(4-7)
◇
屋敷にもどると、中には誰の気配もなかった。
降り積もったほこりが音もなく舞い上がるだけで、他に動く物は何もない。
寝室にはルクスの姿すらなかった。
乱れたシーツだけが彼のいた証だった。
いつものように悪人を探しに出かけたのだろうか。
しかし、それからいくら待ってみてもルクスは帰ってこなかった。
なんということなのでしょう。
なぜみんなわたくしを一人おいて行ってしまうのですか。
屋敷の中には人の罪がほこりとなって降り積もり、ミルヒの小さな足跡も、エレナが箒ではいた跡も、すべてが白く覆われて消えていくばかりだった。
すべての者が去った今、時を刻むものは何もない。
暖炉の火は消え、灯る明かりはなく、エレナは冷たいベッドに横たわったまま眠ることもなくただじっとしているだけだった。
どれくらい時がたったのかすら、もう気にもならなかった。
この寂しさもこの苦しみもこの悲しみも永遠に続くというのなら、わたくしも降り積もるほこりに埋もれて消えてしまえばいい。
どうしてみなわたくしの前からいなくなってしまうのですか。
ただ痛みだけを残して。
それなら最初から現れなければいいではありませんか。
消え去るためにわざわざ会いに来ることはないではありませんか。
それとも、わたくしが来たからいなくなってしまったというのですか。
これなら誰とも会わなければ良かった。
人を好きになることも嫌いになることも寂しくなることも悲しくなることも何もなくて済んだのに。
最初から一人で良かったのに。
エレナは闇の中でただ闇を見つめているしかなかった。
もはや眠っているのか闇を見ているのか、夢を見ているのか自分でも区別がつかなくなっていた。
どれほどの時がたっただろうか。
カササッ……。
物音が聞こえた。
カササ……。
エレナはベッドの上で起き上がった。
カサササ……。
いるのですか?
フィアトルクス!
部屋にぼんやりとした明かりが満ちる。
ルクスですか?
カサ……。
辺りを見回しても姿は見えない。
カサカサ……。
でも音は確かに聞こえる。
目をこらしてみると、壁に小さな黒い虫が張りついてるのが目に入った。
「ルクス!」
帰っていたのですか。
ならばどうしてそんな姿のままなのですか。
壁に歩み寄ろうとすると、エレナの影を察知した虫が逃げ出す。
闇に紛れてしまってどこにいるのか分からない。
「どうして逃げるのですか?」
カササ……。
音のする方を向いてみても、やはり姿は見えない。
「ルクス……でしょう?」
呼びかけても返事はない。
ベッドの上で何かが揺れる。
黒い虫の頭に伸びる触角だ。
ゆらりゆらりと周囲の様子を探っている。
「どうしてそんな姿のままなのですか」
エレナが手を伸ばそうとしただけで小さな虫はまた闇の中へ姿を隠してしまった。
もしかして。
「おまえは……ただの虫なのですか?」
カサ、カササ……。
壁を這い上がるゴキブリの姿を見てエレナは笑い出した。
はあ……。
わたくしはただの虫に何を期待したのでしょうか。
まぎらわしい。
おまえは一体何をやってこの冥界へ堕ちてきたのですか。
わたくしをからかうためというのなら、立派にその役割を果たしましたよ。
ならば、おまえを潰してこの茶番を終わりにしてしまいましょう。
エレナはベッドの上の枕を取り上げて思いっきり壁にたたきつけた。
間一髪ゴキブリは逃げ出した。
もういい!
いったいなんなのよ!
もう誰もわたくしの前に現れるんじゃありませんよ!
逃げるのならば最初から現れなければいいでしょうに。
エレナは何度も何度も枕を壁にたたきつけた。
ゴキブリなんかもうどうでもよかった。
黒い虫だろうと、暗闇だろうと、それがどこにいようとなんであろうと、そんなことはもうエレナにとってはどうでもよかった。
枕の中の羽毛が飛び散り、白いほこりと一緒に舞い上がる。
たった一匹のゴキブリすら潰すこともできないようなわたくしが一体何の罪を犯したというのでしょうか。
クローゼットの脇に置かれた鏡に自分自身が映っている。
サキュバスはどこへ行ったの?
「あんたはあたし、あたしはあんた。だから出てきなさいよぉ。ていうか、あたしがそっちにいってあげよっかぁ」
ものまねすら下手だ。
そんなつまらない自分自身など粉々に砕けてしまえばいい。
鏡の中の自分自身に向かってエレナは拳を突き出した。
音を立てて割れたガラスの破片が飛び散る。
鋭いガラスの破片を取り上げてエレナはのどにあてた。
そんなことをしても苦しみが増すばかりでここでは何の意味もないことは分かっていた。
ならばいっそのこと、木になる青い実でも食べた方がいいのかもしれない。
もう、どっちでもいい。
エレナがのどにガラス片を突き立てようとしたそのときだった。
屋敷の外から悲鳴が聞こえてきた。
若い女の悲鳴だ。
崩れた鎧戸の隙間から外を見ても、暗闇の様子は分からない。
ただ、悲鳴は確実に聞こえた。
ひどく懐かしい声のような気がする。
エレナはガラスの破片を握りしめたまま屋敷を飛び出した。
また裏切られるのではないか。
また絶望させられるのではないか。
だからといって、行かないわけにはいかない。
自分にとって大切な人が助けを求めているのなら。
自分にできることなど何もないかもしれない。
だけど、行かなければならないのだ。
キャァアアアアア!
聞こえる。
はっきりと聞こえてくる。
エレナは悲鳴のする方へ急いだ。
フィアトルクス!
光あれ!
手にしたガラスが輝き、道を照らす。
光に導かれてエレナは駆けつけた。
「大丈夫ですか!」
「お、お嬢様!」
間違いない。
そこにいるのはミリアだった。
王宮で自分を絶望の淵に追い込んで冥界へと突き落としたあの侍女だった。
だが、そんな恨みなど、どうでもいいことだった。
「ミリア、いったいどうしたというのですか」
「あ、あれ……」
震える手で指をさす方に、二人の男たちの姿があった。
その二人にも見覚えがあった。
「おまえたちは、あのときの!」
それは城の地下牢でエレナから指輪をだまし取った二人組だった。
「お、こりゃ、あんときのお嬢様じゃねえかよ」
「へへへ、ちょうどいいじゃねえか」
ズボンを下ろした男たち二人がそれぞれ彼女たちに襲いかかる。
「ああ、お嬢様!」
「おまえたち、何をするのです。おやめなさい」
二人にのしかかった男たちが顔を見合わせて下品な笑みを浮かべる。
「ずいぶんお上品だねえ。そそるじゃねえかよ」
「『何をするのです』だとよ。お望み通り、たっぷりと教えてやろうじゃねえか」
「たっぷりってよお、ケケケ、おめえ、いつも早く終わっちまうじゃねえかよ」
「うっせえ、ほっとけ馬鹿野郎」
怒鳴り散らす男の隙をついてエレナはガラス片で抵抗しようとした。
しかし、あと少しのところで腕をつかまれてしまった。
「ケッ、元気のいいお嬢ちゃんじゃねえかよ」
奪い取ったガラスの破片を男が闇へ放り投げる。
ガラスの破片はキラキラと輝きを放ちながら宙を舞う。
すると、一条の光が闇に向かって伸びていき、それに呼応するかのように獣の遠吠えが聞こえてきた。
ウォオオオオオン!
服を剥ぎ取ろうとしていた男たちがぎょっとした表情で手を止める。
「な、なんだよ?」
暗闇の中から足音が迫ってくる。
男たちは迫り来る者の正体を見極めようとあたりを見回しているが、足音は四方八方から聞こえてくる。
右かと思えば左、前と思えば後ろ、方角は変わっても足音はどんどん迫ってくる。
変幻自在な足音に戸惑い、男たちは粗末なものをぶら下げたまま呆然と立ち上がった。
ガウゥッ!
闇の中から白い塊が飛びかかってくる。
前足で二人同時に押し倒したかと思うと、あっという間に男たちの下半身めがけて食らいつく。
「うわぁっ!」
「な、なんだコイツ!」
真っ白な毛を逆立てた巨大なオオカミだ。
鋭い爪で男たちの首筋を引っ掻き、牙を突き刺すと、魔物は熊のような巨体をそらせて闇の中へ軽々と男たちを放り投げた。
闇の奥で男たちのうめき声がしたとたん、それをめがけて別の獣たちが襲いかかる。
パクリ、ガフッ……。
ゴリッと骨の砕ける音を最後に二人の声は聞こえなくなった。
「おまえは、ミルヒ……」
エレナは白いオオカミに手を差し伸べた。
すっかり立派になって。
オオカミが頭を下げながらエレナの元へと歩み寄ってくる。
頭をなでてやると、逆立っていた毛はふわふわと柔らかく、あたたかくエレナの手を包み込む。
「よしよし、ありがとう」
助けに戻ってくれた我が子を思い切り抱きしめてやると、クゥンと甘えた声を上げてペロペロとエレナの頬をなめた。
ウォオオオオオン!
仲間の獣たちが呼んでいる。
耳を立てて、ミルヒが彼女の腕からするりと抜け出す。
一度振り向いた彼にエレナはそっと手を振った。
「お行きなさい」
白い獣は軽やかに足を踏み出すと、あっという間に闇の中へと消えていった。
後に残されたエレナとミリアはその残像を二人並んで見送っていた。
「お嬢様、ご無事でしたか」
声が震えているミリアにエレナは微笑みを返した。
「ええ、いろんなことがありましたけどね」
憎まれていたとはいえ、やはり会えてうれしい。
「あなたこそ、王妃になったのではありませんでしたの?」
「それが、私にもいろいろありまして……」
ミリアはあの一連の出来事の後に起きた顛末を話してくれた。
クラクス王子の兄たちを毒殺して王国を乗っ取ろうという試みは、あえなく失敗したのだという。
「あのウェインという王子が曲者でした。私を誘惑して愛人になれと迫るやら、それを断ると逆にクラクス王子を追放しようとしたり、とても私ごときが思い通りに操れる相手ではなかったのでございます」
どうやらミリアも地上で苦労していたようだ。
「それだけでなく、あの破廉恥王子は毎晩パーティーを開いて貴族の娘たちをとっかえひっかえ……」とミリアが頬を赤らめた。「その……やりたい放題だったんです」
私にすら色目を使ってたくらいですものね。
「それで、遊び呆けて政治がおろそかになり、国が乱れました。挙げ句の果てに混乱に乗じて隣国から攻め込まれ、内通していた老大臣にも裏切られて……。私は王族の一員として捕らえられ、処刑され、こうして冥界に落とされたのでございます」
「では、ウェイン王子たちもここへ?」
「それが」と、ミリアは首を振った。「王家の者たちは財力で天国への切符を買ったのでございます」
彼らなら、それくらいの図々しさなど恥とも思わなかったことだろう。
「自分たちの悪事はまるでなかったことにして、私だけ見捨てられてしまったというわけなのです」
そしてミリアが頭を下げた。
「お嬢様、申し訳ございません。バッドエンドでした」
「バッドエンド?」
「ええ、なんとか回避しようともがいてはみたんですが、すみません。私には荷が重すぎました」
いったいこの侍女は急に何を言い出すのだろうか。
「あなた、何をわけの分からない話をしているのですか?」
「分かっていないのはお嬢様の方でございますよ」と、ミリアがため息をつく。
「どういうことですか。あなたがこの世界の主役だったはずではないのですか。だからこそ、わたくしは冥界に突き落とされたのでは?」
「この物語の主役は最初からお嬢様だったではありませんか」
なんですって!?
「いいえ、主役というよりは作者そのものでございます。私は忠実なる侍女として、ただその筋書きをなぞっただけでございます。しょせん私などは物語に登場する数多くの脇役の一人に過ぎませんから」
はあ?
どういうことなのよ?
「お嬢様、そろそろフィナーレにいたしましょう」
フィナーレって……どういうことよ。
そのとき、暗黒だった冥界に光が差し始めた。
「いったい、これは……」
はじめはスポットライトのように二人の周りだけを照らしていた光は、次第に周囲へと広がっていき、青空が広がっていく。
まるで雨上がりのように大きな虹がかかる。
それは歩いて登っていけそうなほどくっきりとした虹だった。
「まあ、きれい」
一面の花畑、青空を映す湖、実り豊かな小麦畑、小鳥たちのさえずる森。
天使が塗り絵を楽しむかのように、色鮮やかな風景が広がっていく。
「お嬢様、あれを……」
ミリアが指す丘の上には、見覚えのあるお城がそびえている。
「あれはお嬢様のお城ではありませんか」
カラーン、カラーン、コロン、カラーン……。
村の教会から穏やかな鐘の音が聞こえてくる。
エレナはミリアに微笑みかけた。
「わたくしたち、お城に帰れるかもしれないわね」
「はい、お嬢様」
エレナは大事な侍女の手を取って歩き出した。
ふかふかとした草原に爽やかな風が吹き抜けていく。
ぽっかりと穴のように開いた池に白鳥が泳いでいる。
澄んだ水の中をのぞき込んだエレナは思わず声を上げた。
「ミリア、見て!」
池の中には闇の世界が広がっていた。
まるで雲の上から地上を見下ろしているかのように、深い闇の底の様子が見える。
獣に追い立てられる人や火山から流れ出した溶岩に飲み込まれる人、巨大な鯨に飲み込まれる人もいれば、お互いに倒れるまで殴り合う人たちもいる。
あれは冥界の風景ではないか。
「天国と地獄が入れ替わったみたいですね」と、興味深そうにミリアものぞき込んでいる。
どうやらそのようだった。
その中には、見覚えのある人たちもいた。
「ねえ、あれは王宮にいた人たちじゃない?」
ウェイン王子にカミラ、それにヒュームという老大臣もいる。
彼らは毒蛇とサソリに囲まれて、次第に追い詰められているところだった。
「あちらはサンペール王家の人たちですよ」
ミリアの指す方の人たちは縄で縛られ、黒いマントをまとった妖魔たちに槍でつつかれながら崖へと追いやられている。
ミリアがつぶやく。
「せっかくお金で天国へ行けたのに、少しかわいそうですね」
エレナはうなずいた。
「そうね。でも、神様はすべてをお見通しなのよ」
エレナは彼らのために呪文を唱えた。
「フィアトルクス!」
光あれ!
池から差し込む光のまぶしさに彼らはみな目をしばたかせている。
希望という名の光ほど虚しいものはない。
冥界にいたエレナはそのことをよく分かっていた。
池の畔でカエルが跳ねた。
「お嬢様、フラグは回収できましたか?」
フラグ?
「お嬢様のお相手が『カエルでなければよい』とおっしゃっていたではありませんか」
「ああ、そのことですか」
エレナの頬に笑みが浮かぶ。
「カエルの方がましだったかもしれませんね」
草むらの中で黒い影が動いたような気がした。
きっと気のせいだろう。
空の虹を見上げて、エレナはまぶしそうに目を細めた。
会いたい人がいる。
フィアトルクス!
光あれ!
光ある限り、またどこかであの黒い小さな虫に会えそうな気がする。
青空がまぶしいほど、地を這う影は濃くなるのだから。
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