第4章 冥界の聖母!?(4-1)
目を開けるとそこはまた闇の世界だった。
もう何度目だろうか。
分かっていることなのに、いまだに慣れない。
「気がついたか」
闇の中で声がする。
誰かの腕を枕にして眠っていたらしい。
「ルクス……ですか」
「そうだ」と、闇が返事をした。
すぐ目の前にいるはずなのに、何も見えない。
そういえば……気を失ったんだった。
最後に見たものを思い出すと、体が震え、鳥肌が立つ。
エレナは手で彼の顔をなでて確かめてみた。
鼻、頬、耳、少し汗ばんで濡れている髪。
彼は人の姿に戻っているようだ。
「何をしている?」
エレナは答えずに彼の髪に指を通していた。
ルクスも彼女のするにまかせて、それ以上何も言わなかった。
今は明かりはいらない。
顔を見られたくなかった。
「泣いているのか」
……言わなくていいのに。
顔を隠したくて体をひねろうとして、自分がまだ服を着ていることに気がつく。
「俺の寝床に入り込んで何をしようとした?」
エレナは答えなかった。
答えられなくて黙っていた。
何をしたかったのか、自分でも分からない。
ただ、そばにいたかった。
一緒にいたかった。
触れ合っていたかった。
ただそれだけなのに。
他に何があったというのだろうか。
それをただ自分は知らないだけなのか。
心の奥に冷たい滴がぽたりと垂れて波紋を広げる。
もう体の火照りもなく、心は冷え切っていた。
エレナは闇の中でそっと涙をぬぐうと、ゆっくりと身を起こしながら、『光あれ』と唱えた。
ベッドに横たわったルクスの姿があらわになる。
薄い毛布から出た裸体の上半身は間違いなく人の姿だった。
エレナはベッドの上に転がる枕を持ち上げて、思いっきりルクスにたたきつけた。
「何をする」
男が冷静に枕を払いのける。
エレナはその枕をもう一度取り上げて、またたたきつけ、そしてそれに体重をかけてルクスにのしかかった。
「何をしている」
両腕で枕ごとエレナを押しのけると、今度はルクスがエレナの上にのしかかって押さえつけた。
「どうした? 何を怒っている?」
「怒ってなどいません」
ルクスが鼻で笑う。
「そうか。ならいい」
ちっとも良くない。
「どんな夢を見ていたのですか?」
「夢? 俺は夢など見ない」と、ルクスの力がゆるむ。
「でも、寝言を言っていたではありませんか」
「寝言など言わんぞ。俺は寝ない。冥界の帝王だからな」
またそれだ。
そのくせ、あんな妖魔にたぶらかされて……。
もう、話にもならない。
こんな男と話などしたくもない。
エレナはルクスを手で押しのけてベッドの上に起き上がった。
「あのおかしな妖魔とお楽しみになっていればいいでしょうよ。失礼します」
「待て」と手をつかまれる。「妖魔とは何だ?」
「あなたの大好きなわたくしのことです!」
背中にルクスの笑い声を残してエレナは部屋を出た。
ああ、もう、イライラする。
こんなときは掃除をするに限る。
無駄だと分かっている作業ほど無心になれるものだ。
ただ、やはり、そう都合良くはいかないようだった。
箒を持って玄関ホールへ下りていくと、またキッチンから料理の匂いが漂ってきた。
まだいたのですか、あの妖魔。
エレナはわざと足音を鳴らしながら廊下を進むと、力一杯ドアを開けた。
中ではサキュバスがまた何かを調理していた。
「はぁい、お元気ぃ?」
あいかわらず不快なしゃべり方をする妖魔だ。
「元気ですけど、不機嫌ですわ」
「へえ、なんで? なんで、なんで?」
知ってるくせに。
エレナは返事をせずに歩み寄った。
「今度は何ですの?」
「またシチューだよ」
「他に何か作れないのですか?」
「煮たり焼いたりいろいろできるけど、べつにいいじゃん。おいしいんだから」
「でもまたおかしな材料を使ってるんでしょう?」
「今日は赤い実は入れてないよ」
「じゃあ、別の何か?」
「何よ、疑ってんの? やだやだ。ひねくれた女ねぇ」
「指輪をだまし取ったり、赤い実を食べさせたり、何度もだましたのはあなたではありませんか」
「あたしはあんただし、あんたはあたし。だましたのもあんた、だまされたのもあんた。あんたのものはあたしのもの。あたしのものはあたしのもんだけどね」と、指にむっちりとはまったサファイアをわざとらしく見せつける。
またその理屈だ。
都合が悪くなると全部それだ。
「今回はね、くりいむシチューだよ」
鍋の中から甘い香りが立ち上っている。
「この甘い香りは何ですの?」
「クリームでしょ。べつに変な物入ってないし」
「でも、ずいぶん甘そうですわよ」
「あたしと帝王様のこと? なんちって」
背筋がぞわぞわする。
ああ、鍋ごとひっくり返してやりたい。
「味見する?」
「いいえ、結構です」
「何よ、疑ってんの? べつに変なもんは入ってないってば」
「もう信じません」
「えー、せっかく作ったのにぃ」
言葉とは裏腹にサキュバスは笑みを浮かべている。
「あんたさ」と、自分で一口味見しながら妖魔がエレナに顔を寄せてきた。「そんなこと言ってるけど、のぞきに来たんでしょ。もう、興味津々じゃん」
エレナは顔を赤くしながら首を振った。
「ち、違います。わたくしは名前を呼ばれたから行ってみただけです」
「はあ? 呼ばれた? んなわけないじゃん」
「いえ、まちがいなく『エレナ』と寝言を言ってました」
「寝言はあんたが寝て言いなよ。帝王様が呼んでいたのはあたし。だって、あたしとイイコトしてたんだから」
「一人でしたわよ」
「あたしもいたよ」
ルクスは一人で枕を抱きしめていたはずだ。
サキュバスがニヤつきながら鼻歌を歌い出す。
鍋底を引っ掻くような不快な歌声だ。
「ふんふーん、ふん、ねえ、何してたか知りたい?」
エレナは顔をしかめながら首を振った。
「ねえ、知りたい?」
しつこい妖魔だ。
「いいえ、結構です」
「えー、ていうか、聞いてよ」
「嫌です」
「聞いてくれなくてもしゃべっちゃうしぃ」
サキュバスは鍋をかき回しながら『帝王様ったらぁ』とか、『もうすごいのぉ』とか、『あたしもうアハンハンでぇ』とか、一人でベラベラと意味不明なことを語り出す。
エレナはその言葉を一切聞き流しながら鍋の様子を眺めていた。
相変わらず料理そのものはとてもおいしそうだ。
「ねえ、ちょっと、聞いてる?」
聞いてません。
「でね、もうアソコがジンジンヒリヒリしちゃって大変なのよ、もう」
うふふと笑い出したかと思うと、妖魔が声を潜める。
「ねえ、アソコってどこだか分かる?」
エレナは静かに答えた。
「唇ですか」
「セイカーイ! えー、なんで分かるの?」
「だって、真っ赤に腫れてますもの」
「やだあ、もう、恥ずかしいー。そうなのぉ、チューしすぎちゃってぇ、たいへーん。もうねぇ、帝王様、あたしにギュッとしがみついて離してくれないんだもーん。ていうか、あたしも離さないしぃ」
相手にするのも馬鹿馬鹿しい。
こんな妖魔と遊んでいる冥界の帝王というのも軽蔑の対象でしかない。
「んー、まあ、いっかな」と、サキュバスが調理の手を止めた。「できたから、帝王様呼んでこよっと」
あんな男の顔など見たくもない。
エレナはサキュバスに続いてキッチンを出て、またホールの掃除に取りかかることにした。
キャッキャッと猿のような叫び声を上げながら階段を駆け上がっていくサキュバスが廊下から彼のことを呼んでいる。
「帝王様ぁ、お食事の用意ができましたよーん。やだあ、『オレが食べたいのはおまえ』って? あたしじゃないですからぁ。シチューですぅ。って、チューがいい? もう、今からですかぁ? いいけどぉ」
ああ、もう。
馬鹿じゃないの、馬鹿バカ馬鹿!
二人とも箒でたたき出してやりたい。
でもここはルクスの屋敷だ。
いいですわ!
こうなったら、わたくしの方が出て行きますわ。
あんな男に心を委ねようとしたわたくしが愚かでした。
エレナは箒を投げ出して屋敷を飛び出した。
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