1話 夜逃げ
作戦結構日。
そう大それた言い方をすればかっこいいが、今からすることは村を裏切ることだ。
寝食を共にしていた家屋の中は、すでに片付けを済ませている。
深夜を回った頃から、光太郎の心拍数は刻一刻と跳ね上がっていた。
「辛気臭いよ! 大丈夫だって、おにい。準備は万端だし、門の見張りがいない時間帯もつかんでるんだから、私に任せなさいって!」
そう言う灯里はすでに人間の姿になっていて、まるでというよりどっからどう見ても女子中学生の私服姿だった。
白いフリル袖のブラウスに、ベージュを基調としたスカートのガーリー系コーデ。
一抹の明かりの下に照らされた灯里は可愛らしくて、誰が見ても河童だとは思わないだろう。
「灯里は友達多い方じゃなかったっけ?」
「そうだけど、もうお別れはこっそりしたし、もう私に後悔はないのさ! それで、おにいは誰かにお別れしたの?」
「僕、友達いないからなあ……」
乾いた笑みをこぼしながら、光太郎は指をツンツンとくっつける。
「そんなんだから友達出来ないんだよ。お別れする相手がいないとかどんな人生歩んでんの?」
「べ、別に寂しくなんて無いんだから良いんだよ……」
「そういうのはちゃんと目を合わせて言ってよね」
視線を反らして頬をかく光太郎を、灯里は悲しいものを見る目で見つめる。
今回の父親の提案で、もともと光太郎にとっては後ろ髪引かれるような後悔はなく、むしろそんな友達がいない自分に自己肯定感が下がったくらいだ。
「だからこれから友達を作れば良いんだよ! うん、おにいはちょっと気弱だから、気が強い人と仲良くなれるはずだよ!」
「気が強い人かあ……、でもちょっと怖そうだよ?」
「怖くない怖くない。おにいは頼りないけど、尻に引かれやすい方だから誰かにリードされるのは良い関係だと思うよ。あっ、今『リード』って使った。ねえねえ、これって現代に適応してるよね? ね?」
「そうなんじゃないの?」
「うぇーい、適応だよ! あっ、『適応』って使った! やったあー!」
若干、気が緩んだところで光太郎は自分の目の前に視線を向ける。
そこには父親が用意していた人間用の服が置かれてある。
「ほら、おにいってば、いつまで河童の姿のままでいる気?」
「ああ……うん」
(そうだけど、僕はやっぱり不安なんだよ……)
これまでの河童としての人生を捨てて、人間としての人生を歩むことになるのは怖いんだ。
「じゃあ、私反対側向いてるからね」
「うん」
ばさっと何かが床に落ちる音が聞こえて、衣擦れの音がした後、灯里は光太郎の人間の姿を見つめた。角度によっては緑にも見える黒髪に、気弱そうな顔は震える小鹿を彷彿させた。平凡な容姿に加えて、線の細い身体。
妹の灯里は元気溌剌なのに対して、光太郎は栄養失調気味である。
「どうかな? に、似合ってる?」
人間の姿になった恥ずかしさを紛らすように、光太郎はそう質問した。
「う~ん? おにいは、おにいって感じだよ。人間になっても弱そうだし」
「そうだよね。うん、何となく分かってたよ」
「あ、そろそろ時間だ!」
ちょっと不満そうな光太郎をよそに、灯里は月の角度から出発の合図を出した。
床に落ちた河童の衣を折り畳んでリュックの中に入れると、どちらからともなく二人の足は扉に向かっていた。
この家に別れを告げると、二人は洞窟の奥にある≪ゲート≫に向かった。
>>>>> >>>>> >>>>>
洞窟の中は水を打ったように閑散としていた。
月夜に照らされない洞窟の中は、篝火が等間隔に置かれているため松明が無くても十分だ。
それにこの作戦を決行するため、光太郎たちは≪ゲート≫がある場所までのルートを把握しており、迷うことなく目的地には着いた。
灯里の見立て通り、この時間帯は≪ゲート≫の門番が席を外しているため、あっさりとここまで来てしまった。こうも簡単に夜逃げしてもいいのかと疑うほどだ。
だが、足音が聞こえたのはその時だった。
ゆっくりと地面をこするようにこちらに近づいてくるのは、見張りの門番ではない。
「どこに行くつもり?」
少年の声がしんとした洞窟の中に反響し、その声は体温を虫歯うように冷たかった。
「卓郎君、なんでここにいるの?」
それは灯里の友人、阿部卓郎だった。ひょろ長くて、手には槍を持っている。光太郎はほどんと喋った記憶がないが、灯里とは仲良かった。
「それはこっちの質問だよ。何で君たちがここにいるんだ?」
「あ、えーと、それはその……おにい、説明してあげて」
「えっ、僕に託すのそれ?」
「お兄さん、僕は返答次第ではあなたたちを反逆者として、取るべき行動を取りますよ!」
目で凄まれて、次に手に持った槍がすこぶる強く握りしめられる。それを見る限り、本当にそのつもりのようだ。
背に浮かんだ汗が冷たいものに変わり、光太郎は咄嗟に嘘をつく。
「僕が言い出したことなんだよね、その村から出ようって!」
「それは本当なんですね?」
音もなく目の前に突き出された槍に、光太郎は乙女のようにひゃっと小さく叫んだ。
「そ、そうだけど。でも、灯里は別というか。僕が勝手にやろうって言っただけだし……」
「灯里ちゃん、それは本当の事?」
「……ううん、嘘だよ」
「あ、灯里さん?」
思わず敬語で尋ね返していたが、灯里はやっぱりダメかとため息を吐いた。光太郎は嘘をつくのが下手な大根だと思い出したのだ。
「本当はね、お父さんから提案されたんだよ。これは本当だよ」
「……そっか。でもそんなところだと思ってたよ」
突き出された槍はやり場をなくしたように垂れて、卓郎は二人を睥睨する。
「僕は村のみんなを家族だと思ってるけど、君たちは違ったみたいだね。灯里ちゃんが裏でこそこそ動いてるって気づいてたから、今日はつけさせてもらったんだ」
「てへっ、バレちゃってたみたい!」
場違いにも、灯里は舌をしてお茶目っ気のある表情をしていた。こういう緊張感のある場でそんなことを出来る灯里に、光太郎は呆れつつも感心した。
「灯里ちゃん、やっぱり村に戻る気はないの?」
「うん、無いよ。だって、私の家族はおにいとお父さんだけだもん」
さらっと答える灯里の言葉は事実そうであり、そこには一瞬の迷いさえ無かった。冷たい言葉のようにも聞こえるが、それだけ灯里は覚悟を持っているのだ。
「そっか……」
「ねえ卓郎君、私たちを止めるつもりなの?」
「うん、最初はそのつもりだったけど……。君が昔から強情だったのは知ってるからさ、それももう無理かなって思ってる」
彼の目からは敵意のようなものが消えていて、光太郎はひそかに安堵した。もしかすると卓郎は灯里にお別れをしたかっただけなのかもしれない。その理由を聞くのは野暮だ。
「酷い言い草だね」
「そうかもしれない。僕は明日の朝、君たちがこの村から抜けた事を村長に報告するつもり。だけど、人間に化けた君たちは、自分たちが河童であることを忘れないで欲しい……」
「うん……、分かった」
卓郎はくるりと踵を返すと、「さよなら灯里ちゃん」とその場に言い残した。彼が暗闇の中に消えていくのを見届けてから、灯里は光太郎の方に向き直った。
「おにい、覚悟はできてる?」
その覚悟というのは、人間の世界で暮らすことの不安に対してなのか。それともこの村に戻ってこれないけじめに対してなのか。いや、きっとその両方なのだろう。
その答えを光太郎は持ち合わせていない。
「僕は……」
「ほらおにい、行くよっ!」
自分から聞いておいて反則だよ、と言いたくなったがそれでもほっとしていた。
まるで思考を置いていくかのように、灯里に手を引かれて光太郎は走っていた。
光太郎は答えられなかった。
それだけの覚悟が本当は無かったのだ。
だけど気づいたら、≪ゲート≫の中に飛び込んでいた。