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第1章 婚約破棄!?(1-1)

 窓を開けると雲一つない青空が広がっていた。

 丘の上にある城館まで村の教会から朝の鐘の音が聞こえてくる。

 まるで今日という日を祝福しているようだ。

 十八歳になった伯爵令嬢エレナは王子と正式な婚約を結ぶために、今夜王都に招かれているのだった。

 今夜のパーティーに思いを馳せながら、彼女は空へ飛び立つ小鳥を目で追っていた。

「お嬢様、お支度の時間でございます」

 侍女に呼ばれて振り向くと、エレナは天蓋付のベッドに勢いよく倒れ込んだ。

「はあ、着替えなんて面倒ね。このままじゃだめかしら」

「寝間着で婚約パーティーなど、とんでもございません」

 侍女は呆れながら、エレナが脱ぎ捨てた寝間着を拾いあげた。

「こちらが本日のお召し物でございます」

 侍女の差し出すドレスを見て、今度はエレナがため息をついた。

「なんて古くさいドレスなの。こんなの嫌よ」

 まるで分厚いカーテンを縫い合わせたような重苦しいデザインだ。

「由緒ある伯爵家に代々伝わる衣装でございます。亡き奥様もお召しになった形見の品でございますよ」

 侍女にたしなめられてエレナはうつむきながらドレスを見つめた。

「お母様の……」

 それを言われてしまうと、何も言えなくなる。

 幼い頃に亡くなった母は、気品にあふれた慈愛の象徴として記憶の中にある。

 その母が亡くなって以来、十八になる今まで世話をしてくれた五歳年上のミリアは、侍女とはいえ姉代わりとも言うべき存在であった。

 わががまを言いつつも、侍女の言うとおりにしておけば間違いはないのだった。

 しかし、様々な思いが去来するとはいえ、防虫ハーブとほこりの臭いにまみれたドレスはやはり好みに合わない。

 それに、サイズだって合うかどうかも分からない。

「ご心配なさらなくても大丈夫でございますよ」

 察したようにミリアがドレスを広げる。

「胸のあたりも、お嬢様にぴったりなように仕立て直ししておきましたから」

「あら、それは気が利くこと」

 エレナは侍女からドレスをひったくると、自分の平らな胸にあてがった。

「ホント、ぴったりだわ」

「余り布は折り込んで縫いつけてございます。あと、少々詰め物で形を整えたと、仕立屋が申しておりました」

「ご苦労様ね」

 エレナは空中に放るような勢いでドレスに袖を通した。

「どうかしら?」

「とても優美でございます」と、侍女が姿見を引き寄せる。「今宵一番に輝くのはエレナお嬢様以外には考えられません。満月ですら欠けて見えることでしょう」

「本当にそう思う?」

「もちろんでございます。王子様の視線も釘付けでございましょう」

 鏡の中で苦笑を浮かべる自分の姿を眺めながらエレナはためいきをついた。

「でも、やっぱり、古くさいわよね」

「格式というものでございます」と、侍女がドレスにほどこされた装飾をなぞる。「このレースは王室御用達の工房で作成されたものでごさいますし、こちらのプリーツとリボンのコンビネーションは伯爵以上の家系にしか許されない高貴な証でございます。それに……」

「ああ、もういいわよ」と、エレナは手を突き出して話をさえぎった。「それより、肩掛けはどうしたの?」

 あたりを見回しながら侍女がつぶやく。

「もうしわけございません。お持ちしたはずなのですが」

「何やってるのよ。はやく探してきなさい」

「はい、ただいま」

 まったく困った侍女だこと。

 ミリアの背中を見送りながらエレナはため息をついた。

 彼女はいつもこんな調子なのだ。

 優秀で城内のことはなんでも知っているのに、肝心なところが甘い。

 そのせいでいつもエレナはイライラさせられてしまうのだ。

 貴族である自分がなぜ庶民の侍女に煩わされなければならないのか。

 といっても、エレナにとってミリアは唯一信頼できる侍女であることに変わりはない。

 それに、貴族の娘として甘やかされてきたエレナは、ミリアがいないと何もできないことも自覚しているのだった。

「お待たせいたしました、お嬢様」

 肩掛けを持って戻ってきた侍女が鏡をのぞき込みながら左右の長さを調整する。

「まあ、少しはましになったかしら」と、エレナはうなずいて見せた。

「大変お美しゅうございますよ」

「だといいけど」

「では、旦那様にご挨拶をして、出発いたしましょう」

 ドアを開けた侍女にうながされてエレナは部屋を出た。

 父のシュクルテル伯爵はもう長いこと病で伏せっていた。

 医者の懸命の治療で命を保っているものの、ここ最近ではもう起き上がることもできなくなっていた。

 主寝室の重いドアをミリアが押し開ける。

「旦那様、お嬢様がご挨拶に参りました」

 中から返事はない。

 エレナはベッド脇に歩み寄った。

「お父様、具合はいかがですか」

 耳元で声をかけるとようやく目が開く。

「おう、我が娘よ」と、伯爵が震える手を伸ばそうとする。

 エレナはその手を取ってさすった。

「優しい娘よ。今日は一段と美しいのう。亡き妻を思い出すようじゃ」

「お母様のお召し物だそうです」

「おうおう、そうであったのう」と、青白い顔に落ちくぼんだ目を細めながら伯爵が口元に笑みを浮かべた。

「お父様、わたくし、今晩の婚約パーティーへ参りますの」

「そうか。いよいよか」と、かすれた声で伯爵がつぶやく。「わしは行けぬが、心配はあるまい。我が伯爵家の名誉にかけても、このたびの婚姻を無事に成立させねばならぬ。そなたも母から受け継いだ誇りと気品を忘れるではないぞ」

「はい、お父様」

 娘として従順な返事をしながらも、エレナの心の中では不満が渦巻いていた。

 貴族というのはなんとも面倒なものだ。

 格式やら気品やらしきたりだの、守るべき決まり事が多すぎる。

 それが庶民と貴族を分け隔てるものだとはいえ、そこまで大切なものなのか。

 彼女は父のやつれた姿を見るにつけ、いつも疑問に思うのだった。

 かといって、それを今言っても仕方のないことだ。

 エレナは父に微笑みを作って見せた。

「このたびのことが無事に済みましたら、お父様も気候の良いところに転地療養をなさってくださいな」

 骨張った手に力を込めながら父がうなずく。

「今後のことはそなたに任せておけば、わしも、ゴホッ……安心じゃな」

 声を出そうとすると咳が止まらなくなってしまうようだ。

 エレナは枕元に置かれた吸い飲みを取り上げて、冷めた薬用茶を父の口にふくませた。

 しばらくして呼吸が落ち着くと、父は目を閉じた。

 まるで蝋人形のようだ。

 エレナは冷たい父の手を毛布の中に入れた。

 目を閉じたまま唇が動く。

「ミリアはおるか?」

 侍女が前に進み出る。

「はい、なんでございましょうか」

「そなたはよく我が伯爵家に仕えてくれた。礼を言うぞ」

「もったいないお言葉でございます」

「これからもエレナのことを頼むぞ」

「はい、私の心はいつも一つでございます」

「うむ、今宵のことも粗相のないようにな」

「はい、心得ております」

「良い知らせを待っておるぞ」

 父は柔和な表情になって穏やかな寝息を立てはじめた。

 エレナはミリアの横からそっと声をかけた。

「では、お父様、行って参ります」

 目のふちを指でぬぐいながら部屋を出ると、廊下の冷たい空気が首筋にまとわりついてくる。

 エレナは身震いしながら肩掛けをかき寄せた。

 古い城はあちこち傷んでいて、すきま風は吹くし、カビくさい。

 華やかだった伯爵家も、母が亡くなった頃から、しだいに行き届かないところが目立つようになっていた。

 父が病に伏せってからは領地の経営もあまりうまくいっていないという話はエレナの耳にも入っていた。

 有能な執事が去ってしまい、かつてはたくさんいた使用人も、一人減り二人減り、今では半分以下になってしまった。

 だが、箱入り娘の自分にできることなど何もない。

 エレナにもそのくらいのことは分かっていた。

 今宵の婚約パーティーを無事に終えれば、自分は王室の一員として迎え入れられる。

 王子との婚約は自分が生まれたときからの契約事項だと聞かされてきた。

 一度も相手に会ったことはないが、そんなことは問題ではない。

 貴族にとっては名誉なことであり、この世で最高の地位を手に入れることになるのだ。

 美男子であってほしいが、カエルでなければそれでかまわない。

「カエル?」と、ミリアが首をかしげて立ち止まる。

 つい、思っていたことを口に出していたらしい。

「フラグですか、お嬢様」

 旗?

 今度はエレナが首をかしげる番だった。

「物語などで使われる言葉でございます。伏線と言いますか、この先に起こることを自分から予言してしまうようなことです。たいてい悪い結果を導くときに使われます」

 ミリアが仕事の合間に小説などというものを読んでいることをエレナは知っていた。

 そのせいか、この侍女はたまに意味不明なことを言い出すのだ。

 刺激的な快楽を求める小説は庶民の娯楽であり、上流階級の者はそのような下劣な物に触れてはならないとされている。

 貴族の令嬢が知らないのは当然だった。

 ただ、エレナにしても、ラテン語の勉強のふりをしながらこっそり小説を読んで、刺激的な恋物語に心ときめかせたことがあるのは内緒だ。

 悟られぬようにエレナはあえて違う例をあげてみた。

「それはつまり、真夜中の鐘の音を聞くとおねしょをしてしまうとか、そういう戒めのような物ですか」

「はい、さようでございます。さすがは十二の時までおねしょをなさっていたお嬢様。例えが的確でございます」

「あ、あのときは、夢の中でお母様がトイレにつれていってくださったのです」

「さようでしたか。お嬢様はたいへん素直でいらっしゃいますので、お疑いにならなかったのございましょう」

 すました顔で皮肉を言うミリアをにらみつけても、素知らぬ顔だ。

 隠そうとしてかえっていらぬ恥をかいてしまった。

 いや、知っていてあえて言っているのだ。

 まったく、この侍女ときたら。

 まあいいわ。

 今大事なのは今夜のパーティーよ。

 嫁いでしまえば、こんなさびしい田舎ともお別れだもの。

 それは家のためでもあるし、自分のためでもある。

 わたくしこそが、この世の主役なのですから。

 エレナは胸を張って前を向き、かたわらに控えた侍女に告げた。

「さ、ミリア、参りましょうか」

「はい、お嬢様」

 カツカツと靴音を響かせながら、エレナは玄関へ向かって歩き始めた。


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