(4-6)
◇
目を開けると、そこは暗闇だった。
もう当たり前すぎて、驚きもしない。
かたわらで寝息が聞こえる。
手で探ると、頬から耳へ、そして汗ばんだ髪へと指がからむ。
光あれ!
呪文を唱えると、暗闇の中に小さな青い光がともった。
エレナの指にサファイアが輝いている。
まあ、これは……。
妖魔に奪われていた指輪だ。
どうしてこれが、ここに?
理由は分からない。
それに、サファイアだけが光っていて、まわりは闇に沈んだままだ。
彼の姿も、自分自身ですらも見えない。
なのにサファイアだけが輝いている。
「ルクス」
呼んでも返事がない。
女の愛撫にも男の反応はない。
ただ安らかな寝息だけが闇をさまよっていく。
起き上がったエレナは闇の中で服をまとってベッドを抜け出した。
廊下に出ても、何の気配も感じられない。
そうだ、ミルヒは?
どれくらいの時が過ぎたのか。
彼女は手探りで自分の寝室に戻った。
ベッドには誰もいない。
よじれたシーツにもぬくもりはない。
「ミルヒ、ミルヒ!」
どこへ行ったの?
エレナはキッチンへ下りてみた。
いつもなら下手な鼻歌が聞こえてくるのに、今はドアがぴったりと閉じている。
押し開けてのぞき込んでも暗いままだ。
フィアトルクス!
ほんの少しだけ明かりがともる。
床に積もったほこりがカーペットのように白く浮かんで見える。
誰の気配もない。
かまどを見ても、鍋はなく、料理の匂いもしない。
元から誰も調理などしていなかったかのように、かまどには灰すらも残っていなかった。
サキュバスもいなくなるなんて……。
エレナの指でサファイアの光が強まる。
キッチン全体が青い光に包まれる。
頭がズキズキと痛み出す。
変な鼻歌も、耳障りなおしゃべりも、思い出そうとするのになぜか記憶から消されていく。
覚えていることを思い出したとたんに、書き留めたメモ用紙を破り捨てられるようにきれいさっぱり消えてしまう。
エレナの体の中がうずき始める。
体が震え、火照る。
あたしはあんただし、あんたはあたしだし……。
なぜその言葉だけは消えないのですか。
あんたはあたしだし、あたしはあんただからだよ。
わたくしが妖魔だと言うのですか。
体がうずき、火照る。
自分を抱きしめてしまわないと弾け飛んでしまいそうだ。
あんたはあたし。
はじけちゃえばいいじゃん。
あんたは妖魔。
冥界の帝王だってたぶらかしちゃう淫靡なサキュバスでしょぉ。
はじけちゃえばいいんじゃなーい?
いいじゃん、いいじゃん。
あんたはあたしなんだもん。
「ち、違います」
ちがくないしぃ。
分かってるくせにぃ。
ホントわぁ、もっと愛されたくってぇ、あれもこれもしてほしぃのにぃ。
おねだりしちゃえばぁ?
ほしくてしょうがないんでしょぉ。
「いいえ、違います」
うそぉ、隠したってダメぇー。
だってぇ、あたしはあんただもん。
ぜーんぶ、分かっちゃってるんだからぁ。
「違うと言っているではありませんか」
よろめきそうになる気持ちを奮い立たせて言い返してみても、その言葉をぶつける相手はもうどこにもいない。
自分自身の言葉だけがただ自分に突き刺さる。
むしょうにのどが渇く。
火照った体の渇望に苦しみながらエレナは屋敷の外へ出た。
体が赤い実を欲している。
あの赤い実を食べれば楽になる。
のどの渇きを癒やすために、エレナは赤い実がなる木へと歩み寄っていった。
ちょうどうまいぐあいに屋敷を取り囲む木々の下に実が転がっている。
でも、それは青い実だった。
それは永遠に苦しむ毒の実だ。
甘美な快楽をもたらすのは赤い実だ。
木になっている熟した赤い実に向かって、エレナは震える腕を伸ばした。
そのとき、聞き覚えのある声が聞こえた。
『……ママ、ごめんなさい……』
ミルヒ!?
『……ママ、ごめんなさい……』
どこなの?
エレナは荒く乱れた息をおさえながら声のする方へ進んでいった。
闇の中に白い光が浮かび上がる。
「ミルヒ!」
返事はないし動かない。
駆け寄って抱き上げると、子犬はエレナの腕の中でぐったりとして口から泡を吹いた。
「どうしたのですか、ミルヒ」
すぐそばに青い実が転がっている。
かじった跡がついている。
「ミルヒ、青い実を食べたのですか!? 吐きなさい」
わたくしが甘やかしたからですか。
わたくしが放っておいたからですか。
なぜおまえが罪を重ねなければならなかったのですか。
「吐き出しなさい」
エレナは口を開かせようとした。
と、そのときだった。
ガブリッ!
「いたっ!」
ミルヒがエレナの指を思い切り噛んでいた。
ちぎれたのではないかというほどの痛みに襲われて思わず彼女は子犬を突き飛ばしてしまった。
ふらつきながら立ち上がった子犬がこちらをにらみつけている。
血にまみれたその口には太い牙が生えている。
その目つきはまるで飢えたオオカミのようだった。
「グルゥゥゥ」
「ミルヒ……」
体は子犬のままなのに、中身はすっかり変わってしまったようだ。
低いうなり声を上げながらエレナを威嚇している。
「ミルヒ、どうしたのですか? 苦しいのですか?」
さっきまでのうずきも火照りも、噛まれた指の痛みでどこかへ吹き飛んでいた。
手を伸ばして頭をなでようとすると、牙を剥き出しにして吠える。
「ガウッ! ガウガウ!」
「どうしたのですか。まるでわたくしを憎んでいるみたいではありませんか」
話しかけると、そうだと言わんばかりにガウッと吠える。
「なぜですか。わたくしがあなたに何をしたというのですか」
凶暴になったのは青い実の毒のせいかもしれない。
抱き寄せてやればまたいつものように甘えた声を上げて落ち着いてくれるだろうか。
「さあ、屋敷へ戻りましょう。少し休めばきっと毒も抜けて落ち着くでしょう」
しかし、ミルヒは毛を逆立てながらうなるのを止めない。
「ミルヒ、さあ……」
手を差し伸べたエレナにミルヒが飛びかかってきた。
「ガウッ! ガルル、ガウガウ!」
体重と勢いで押し倒されて、ガブリと左手を噛まれる。
あまりの痛みに、エレナは声を上げることすらできなかった。
前足で胸を押さえつけられて、逃げることもできない。
小さな子犬のはずなのに、巨大な熊のような力だ。
お母様、お助けください!
エレナは天に祈った。
すると、子犬の口の中が光り始めた。
牙の間から青い光があふれ出てくる。
エレナの手と一緒にかみついたサファイアが光を放っているのだった。
クゥン……。
急におとなしくなった子犬が口を開けてエレナから飛び退く。
血にまみれた左手を右手で押さえながら彼女はミルヒに話しかけた。
「いいのですよ。ママは怒っていませんよ」
そして、微笑みを浮かべて両手を広げて見せた。
「おいで」
ミルヒはおびえたような表情で後ずさる。
「どうしたの? おいで」
ウォオオオーン!
どこからか遠吠えが聞こえてくる。
ミルヒの耳が立つ。
ウォオオオーン!
別のところからもだ。
ミルヒがピクリと向きを変えた。
ウォオオオーン!
ウォオオオーン!
どんどん数が増えていく。
まっすぐ脚を伸ばしてミルヒは天に向かって顔を上げた。
「ウォオオオーン!」
小さな体から出ているとは思えないほどの遠吠えが闇に鳴り響く。
周囲の声がピタリとやんで、闇が固まったように静かになる。
ミルヒがゆっくりとエレナに歩み寄ってくる。
両手を広げて出迎えてやると、胸に顔をこすりつけて甘えた仕草を見せる。
そっと抱きしめてやると、穏やかな表情でクゥンと一声鳴いた。
ふんわりとした毛並みが頬をくすぐる。
おとなしく背中をなでられているミルヒはまだ幼子のようなのに。
沸き起こる衝動を体の中に収めておくことができなくなっていたのね。
それをぶつける相手がわたくしではないのなら。
ここはおまえの居場所ではないのでしょうね。
くるりと体をひねってエレナの手をなめる。
血は止まったが、痛みは消えない。
『……ママ、ごめんなさい……』
「いいのですよ」
彼女は最後の予感を胸にミルヒを抱きしめた。
小さな子犬だと思っていたのに。
おまえもまた罪を背負っているのですね。
ここは冥界だ。
木からボトリと落ちた青い実が赤い実を押しつぶす。
つぶれた赤い実から腐臭が漂う。
ウォオオオーン!
遠吠えに反応して、エレナの腕の中でまた耳を立てる。
「行くのですか?」
顔を伏せる。
それが答えなのだろう。
旅立ちの時が来たのだ。
みな、わたくしをおいてどこかへ行ってしまうのですね。
エレナはミルヒを離した。
立ち止まって振り向く彼に笑顔を向ける。
「行きなさい。もう、ここはあなたの居場所ではないのですから」
クゥンと切ない声を上げて白い影が闇の中へ消えていった。
聞こえていた足音も届かなくなる。
エレナは転がっている青い実を持ち上げ、思いっきり木の幹にたたきつけた。
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