人の壁がさっと引き、華麗な衣装に身を包んだ見目麗しい青年が姿を現した。

「ヒューム大臣、いったい何が起きたのだ?」

「これはウェイン殿下、恐縮でございます。クラクス様に対し、この女が無礼を働いたようでして」

 殿下?

 ということは、この御方も王子様?

 あんな子供と違って、わたくしにふさわしい年頃じゃないの。

 わたくしの婚約者は本当はこっちなんじゃないの?

 エレナは衛兵におさえつけられながらも、若者に精一杯の微笑みを向けた。

「この者は?」と、若者が屈んでエレナの顔をのぞきこみながら大臣にたずねた。

「伯爵家の者と名乗っておりますが、定かではございません」

 エレナは王子に名乗った。

「シュクルテル伯爵家のエレナと申します。本日初めて参内いたしました。以後、お見知り置きを」

 若者も彼女を見つめ返す。

「このような美しい姫が悪者とは思えないが……」

 まあ、王子様。

 美しく可憐な聖女だなんて。

 言い過ぎですわ。

 エレナは頬を赤らめた。

「……衣装は古くさいようだが」

 王子の言葉に失笑が花咲く。

 ああ、もう!

 それは言わなくてもいいでしょうに。

 人々の脚の間をひょこひょことすり抜けながら幼いクラクス王子が歩み寄ってきた。

 いつの間にかカミラの胸からおりてきたらしい。

「オネオネ」

 エレナの頭をポンポンとたたいて喜んでいる。

 何よ、さっきから、この子。

 いくら王子だからって、よだれまみれの手で触らないでよ。

 エレナが顔を背けようとすると、よけいに手を出してくる。

「オネオネ」

 オネオネって何よ?

 ……『おねえちゃん』ってこと?

 まあ、そりゃあ、この子からしたらお姉さんですけど。

 婚約者を『おねえちゃん』と呼ぶような子供と結婚なんてごめんだわ。

 といっても、ここでまた不機嫌な表情を見せたら面倒なことになる。

 クラクス王子のよだれまみれの指で頬をつつかれながら、エレナは笑顔を崩さないように努めていた。

 二人の様子を見ていたウェイン王子が立ち上がった。

「クラクスもエレナ殿を気に入っているようだ。慣れない宮殿で行き違いがあったのだろう」

 ヒューム大臣は厳格に首を振る。

「しかし、ウェイン殿下、国王陛下に御報告いたしませんと。クラクス殿下への不敬罪は見過ごすわけには参りません」

「いいから、お前達、手を離しなさい」と王子が衛兵達に命じた。

 衛兵達は老大臣に視線をやりつつも、王子の命令に逆らうわけにもいかず、エレナを解放した。

 立ち上がったエレナはウェインの正面に立って一歩前に踏み込んだ。

「ありがとうございます。このような場に慣れぬ者でございますゆえ、不手際をおわび申しわげます」

「なに、かまわんさ。さあ、皆の者、せっかくのめでたいパーティーだ。楽しもうではないか」

 王子が手を挙げて楽団に合図すると華麗なワルツが大ホールに響き始め、取り巻いていた人々はまた舞踏や談笑へと戻っていった。

 足下にいたクラクス王子はまたカミラの方へ歩み寄っていく。

「ダッコダッコ」

 よほど彼女の胸がお気に召したらしい。

 ま、わたくしのホッペと柔らかさは似てるんでしょうけど。

 それより、ミリアはいったいどういうつもりなのかしら。

 王宮に到着してから侍女としての役割をまったく果たしていない。

 何をたくらんでいるというの?

 探して問いただそうとしたとき、ウェイン王子がエレナの手を引き寄せて耳元にささやきかけてきた。

「一曲お相手をお願いできるかな」

「え、ええ、もちろんですわ。喜んで」

 第一王子の誘いを断る理由などない。

 こっちに乗り換えるチャンスだ。

 二人は手を取り合って舞踏の輪に加わった。

 エレナは舞踏は得意ではないが、貴族の子女のたしなみ程度にはこなせる。

 ウェイン王子はエレナがステップをミスするたびに腰に回した手でしっかりとフォローしてくれる。

 彼女に向けられる余裕に満ちた微笑みは貴公子にふさわしいものだった。

 国の将来を担う第一王子の華麗なリードで優雅に舞う二人に人々の視線が集まり、惜しみない拍手が送られる。

 さきほどエレナを嘲笑していたご婦人方も扇で口元を隠しながら嫉妬の視線を送るのが精一杯のようだった。

「まるで夢のようだな」と王子がささやく。「君のような素敵な女性に出会えるなんてね」

 エレナは舞踏に気を取られてうまく返事ができなかった。

 しかし、多少のぎこちなさも王子の気を引くスパイスにすぎないようだった。

 王子がエレナの瞳を見つめる。

「君も運命を感じるだろ?」

「ええ」

 王子の情熱的な瞳に見つめられてエレナは息が止まりそうだった。

「今宵は弟の婚約パーティーということで僕は脇役に徹するつもりだったんだ」

 え?

 弟の婚約……。

 急に現実に引き戻される。

 やっぱりさっきのクラクスとかいう幼児が私の婚約者だったの?

 棒立ちになりかけたエレナを王子がグイと引き寄せつつ、華麗にターンを決める。

 再び密着した二人に、場内からふたたび拍手がわき起こる。

 だが、エレナの心はもはや舞踏どころではなかった。

 ほとんど歩くようなステップでついていくのが精一杯だった。

「あの、わたくしの婚約者というのは……」

「クラクスだよ。聞いてないのかい?」

「ええ、実は、わたくしは何も」

 王子がふっと口元に笑みを浮かべる。

「まあ、政略結婚なんて、そんなものだろ。家同士の結びつきを強くする以外に婚姻の目的なんかないからね」

 政略結婚という言葉に、エレナは自分の中の何かが冷え込んだような気がした。

 もちろん、そういった話は貴族社会では当たり前のことだ。

 王族との婚姻が臣下の貴族にとって名誉であることは理解できる。

 王族にとっては領国支配の強化、臣下にとっては主君への忠誠を示す手段。

 双方にもたらされるメリットは計り知れない。

 ただ、エレナの父と母のように仲睦まじく家庭を築く夫婦がいるのもまた事実だ。

 遠い記憶の中とはいえ、幸せそうだった母の姿を思い浮かべると、納得のいかない気持ちがどうしてもわいてくる。

 まして、相手はあんな幼児だ。

 わたくしに、燃えるような恋は許されないというの?

 エレナはこっそり小説で読んだことのある恋物語を思い浮かべながら、こみ上げてくる涙をこらえていた。

「おっと」

 王子の足を踏んでつまずきそうになってしまった。

「す、すみません」

 考え事をしていて、完全に舞踏を忘れていた。

 そんなエレナの腕を引き寄せて王子がささやく。

「君たちの婚姻はクラクスが生まれる前から結ばれていたものだよ」

 エレナが生まれたときからの契約だと聞かされていたから、歳の差を考えればそうなることは理解できる。

「もし、クラクスが生まれなかったら、契約は不成立で、君も今日ここにはいなかったというわけさ」

「そうだったのですか」

「世継ぎの王子は僕一人でいいからね。他の弟たちはみな家臣に婿入りさせて世継ぎの兄を支えるってわけさ。それが貴族社会の仕組みっていうものだよ」

 得意げに語る王子の説明がエレナに重くのしかかる。

 クラクス王子と結婚しても、王家の一員になれるわけではなく、これまでの田舎暮らしは変わらないのだ。

 しかも、あんな歳の離れた子供とでは、まともな恋愛を経験することもなく、自分だけが先に年老いていくことになるだろう。

 急に体が震え出す。

 そんなのは嫌だ。

 相手がカエルじゃなければいいなんて甘く考えていたけど、これじゃあ、カエル以下かもしれない。

 いくら貴族社会のしきたりだからって、こんなのはあんまりだ。

 お父様も、どうしてちゃんと話してくださらなかったのだろうか。

 それはもちろん、もう何年も前から病の床にあって話す機会がなかったのだろうし、聞かされていたところで、断れる立場でもない。

 父を責めてはいけないことは分かっていた。

 でも、だからといって、納得できるわけではない。

 嫌よ、こんなの嫌よ。

 逃げ出してしまいたい。

 無理だということも分かっている。

 分かっていることばかりなのに、どれ一つとして、受け入れることなんてできない。

 エレナは叫び出しそうになる衝動を必死にこらえた。

 脚がもつれそうになって思わず立ち止まってしまった。

 とたんに他のカップルとぶつかってしまう。

「おっと失礼」と、王子が舞踏の輪から外れてエレナを窓際へといざなう。「大丈夫かい?」

「え、ええ、すみません。なんだか疲れてしまったようで」

「少し休めるところへ行こうか」

 王子の優しい言葉にもかろうじてうなずき返すのが精一杯だった。

 ここから連れ出してくれるなら、どこでもいい。

 この現実から目を背けることのできる場所へ連れていってほしい。

 だが、相手はエレナの意図を勘違いをしているようだった。

 次に聞こえてきたのは耳を疑うような言葉だった。

「僕がたっぷりかわいがってあげるからさ」

 かわいがる?

 王子は当然といった表情で続ける。

「二人っきりで、楽しみたいんだろう?」

 王子の顔が急に下品な色をおびる。

「王宮で暮らして僕の愛人になればいいんだ。領地の経営はクラクスの家来に任せて、君はここにいればいい。どうせあんなガキじゃ、君を満足させられないんだし。僕が手取り足取りじっくりと君に快楽を教えてあげるよ。僕色に染めてあげるさ」

 はあ?

 何言ってんの、この人。

 最初から不倫前提の結婚なんて。

 何が『僕色』よ。

 腹黒王子のくせに。

 イカスミの食べ過ぎじゃないの!?

「べつに悪いことじゃないさ。自由な恋愛は上流階級の特権だろ。今宵ここに集まった者達もそういった大人の出会いを求めているわけなんだし」

 会場内のあちこちで親密に語り合う人々が急に淫靡な不倫カップルに見えてくる。

「そもそも、クラクスだって僕とは母親が違う弟だからね。父王には愛人が何人もいてね。クラクスの母親はたしか宮廷庭師の娘だったかな。王宮で働く父親に弁当を届けに来たその娘を気に入って召し上げたんだよ。オヤジはいつも気まぐれなんだ。それでまあ、遊びあきたら充分な手当を与えて家来に嫁がせてやれば後腐れなしってわけさ。ただの庭師の娘から貴族のはしくれになれたら、向こうも満足だろう」

 王子はエレナの腰に回した手を遠慮なく下げていく。

「こういうことだろ?」と、にやけた顔が近づいてくる。

 その瞬間、エレナの感情が爆発した。

 真っ白になった意識がはじけ飛ぶ。

 正気を取り返したときには、じんじんとした手のひらの痛みだけが残っていた。

「おやめください」

 かろうじて言葉だけは冷静を保てた。

 王子は頬をおさえながらまだにやけている。

 ふと見回すと、音楽も止まって周囲の人々は皆凍りついたような表情で二人を見ていた。

 ウェイン王子がエレナの手をつかんだ。

「男の扱いを知ってるようだな。嫌がるふりもむしろ極上のスパイスというものだ」

「お断りです。こんなの人として許されませんわ」

「それは下層階級の基準だろう。僕は王子だ。世継ぎである僕に逆らえるものはこの世にはいない。僕はこの国で最高の地位につく男なのだからね」

「あなたは最低の男です」

「そんなことを言っていいと思ってるのかい? 君のお父さんの立場はどうなる? 君だって、お上品な暮らしができなくなるぞ」

 お父様の立場……。

 エレナの頭は混乱していた。

 自分が間違っているのか。

 そんなはずはない。

 でも、自分のわがままで誰かに迷惑がかかるとするなら、自分が間違っているのではないか。

 エレナは何が正しいのかわけが分からなくなってしまった。

 誰かに助けを求めたくても、そばには誰もいてくれない。

 ねえ、ミリア、どこにいるのよ。

 だが、見回しても侍女がいない。

 もうこんなところにいたくない。

 具合が悪くなったとか言い訳をして城へ帰りたい。

 どうしてどこにもいないのよ。

 今のわたくしには頼れる者があなたしかいないのに……。

 王子はつかんでいた手に力を込めてエレナの腕をきつくねじり上げた。

「たまには田舎臭い貧乏貴族の娘をもてあそんでやろうかと思ったんだが、余興の価値もない面倒くさい女だったようだな」

「なっ……」

 エレナは絶句した。

 なんて不潔な男。

 卑劣、下品、低俗。

 様々な言葉が浮かんできても、声にならない。

 出てくるのは涙ばかりだった。

「は、はなしてください」

 エレナは王子の手を振りほどいて駆け出した。

「その女を捕まえろ!」

 王子が命じると衛兵達が一斉に後を追う。

 ぶつかったテーブルから落ちた皿やグラスが割れて派手な音を立てる。

「キャー!」

「何事ですの!?」

 悲鳴が上がり、巻きこまれるのはごめんと人々が後ずさってエレナの前に道ができる。

 ミリア!

 ねえ、ミリアはどこなの?

 ここからわたくしを連れだしてくださいな。

 エレナは必死に侍女をさがしながらホールを駆け抜けた。

 正面階段まで来て見上げると、踊り場にミリアが立っていた。

「ミリア、こんなところにいたのですか」

 本当に役に立たない侍女なんだから。

 あなたのせいでわたくしがこのような目にあっているのですからね。

 エレナは階段を駆け上がってエレナの陰に隠れようとした。

 すると、ミリアはエレナの腕をつかんで後ろ手にひねった。

「ちょっと、あなた、何をするのですか」

 呆然とするエレナに侍女が言い放った。

「おとなしくした方が身のためですよ。お嬢様は罪人でございます」

「それが主人に対して言うことですか」

 フッと侍女の口元にゆがんだ笑みが浮かぶ。

「すべては筋書き通りでございますよ」

 筋書きって……。

 ミリア、あなたいったい……。

 しかし、問いつめようとしたときには、追いついた衛兵達に取り囲まれてしまっていた。

 その後ろから階段を上がってきたウェイン王子とヒューム大臣に向かってミリアがエレナを突き出した。

「おう、その方、お手柄じゃ。者共、引っ捕らえよ」と、老大臣が衛兵達に捕縛を命じた。

 ウェイン王子が口の端をゆがめながらエレナに侮蔑的な笑みを向けている。

「まったくとんでもないお転婆娘だな。クラクスのみならず僕にまで反逆するとは。死刑は免れないと覚悟しろよ」

 そんな!

「おそれながら」とミリアが王子に頭を下げて言上した。

「なんだ。その方、見れば侍女のようだが。手柄はほめてつかわすが、身分をわきまえよ」

「殿下に申し上げます。わたくしは今はたしかに侍女の身ではございますが、本来は貴族の血を引くものでございます」

 思いがけない告白に王子も興味を持ったようだった。

「ほう、名はなんと申すか」

「わたくしの本名はミリア・コンテ・デル・ラベッラ。かつてシュクルテル伯爵家の卑劣な陰謀によって滅ぼされたラベッラ公爵家の血を引く者でございます」

 よどみなく堂々とした声が大ホールに響き渡る。

 エレナは呆気にとられてその残響を聞いていた。

 どういうこと?

 ミリアが?

 公爵家の娘?

 卑劣な陰謀って何よ。

 もう何がなんだかわけが分からない。

 夢を見ているのだろうか。

 王宮に来てからの展開が急すぎてまったく飲み込めない。

 幼児の婚約者。

 不潔な傲慢王子。

 侍女の裏切り。

 わたくし、きっと悪夢を見ているのよね。

 しかし、エレナをおさえつける衛兵達にひねられた腕の痛みがそんな現実逃避を許さない。

 老大臣までが目を見開いてミリアを見つめている。

「おお、なんということか。そなたがあの懐かしきラベッラの娘だったとは。なるほどこの勇気と気品に満ちあふれた態度こそ、高貴な血を引く証であろう」

 は?

 気品?

 それはこのわたくしに対する言葉というものでございましょうに。

 ミリアがウェイン王子の前にひざまずく。

「今こそ父母の無念を晴らし、復讐を遂げるとき! 偉大なる王家の名において正義のなされんことを、お願い申し上げます」

「ちょっと、ミリア、復讐って……」

「黙れ、その方」

 王子がエレナに怒鳴りつけると、衛兵達が彼女の頭を床に押しつけた。

 痛いじゃないのよ!

 しかし、もはや抵抗する気力もなくなった彼女はその屈辱を受け入れるしかなかった。

 王子が冷たい声で言い放つ。

「よろしい。父に代わって王家の名の下に、この僕が裁きを下そう。シュクルテル家は断絶。領地を没収し、ラベッラ家に与え、公爵家の再興を許可する。そして、新たにクラクスの婚約者としてミリア殿を指名しようではないか。シュクルテル家の者はすべて王国から追放とする。これでよいな、ヒューム大臣」

 老大臣も満足そうにうなずく。

「さすがは殿下。見事な裁きでございます」

 ホールの人々からも賞賛の拍手がわき起こる。

 エレナは一人心の中で異を唱えていた。

 全然見事じゃないわよ。

 断絶?

 冗談じゃないわよ。

 わたくしはともかく、お父様はどうなるのです。

 追放なんて言われても、あの病気の体ではお城から出ることもできないというのに。

 エレナには到底受け入れられない判決であった。

 婚約者から罪人への転落。

 一番信頼していた侍女の裏切り。

 これじゃあまるでこっそり隠れて読んだ小説みたいな展開じゃないの。

 でも、わたくしの小説には、熱愛のページだけが破かれていたなんて。

 夢よ。

 そうよ、これは夢に違いないわ。

 王子が冷たく言い放つ。

「罪人を連れていけ」

「お待ち下さい。これは何かの……」

 抵抗しようとしたエレナを衛兵が殴りつけた。

 本当に夢を見ているかのように、エレナの意識が遠のいていった。

 これは夢よ。

 夢なのよ……。


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