8話 初めてのおつかい
最後に残ったのはやはりというか、ずっと飄々としていたリュウだった。
今は二杯目のコーヒーを飲みながら、ローテーブルの上で広告紙をじっと見つめている。
遊と直哉はというと、すっかり息切れしていた。まるで少年漫画で主人公とライバルが喧嘩したその後、互いを認め合うみたいな感じだろうか。
だが実際には、そこに認め合うなんて感情はなく、ただ疲れているだけのようだ。
そして十時を過ぎた頃、四人はローテーブルを囲って朝食を取っていた。
「卵かけご飯なんて初めて食べるけど、なかなか美味しいわね!」
「僕も食べてみようかな」
「それなら醤油をかけて食べると美味しいわ」
何もかけずに食べていた遊も、リュウに勧められて渋々って顔をしながら醤油をかける。
「ま、まあ、悪くはないわね」
「確かに美味しいですね、これ。もうこの組み合わせは正解な気がしますね」
「ふふふ、それなら良かったです」
「まあ、私の故郷の料理に劣らなくもないわね!」
そこで遊はおかわりと言って、席を立った。
「甘いな、小童ども! 卵かけご飯の最適解は、このめんつゆ一択だ!」
「めんつゆ?」
「ああ、さっき台所で見つけたんだが、これがもう格別なんだ」
まるで自分だけが正解を知っているような自信でもって、直哉は宣言する。
「それにめんつゆの成分表を見れば一目瞭然だろう。めんつゆは、出汁と醤油、みりんと砂糖で構成されているんだ。ただの醤油が敵うわけない!」
「いいえ、違うわよ直哉くん。めんつゆは甘くなりすぎるの。醤油のこの力強さと卵で包まれた米粒の甘みが調和して、そこで初めて卵かけご飯が完成されるのよ」
「せ、先生が言うのなら、間違いないんでしょうな」
「もちろんです!」
リュウに言われて直哉はあっさりとめんつゆ派をやめた。
光太郎は醤油とめんつゆの両方を試したが、結局どちらも美味しかった。
これは単純に好みの問題だと思う。
リュウの真正面には遊が座り、直哉と光太郎が対面するように座っている。
いまだ遊はパジャマ姿で、直哉はパンツ一丁だった。
「いきなりだけど、今日はみんなに買い物に行ってもらおうと思います」
何の前触れもなく、本当にいきなりの提案だった。
リュウはスーパーの広告紙をテーブルの中央に滑らせると、三人の視線を引き付ける。
「先生、これも人間に溶け込むための訓練ですか?」
「そうだよ。君たちにはお金と買ってきて欲しい食材をメモに書いて渡すから、それで買い物をしてきてもらいます。もちろんお金の使い方も学んでもらうよ」
「えっ、リュウさんは来ないんですか?」
「ええ。不安はありますが、とある番組では五歳の子でも一人で買い物に行っていました。だから今日は初めてのおつかいです!」
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そんなわけで光太郎たち三人は、現在近所のスーパーに来ていた。
無論、遊と直哉は服に着替えている。所持金は二千円で、それは光太郎が持つことになった。緩衝材である光太郎に任せるのが適任だと考えたのだろう。
「敬愛する先生はいないし、おかげにこの異星人と一緒とはなんと嘆かわしいんだ!」
「それはこっちのセリフよ、バカ犬!」
天気は曇り。
まさに光太郎もそんな心持ちである。
とりあえず、この三人での実習には協調性も試されている気がする。そういうのも含めてリュウは仕組んだのだろう。
だったら、まずはそのきっかけを作るのが第一だ。
「それで直哉先輩、僕たちは何を買うんでしたっけ?」
メモを渡された直哉は、それをひとつひとつ読み上げる。
「えーと、牛肉にじゃがいも、しらたき、にんじん…………以上だ」
「あれ、おかしいな。リュウさんは五つあるとか言ってたような気が……」
「ふんっ、貸しなさい」
メモを奪い取った遊は、それを見てからにやりと笑った。
「あんた、玉ねぎを言い忘れてるじゃない」
「くっ、そんなものはない! この地球上に断じて存在しない!」
「ふ~ん、もしかして犬、本当は玉ねぎが嫌いなだけなんじゃない?」
「そ、そんなわけ無いだろう! 僕を誰だと思っているんだ、この直哉さまには苦手も欠点も何一つ存在しない!」
「あっそ、なら良かったじゃない」
どうでも良さそうに言いながら、遊は入口に向かった。
「そもそも私はあの女の命令に従う気は最初から無いし、どうでも良いわよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ、遊さん」
「むっ。あの女と一緒の呼び方しないでよね。せめて、ちゃん付けにしなさいよ!」
「ゆ、遊ちゃん。でもそれだと今日の晩御飯が……!」
「ああ、後輩の言う通りだ。先生の指示に従えないのなら協力など出来ない」
遊と直哉は一歩も自己主張を譲る気は無い。
「ふん! ならここからは別行動ね。でもコータローはこっち側だから!」
「えっ、話聞いてたの?」
「ああ、良いだろう。だが千円札は頂く」
「それで良いんだ」
直哉は光太郎から千円札をもらうと、一足先にスーパーの中へと消えていった。
初手から協調性もへったくれもありはしない。
そもそも遊がリュウの提案に文句なく乗ったところから、この話には裏があることに気づくべきだった。
「もしかして遊ちゃんは、リュウさんがいないからスーパーに来たの?」
「それもあるけど、それだけじゃないわ。私だって人間が使うスーパーには来てみたかったし、楽しそうでしょう。だからあの女がいなかったのは渡りに船って感じよ」
「そっか」
遊はもともと直感で動くタイプであるからこそ、リュウがいようがいまいが、スーパーには来るつもりだったらしい。
「じゃあ、まずはあれに乗ってみたいわ!」
自動ドアに驚きつつ、すぐ傍に置いてあるカートを指さした。言われた通りに光太郎はカートを取り出すと、その上に遊が座った。
カゴは遊が自分で持つと言い張った。
光太郎が遊の乗ったカートを押して店内に入ると、涼しさと果物の香りが飛び込んでくる。
最初に言っておくが、この二人はスーパーでの立ち振る舞いを知らない。
ましてや来たことも無いのだから、それも仕方のないことだった。
昼前なだけあってスーパーの中には主婦がたくさん買い物をしている。
二人は自分たちが奇異な目で見られているとは露知らず、間違いだらけの買い物劇が幕を開けた。
「ねえ、コータローあの赤いの取って」
「これのこと?」
「そう、それそれ」
りんごを遊の方に渡そうとすると、遊はいきなり齧り付いた。
「えっ、これって食べちゃって大丈夫なの?」
「当たり前じゃない。じゃないと、どうやって食べれるか確かめるのよ。食べれないものかもしれないし、毒見しないと分からないでしょう?」
「確かに一理あるけど……」
青果コーナーを一通り見終えると、床には味見として齧られた果物や野菜の残骸がぽつぽつと落ちていた。
遊の試食はまだまだ続く。
魚コーナーでは、サーモンの刺身を一パック完食した。遊が。
次にお菓子コーナーでは、目当たり次第に開封していった。これも遊が。
そしてお肉コーナーでは、実際にウインナーが試食出来たので、そこにあるウインナーをすべて平らげた。
あまつさえ遊は今こうして、そのフライパンの上で牛肉を焼き始めている。
試食コーナーのお姉さんに注意をされたが、逆に言いくるめられてしまい、お姉さんが泣きながら逃げる姿を見て、遅まきに光太郎は周囲の視線に気づいた。
「やっぱり遊ちゃん、これおかしいんじゃないかな?」
「どうしてよ? 私の故郷だったら毒見は当然よ」
「どんな故郷……?」
これが文化の違いというやつなのだろう、と光太郎はしみじみ思う。
しかしそれは河童の村も例外ではない。
だからこそ、毒見自体は光太郎だっておかしいとは思っていなかった。
「でもさっきの店員さんも泣いてたし……。僕たちだけだよ、試食してるの」
「そんなわけ……」
「何しとんねんコラぁあああ‼」
その時、突如として店内に関西弁が轟いた。
遊は言葉を切って、光太郎の後ろに視線をやる。
気になって光太郎も振り返ると、そこには鬼のような形相をしたオバチャンが立っていた。
恰幅も広く、チリチリパーマが特徴のまさにオバチャンである。
緑のエプロンを着ているところから、このスーパーの店員なのだろう。
そしてオバチャンの背に隠れるように、四人の店員が掃除機やらモップを持って、見るからに戦闘態勢を築いている。
さっきのお姉さんの顔もあった。
「見て分からないの? ただの試食じゃない」
「ここはアメリカンスタイルでやってないわ、アホ! これどないすんねん!」
「そんなの知らないわよ、それに私はアホじゃないわ!」
「そういうのをアホって言うねん! それにあんたら、ここら辺で見いひん顔やな。もしかして新入りかい?」
「新入りだったら何? あと、その喋り方やめてくれない。なんで語尾にネンってつけるのよ」
「オバチャンになったら分かるわ!」
「私はならないわ」
「小娘のくせして我が強いわね。あんたらみたいな勝手知らん連中はたまに来よるわ。でもここまで酷いのは生まれて初めてよ」
「なら買い物のルールブックでも作りなさいよ! そらなら私だって守ってあげるわ!」
「不文律って知らんの? だいたいのマナーは見て学びい。あかん、こういうタイプの小娘は一筋縄ではいかんねん」
「なら交渉決裂ね」
「みんな、あの二人を捕まえて。スーパー全面戦争よ!」
オバチャンの合図で、後ろに隠れていた四人の店員たちが一斉に襲い掛かってきた。
「コータロー、パンコーナーに舵を切って!」
「り、了解!」
何が何だか分からないが、追いかけてくる店員から反射的に逃げていた。
カートをひたすら押して、パンコーナーの方に向かって走る。勢い余って滑りそうになるが、すんでの所で態勢を整えた。
冷静に考えれば、逃げる意味など全く無いのだが、今の光太郎は『逃げる』ということしか頭になかった。
すると右から男の店員が近づいてきた。
カートは総菜売り場に突入する。
男は掃除機を持ちながら、それを光太郎の方に向けてどんどんと近づいてきた。
「邪魔よ」
そこで遊は棚にあったカップ焼きそばを掴むと、それを尋常な回転数をもって、男の顔に命中させた。
普通の人間では気絶するくらいの威力だ。
「こらぁあああ! 食べ物を投げんじゃないよ‼」
後ろからオバチャンの怒りの咆哮が聞こえる。
ぐふっと仰向けに倒れた男を尻目に、光太郎は足を速めた。
「遊ちゃん、前が見えない!」
「あっ……!」
遊が体を縮めた時、視界が開けた。そこには先に回り込んだのか、男と女がモップを持って立ち塞がっている。
このままいけば確実に捕まる。
ならば、と光太郎は飲み物コーナーに舵を切った。
しかしギリギリで曲がるため、足で急ブレーキをかけて減速させる。そしてバックステップを踏んだら、進行方向を定めつつドリフトして、床を蹴り再加速。
どうにかジュース売り場に滑り込んだら、後ろから先ほどの二人組がやはり追いかけてきた。
カートを押しながら走る光太郎に、身軽な二人はすぐ近くまで追いついた。
「コータローは前に集中して、後ろは任せなさい!」
言うが早いか、遊は近くのペットボトル飲料を転がして、地面にジュースをぶちまける。
だが、モップ持ちも伊達じゃない。それを巧みに使って、遊の攻撃を防いでいる。
「まったくしぶとい奴らね。さっさとくたばりなさい!」
そこで目の前に先ほどのお姉さんが立ち塞がった。
「ここは通させませんよ!」
さっきみたいに泣いてはおらず、むしろその瞳は炎に燃えていた。
あれは捨て身の覚悟だ。
「ど、どうするの遊ちゃん?」
「男のくせいに情けないわね。もちろんこのまま正面突破よ!」
「いや、そんなの無理だよ!」
どうしよう、このまま進むことは光太郎には出来ない。道を塞がれてしまった。
だけど追われているため、足を止めることもかなわない。今、急ストップをして後ろの店員に意表を突いても、前にいるお姉さんに捕まってしまう。
「もう、コータローは駄目ね」
万策尽きたかと思われその時、遊はカートの上に立って両手を広げた。
その瞬間、棚の商品が次から次に、店員たちに覆いかぶさるように倒れていった。
「呆けてないで、今の内に逃げるわよ!」
「う、うん!」
光太郎はその不思議な現象に目を見張りながらも、カートを捨てて前に遁走した。