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旋律の中の灯

作者: 月城瑠癒

こんにちは、今回は短編小説を書きました。

ゆっくり読んでいただければと思います!

「危ない!」

 僕は言われた。

 呑気に後ろを振り返ると、僕は物凄い力で前方から弾き飛ばされた。何もわからないままの僕は、スローモーションで真横を走っていく大型トラックを見た。ブレーキの音とクラクションの馬鹿みたいに大きな音が大きく交差して鈍い音へ変わっていくのを聞きながら、この世の終わりを感じた。あたりは静けさに包まれた。それを見た通りすがりの大人たちはつんざくような悲鳴を上げて、慌てて道の中心に駆け寄ってきた。僕はその空気に完全に取り残されて、大人たちがナオヤを囲み、焦り、騒ぐ姿を、しりもちをついて外から、ぼうっと傍観している事しか出来なかった。

 その時、僕は何を思っただろう。何を考えただろう。目の前の光景があまりにも非現実で突然すぎて、たくさんの不安や恐怖が僕の 頭の中を占領していった。そして、何故か一時的に感情を見失ってしまった。僕はその場にいて、その光景を見ていながらも、焦る事も、近寄る事も、涙を流す事もできずに、後から来る大人たちの指示に従って、救急車に乗った。病院につくと、白衣を着た人に待合室に座っているよう言われ、僕は黙って、窓から見える病院の庭の芝生を眺めていた。

 十分もしないうちにお母さんは来て、僕はお母さんに声を掛けようとしたけど、お母さんは、僕の方を流し目で一瞬確認しただけで、直ぐに通り過ぎて奥の方へ行ってしまった。

 戻ってきたお母さんは泣いていた。お母さんは僕の隣に座ると、肩を震わせながらしゃくり泣き始めた。僕が「大丈夫?」と心配して肩に手を乗せると、お母さんは僕の方をキッと睨みつけた。

 怖かった。僕は慌ててお母さんに触れていた手を膝の上に戻して、ギュッと強く拳を握って、只管下を向いた。あまりにも怖すぎて、たまらなくなって、それ以上喋る事は出来なかった。

 スーツ姿の仕事途中だったお父さんが病院の入口から走ってくるとお母さんは再び、僕を置いて、お父さんと奥の方へ行ってしまった。

 戻ってきた二人に、何があったかなどナオヤの事は聞く事は難しかった。

 お父さんは一度職場に戻って荷物を取りにいくというから僕は、お母さんの車に乗って家へ帰った。しかし、重苦しい空気が流れるだけで、車内で僕はお母さんを元気づけるべきか励ますべきか何をするのが正解なのかがわからず、困った僕は自分の掌のシワを目でなぞって時間を潰した。

「……ナオヤは、どうなったの?」

 病院の待合室から車の中でずっと気になっていた事が、もう限界に達した。玄関のドアノブに手をかけたお母さんに恐る恐る聞いた。

「……どうしてくれるの」

そう言ってお母さんは家の中へと入ってしまった。だけど、僕は察してしまった。

 その瞬間、僕は取り返しのつかない事をしてしまったと、この時、十歳にして、ついさっきの先走った行動に対して、酷く後悔して、玄関の前で半狂乱になってしまいたいと思った。足がすくんでしまい、そのまま、僕は床に崩れ落ちた。

 僕の双子の兄、ナオヤは……今日、死んだ。

 大型トラックに跳ねられた。それも、僕をかばって、死んでいった。

 お母さんにお使いを頼まれて、晩御飯に使うひき肉を僕たちは買いに行く途中だったんだ。今日は二人の大好きなハンバーグにしてくれるってお母さんが行ってくれたから、僕ははしゃいで周りを見なかった。歩行者用の信号が赤に移り変わるのも気が付かなかった。そこが、車通りの多い大通りだという事も忘れていた。目の前の精肉店を見て先走った僕は、僕は、トラックにクラクションを鳴らされた。あまりにも吃驚して硬直してしまった体を、ナオヤは道路脇に押し飛ばして、僕の変わりとなって道路の中心に置き去りにされたんだ。

 ここまで思い出すと、僕はようやく、今日初めての涙を流した。自分のしてしまった大罪にたった今気が付いてしまったから、もう、怖くなって、怖くなって、足がすくんで僕は立っていられなくなった。一滴の涙が零れ落ちては一瞬にして玄関のコンクリートのタイルの中に染み込んでいった。

 それから、もう一滴、二滴、タイルの溝を濡らして、色を変えていった。僕が見つめるタイルの溝が全て濃い灰色に変色すると、遅れて家へ帰ってきたお父さんが玄関に入ってきた。冷たい視線が背中に突き刺さり、僕はお父さんの姿が見えなくなるまでタイルから目を離す事が出来なかった。

 こんなに涙を流しているのに、お父さんも、お母さんも一ミリも心配してくれたり、声をかけてくれる事すらしてくれない。ほんの一瞬だけ、見向きもされない自分を惨めだと思ってしまった。だけど、それは、今は思ってはいけない事なんだ。とわがままを押し殺した。リビングで声を荒げてむせび泣くお母さん。家に帰って直ぐにトイレにカギを掛けて声を殺してなくお父さん。そして玄関に膝をつき、涙でタイルを濡らした僕。

 十月二十六日午後四時。僕の家族は最大級の悲しみに包まれていた。


 三人の晩御飯はいつもより遅くなり、午後九時となり、ようやくリビングに小さな明かりが付けられた。

 夜は両親も僕もみんな会話をしようとしなかった。僕が話を振ろうにも何を話せばいい。無理に話をしてわざわざ胸を痛め苦しめる必要もない。何が起こっただとか、どうなったとか、三人ともわかってはいたけど、それは言葉にしなかった。僕は両親のどちらかが、いつもの日常のように話をしてくれるのを待つ事しか出来ずに、家にいるにもかかわらず物凄く気まずい思いをした。

 テーブルには薄味のカップ麺が三つ置かれて、オレンジ色の間接照明をテーブルの真上に一つだけぶら下げた薄暗いリビングで三人は頂きますも言わずにただ黙々と麺を啜った。

 四人掛けのテーブルに一つ余った椅子も誰も見ようとはしなかった。僕も一生懸命見ないようにカップ麺の底を凝視した。二人も空いた席をわざと見ないように、必死になって目を背けているようだった。

薄味の麺を噛み締めるたびに楽しみにしていたハンバーグを考えてしまった。ほんの数時間前まであんなにはしゃいでいたのに……。僕はまた、泣いてしまいそうになった。だけど麺を啜って必死になって泣く事を耐えた。

「ごちそうさまでした」

 まだお腹は満たされてはいなかったけど、こんな空気の中でわがままを言うわけにもいかず、小さな声で僕は言った。

 お母さんは僕の方をチラッと見て、ゴミ箱に捨てなさい。と目で合図をした。

 見ると、両親二人ともカップ麺の中にはもう麺もスープも残っていなくて、二人ともカップ麺を両手で握りしめながら呆然と底を眺めているだけだった。僕はそんな二人を見てさらに悲しくなった。

「一緒に捨てようか?」

 僕ははれ物に触る様に、二人の顔色を伺いながら、そっと声をかけると、二人はいらないと顔を伏せた。

「ナオキは部屋へ行きなさい。お母さんと話をするから」

 お父さんはそう言って話しかけた僕を軽く手であしらった。

 夜はこれ以上無いほど悲しくて、悲しいと考えて泣いているうちに、いつの間にか何が悲しいのかさえ、分からなくなってしまった。尊敬していた兄が死んでしまったから?僕に対する親の冷たい対応?それとも、夜が悲しい気分にさせているのか?

 僕は十歳の子供ながらに一晩のうちに沢山の事を考え、頭を悩ました。

 両親が僕の事を冷たくあしらう本当の理由はわかる。子供を失った空虚感から、現実と向き合う事が出来ず、僕を構う気力がないだけじゃない。

 兄のナオヤには、計り知れない程の数々の才能があったからだ。

 勉強は小学四年生にして、中学校から習うはずの因数分解を習得していたし、野球、サッカー、空手、テニス、陸上、スポーツは何をやらせても好成績で、僕の親はいつもナオヤにばかり習い事をさせた。メダルも賞状もトロフィーも家にはたくさんあるけど一つ残さず、全てナオヤの名前が刻まれていた。ナオヤは優秀だった。それに比べて、僕は、テストはいつも下の方で、運動神経もいいってわけじゃない。何か一つの特技すらもない。そしておまけに内向的な性格で友達もいない。それだったから親は僕を見放しそっちのけでナオヤを可愛がっていた。

 だけど、僕はナオヤを憎んだりしなかった。才能は全て持っていかれたけど、別に構わなかった。尊敬していた。何もかも優秀な双子の兄を心の中で自慢していたし、誇りに思っていた。

 ただ、今はナオヤを恨んだ。ハズレだった僕が生き残ったから両親も僕に冷たくするんだ。僕を何故庇ったりしたんだよ。世の中に必要とされているのは僕じゃなくてナオヤなのに。どうして死んだ。もう居ないけど、ナオヤに強く言ってやりたかった。

そして、期待されていたナオヤをはじめて羨ましく思い、憎んだ。

 僕が死んでいれば、生き残ったナオヤはどう今を過ごしていたのだろう。お母さんとお父さんの間に挟まれて、悲しみを乗り越えようと、ナオヤを励ます二人を想像すると、馬鹿馬鹿しくなってしまい、生き残った事が間違いだったのではないかと、自分自身を必要以上に強く責めていた。

 その夜は、いつまでたっても眠る事は出来なかった。

 

 僕は、通夜には出たけど、次の日の葬式には出ない事にした。

 お母さんが部屋の扉の前で言った。

「ナオキ早く準備して」

「熱がある」

「……そう」

 僕は嘘をついた。

嘘をついた理由はわからない。だけど、行きたくなかった。ナオヤの死という最悪の事態を引き起こしてしまったのは僕だし、本当は行かなければならないのだろうけど、僕の勝手なわがままで、僕はナオヤの最後を見送る事はしなかった。

 車が出発する音が外から聞こえた。一人になって僕は布団にくるまり、腑抜けになったように身動きをしなかった。僕が殺したのも同然の犯してしまった大罪が、脳内でフラッシュバックされるたび、僕は嫌悪感に押しつぶされそうになった。

 僕が死んだら良かった。

 ふと、思った。そして僕は布団を剥いで、意識朦朧になりながら、窓を見つめた。

「……死ぬの?」

 声が聞こえた。両親二人とも居ない家には僕だけしかいないはずなのに、はっきりと声が聞こえた。小さく薄っぺらい消えそうな声だった。何処か聞き覚えのある声で、僕は振り向いた。だけど、そこには誰もいなかった。

「ナオ、ヤ……?」

半信半疑で聞いた。さっきまで朦朧としていたのが嘘のように、僕は意識を集中して耳を研ぎ澄ました。恐怖を覚えるよりも強く、心臓はバクバク動き始めた。

「ナオヤ……?いるの?」

 返事がなかったから直ぐにもう一度聞いた。

 四秒待っても部屋は静かなままで僕は頭がついに可笑しくなり始めたと諦めかけた時、再び声はした。

「……いるよ」

 その声は後ろからではなく前から聞こえた。本当に目の前。きっと、ナオヤは二メートルもしない所にいる。

 ナオヤが部屋に居ると知った瞬間僕は、目頭が一気に熱くなって全身が震えた。

「ナオヤ……どうして僕なんかを庇ったりした……」

「どうしてだろうね」

 透明なナオヤは簡単に答えた。だけど、僕の質問にはっきりとは答えてくれなかった。

 その後、僕がナオヤの名前を呼んでもナオヤの返事はなかった。

 

 その夜、お母さんとお父さんが帰ってきて、僕は直ぐに階段を下りた。

 リビングには疲れた顔をした両親が椅子に座ろうとしていたところだった。

 僕は顔色を気にする事もせずに直ぐに伝えた。

「ねえ、ナオヤが今日、部屋に来たんだ」

 僕がナオヤと言ったのに反応して二人は大きく目を見開いて、僕の方を見た。

「本当だよ。声を聞いたんだよ」

 一瞬信じてくれた様子だったけど、お母さんは呆れたような口調で言った。

「ナオキ、ふざけた事言わないで。疲れているの」

 お母さんは大きな溜息をついて僕に吐き捨てるように言った。

「本当だって!」

「かまっていられないの。ナオヤがどれだけ才能があったかわかるでしょう?それなのにこんなにも早く死んでしまうなんて、可哀そうだと思わないの?」

「だって……」

 僕が再び口を開こうとすると、黙っていたお父さんが怒鳴った。

「いい加減にするんだ!兄の葬式にも出ないで、おかしな事言って親を馬鹿にして、何をしたい?」

 お父さんの顔は疲れの中に真剣な怒りが混じって、今まで見てきたお父さんの叱る表情よりも、どの鬼よりも怖く見えた。

 全て、本当の事で信じてほしかったのに、一ミリも相手にされないなんて……。

「……どうして、僕には優しくしてくれないの?ナオヤが死んで悲しいのは、僕だって一緒だよ」

 僕は震え口調で二人に反抗するように言った。

「わがまま言うな。そんな事言ったって、ナオキがもっとしっかりしていれば、今頃こんな悲しい事にはなっていなかったんだから……」

 一瞬だけ鬼よりも怖く見えたお父さんに、もう一度目をやると、お父さんは魚のような死んだ目をしていた。後、五秒も見つめ続けていたら、目の玉の奥に吸い込まれてしまいそうだった。きっと僕に失望しただろう。こんな時にも関わらず、自分の事ばかりで親を困らせて、呆れられてしまった。僕は唇を小さく噛みながら二人をじっと見た。 

 二秒の冷たい間は家族の間にできるべき間ではなかった。後にお母さんが口を開こうとして、僕はその間を切り裂くように言った。

「もし、もし僕がナオヤみたいに勉強もスポーツも出来たら、僕が優秀だと言えるようになったら、お母さんとお父さんは僕の事をナオヤを扱うように優しくしてくれる?」

 何かを言おうとしていたお母さんの口は僕が言い終えて、二秒間、ポカンと開いたままだった。

 お母さんは両手で顔を覆って「何を言うの」と溜め息交じりに答えた。

 僕は続けた。

「僕が、ナオヤのかわりになってあげるよ。ホラ、顔だって似ているんだし、後は僕が勉強もスポーツも頑張ればいいだけでしょう?そしたら僕はきっと、二人が愛したナオヤになれるはず」

 正直、僕自身も何を言っているのかはわからなかった。だけど、僕は噛む事なしにつらつらと訳もわからず言い切ってしまった。

 今まで椅子に座っていたお母さんが、物凄い勢いで椅子を引いて立ち上がった。

「簡単に言わないで!ナオヤのかわりになる?ふざけた事を言うのも大概にして……いくら双子だからって、ナオヤとナオキは全て別物よ。ナオヤと同じになるだなんて……無理に決まっているわ……」

 最後、お母さんは全ての気力を失ったかのような小さな声になった。だけど、無理と言ったのは、はっきり聞こえた。

「……む、無理じゃない。お母さんはそう思っていても良いけど、僕はなってみせるよ。だから、勉強もスポーツもいい成績を残して、僕がナオヤみたいに立派になったら、僕を認めてくれる?」

 僕の心の枝は、もう、僅かな吐息だけで折れてしまい、飛ばされてしまいそうな程、弱っていたけど、僕はなんとか耐えて、フルフルと目の下に涙を浮かべながら訴えた。一階でも瞬きをすると、大粒の涙がこぼれてしまいそうだった。そうなると、きっと歯止めが利かなくなって、声を荒げて泣いてしまうかもしれないから、一生懸命、瞬きを我慢して一点を見つめ続けた。

 そんな弱った僕を真正面から見つめながらも、お父さんは冷酷にも刺すように言い放った。

「なれるなら、なってみなさい」

 その一言には、言葉の余韻などは無かった。言葉はスッと僕の両耳を刺した。一瞬にして、移り変わる空気。まるで、冷ややかな差別を受けているような二人からの視線を感じ始めてからは、僕はもう目の前で自分を抑える事は出来なかった。

 想定外の返事に言い返す言葉や説得しようとする言葉を僕は見失い、その場で金縛りにあったかのように静止しては、静かに泣いた。その滑稽な僕の姿を二人は一瞬見たけど、声を掛けようともせずに、奥の方へ姿を消してしまった。まるで僕はこの家の邪魔者扱いだった。

『なれるなら、なって見なさい』

 頭の中でお父さんの言葉が嫌という程繰り返された。

 額をつたった冷たい線。生ぬるい部屋の空気で直ぐに乾いてしまい、その線の直線はっきりとわかった。そして、また新たな線が出来た。口の端に辿り着いた涙を舐め、しょっぱいと思うたびに、涙は続けて流れた。


土日を挟んだ月曜日。

 ナオヤが死んでから、四日が経った。

 僕はいつも通り変わらず学校へ行った。

 六時に目覚ましが鳴って、準備をして、テーブルに置かれた朝食を食べて、ランドセルを背負って家を出た。再び訪れた奇妙な程、当たり前の平日の朝で、唯一変わった事は、僕と親の間に会話が無くなった事。僕は意地を張っていただけかもしれないけど、お母さんもお父さんは僕と顔を合わせる事すら嫌がっているように見えたから、あの時以来、僕の事を嫌いになったのだと思う。だけど、僕はそんな事を思い悩んで、朝から傷を作ったり、無意味な事はしなかった。¬

 校門の前には、生徒指導の吉野先生が立っていた。レスラーみたいな体格で十分圧があるのに、声を張り上げ、挨拶をしている姿は余計暑苦しかった。その隣に並ぶ五人の眠たそうな生徒たちも、眠いのか恥ずかしいのかわからないけど、吉野先生の後に続いて小声で朝の挨拶運動をしていた。

「高橋おはよう。元気か?」

 僕の他にも校門をくぐろうとしていた生徒たちはいくらでもいたのに、吉野先生は僕に声を掛けてきた。

「おはようございます」僕はボソボソと呟くように挨拶を返した。

 僕は特に吉野先生と仲が良かった訳でもないし、寧ろ、僕は学校に行って先生や生徒と深く関わる事を避ける地味で目立たない生徒をやってきたつもりだから、吉野先生が僕の名前を呼ぶのはおかしな事だった。

 吉野先生が僕に向けた表情で僕は直ぐに察した。

 土日の中にナオヤが亡くなった事は学校に知らされたのだろう。ナオヤは僕とは正反対の性格で、明るくて、クラスの中心的な存在だった。勉強もできて、運動もできて、明るい性格の、才能に溢れたナオヤの事を、生徒は尊敬の眼差しで、先生たちは将来を期待して、特別に扱っていた。

 以前、廊下にいた隣のクラスの女子二人はこんな事を言っていた。

「双子なのに、あれだけ性格が違うなんて、可笑しな事よね。顔が同じなだけで他は全部違うわ」

「目立たない方って、すこし、気味が悪いよね」

 僕の影が薄すぎて、通り過ぎたのに二人は気づいていなかった。僕はその時、全く、その通りだよ。と心の中で思った。

 みんな、ナオキの存在が消えてしまった事を心の底から悲しんでいただろう。

 有望な双子の兄を亡くして、一人残された不出来な弟の立場を考えようか。目立たないよう肩身を狭くして学校生活を送っていたのに、今やみんなからの注目の的。吉野先生に声を掛けられてから、玄関で国語の宮野先生に挨拶をされ、廊下ですれ違った担任の石平先生に声をかけられ、一緒に校長室へ来るように言われた。校長室に入ると、校長先生がしんみりとした表情で僕の事を励ました。遅れて教室に戻ると、クラスメイトの視線は僕に集まった。ヒソヒソ話が聞こえてくる。僕が席につくと、隣の席の藤田という苗字しか知らない女子が僕に声を掛けてきた。挨拶も励ましも、声掛けも、全部、元気づけようと自らの意志でしてくれた行動として、真正面から受け取る事は難しかった。社会の礼儀というもの、一時的な気遣いではないかと僕は疑いながら過ごさざるを得なかった。

 HRが終わって、授業開始前の十分前になると、教室の居心地が悪くて、トイレへ行った。そこで、ナオヤと仲が良かった茂君と篠崎君がトイレの中で話をしているのを聞いてしまった。

「最悪だ。間違っている。ナオヤが死ぬのはあまりにも……」

茂君がボヤっと言った。

「早すぎるよな……。弟の方が死ぬのならまだしも」

篠崎君が言った。

「本当だ。生き残ったところで、何が出来るっていうんだ。いつも、お荷物だったのに、代わりに死んでやる事もできないなんて、どこまで無能なんだ」

 茂君は強く言い放った。篠崎君は茂君の豹変したようなあたり強い言い方に一瞬うろたえたように見えた。

 入口の前に立っていた僕に気が付くと、二人はわかりやすく表情を変えて、焦ってそそくさとトイレを出ていった。

 やっぱりだ。きっと、今日声を掛けてくれた人たちも心の中では茂君と篠崎君と同じような事を思っているに違いない。こんな事を考えて、僕は今、悲しいのだろうか。悔しいのだろうか。どんな気持ちになっていいのかわからなかった。それは、僕自身、何も言い返す事が出来なかったからだと思う。


 一時間目の始まりのチャイムが鳴り響いて、僕は教室に戻った。

 国語の授業で、宮野先生が入ってきた。前にしていた授業の続きから始まって、授業は比較的いつもと変わりなく進んだ。

 いつも、僕は授業の途中で居眠りをしてしまうけど、今日はしなかった。終わりのチャイムが鳴るまで僕は黒板と教科書を睨んで、先生の言う説明を一生懸命聞くようにしたら、あっという間に一時間目は終わって、授業は全く苦でなかった。その後の二時間目も、三時間目も僕は頑張った。四時間目は体育で、頑張ろうと必死になってみたけど、体力の限界には逆らえなかった。昼休みを挟んでからは気を取り直して、今日最後の授業を一生懸命聞いて過ごした。

 一日、僕は頑張った。これが普通の事だと思うのが当たり前だろうけど、今まで、学校は勉強する場でなく、時間を潰す場として考えていた僕からすれば、今日は特別頑張った日だと思う。

 なぜ僕が、今日こんなにも努力をしたのか。

 それは、お母さんとお父さんに僕自身を認めてもらうため。

 僕はいつも通りの生活に戻ったからといって、あの時の、お母さんとお父さんの言葉を忘れはしなかった。きっと、この先も、ずっと、僕に纏わりついてくるのだ。二人は口から猛毒の矢を放ち、十歳の未完成の脆弱な心に容赦なく突き刺して、何もなかったかのように去っていった。これだけ聞けば、僕の親はとんでもない人だと思われるだろうけど、二人がそう思うのも仕方のない事なんだ。二人の放った冷たい言葉は、夜を過ぎても、通学路を歩きながら、いつも通りの何でもない日の風を感じていても、一切、頭から離れてはいかなかった。

 僕がしなければいけない事なんだ。僕が引き起こしてしまったとんでもない事実だから、しっかりと罪を償うためにできる唯一の手段なんだ。

 僕は変わるんだ。ナオヤ、本当にごめんなさい。


 それから二日が経って、僕は部屋を出る前に、机の上に置いたカレンダーを捲った。

 信じたくない出来事のせいで、季節の変わり目を感じる余裕がなかった僕は、今日の朝、玄関を出て、ようやく、季節が冬になった事を実感した。乾燥した冷たい風が鼻と耳を執着的に撫でてきてヒリヒリ痛んだ。僕は両手をズボンのポケットに押し込んで歩いた。

 無意識にポケットの奥を弄りながら歩いていた僕は、右ポケットに何かある事に気が付いた。

 出てきたのはこんな紙切れだった。

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 入場料;3,000円

 開場/西ヘブンズ音楽会場

 日付/十月二十六日

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紙やティッシュを入れたままの服を洗濯すると大変な事になるけど、この紙きれは比較的頑丈だったらしく、多少よれてはいるけど、繊維はボロボロになっていなかった。だけど、紙きれに書かれていた内容は読めないに等しくなっていた。わけのわからない紙きれをジッと眺めながら僕は歩いた。

 僕とナオヤは身長も体形も、外観だけは、瓜二つと言っても過言ではないほど似ていたから、服もよく交換したりして過ごしていた。だから、僕がこの紙切れを知らないという事は、きっと、これはナオヤがこのズボンに入れっぱなしにしていたものだろう。

 校舎が見え、僕はその紙切れを再びポケットに閉まった。

 この紙切れは少し、捨てずにとっておく事にしよう。どうしてそう思ったかははっきりとはわからなかった。ナオヤが残していったものだから、大事にしようと思ったのではないという事は確かだ。ナオヤの形見を探すならナオヤの部屋を探せばいい話だ。こんな紙切れを形見にする必要はないのだから。

 はっきりとはわからなかったけど、校門をくぐるころには、僕はもう気持ちを切り替えていた。

 教室に入って、一番初めに黒板の真上にある時計を見た。時刻はまだ七時で、朝のチャイムが鳴るまで後三十分も時間があった。僕は座って、チャイムが鳴り先生が来るのを待った。

 決意は三日経っても折れてはいなかった。

 チャイムが鳴った。先生が供託の前に立つと学級委員が「起立」と言い、「おはようございます」と挨拶をした。

「おはようございます。十一月になりました。みなさん、今月も二週間後の月一テストに向けて、真面目に勉強しましょう」

 先生の言うテストとは、僕の通う小学校が独自に行っている月に一回のテストの事で、小学校で定期テストとかは珍しいものかもしれないけど、僕の通う学校にはなぜか月に一回、全教科分テストを受ける日があった。

 テストが始まるまでの二週間、僕はいつもより真面目に勉強を頑張った。おかげでテストの結果はいつもより少し自信があった。全教科のテストを終えるとどっと疲れがこみ上げてきて、僕は大きく息をついた。

 一週間後、テストの結果発表の日だった。僕は急いで順位表を見に行った。順位表の周りには同じく順位を確認している生徒ちらほらといた。それに混ざるように僕は順位表を確認しにいき、上から下へと眺めていった。

 順位は期待外れだった。順位は百五十位とかなり下で、順位に自信があったのも勉強を頑張った事と、人一倍頑張らないといけないという意気込みがあったからだと思った。自分自身の頭の弱さをいつものように実感して、僕は気落ちしてしまった。それでも、次はスポーツを頑張ったが、皆の足手まといになるだけで「とろい」と言われるまでであった。

 家へ着いて僕はただいまの挨拶もしないで、まっすぐ部屋へと向かった。部屋へ向かうとランドセルを思いきりベッドに投げつけて思った。何故こんなにも無能なのか。制反対もいいところだ。これじゃ両親も一生僕の事を褒めてはくれないだろう。そう思うと、ナオヤの身代わりになんてなれないのかもしれないと、不安になり、ベッドへ体を投げつけた。ベッドの端に足が当たり、くるぶしに鈍い痛みを感じた。その痛みは僕の弱さのように思えて、唇をきつく噛んだ。

 

 ある日、僕はいつも通りランドセルを背負い、部屋から出ようとした。

 しかし、僕の足はすくんで、部屋の扉を開ける事が出来なかった。何故だろう。いつしか、学校へ行くたびに周りの目が気になるようになり、勉学に励むたびに結果を出せずやるせない気持ちになるだけで、何の成果も得られなくなっていた。机には涙で濡れたノートがひそりと置かれてあった。そのノートはまるで僕自身のように見えた。

 お母さんが僕を呼ぶ声がする。

「ナオキ、朝ご飯よ」

 僕はそれにすら答える事が出来なかった。

 それから、僕は学校を休むようになった。

学校は嫌いだ。誰も僕を望んでいない。そう、誰も。両親も僕を望んでいない。あの時死ぬのはナオキではなく僕だったんだ。次第に自暴自棄になる僕には自分を嘆くだけで何もする事が出来なくなってしまった。

「クソッ」

 気が付けば机の周りにはちりじりに破かれたノートが置いてあった。あの時頑張ろうとテスト勉強に励んだ時に使ったノートだった。

どうやら無意識のうちにノートを破ってしまったらしい。

 ふと冷静になると喉の痛みを感じた。どうやら、昨晩は酷く叫んでいたようだ。何を考えていたのだろう。何を思っていたのだろう。ただ苦しみから逃れようと、必死にもがいていたような気がした。

 昨晩は酷かった。

 トイレへと部屋の扉を開けて一階へと降りていく途中、両親の会話が聞こえた。

「死ぬのは、ナオキじゃなく、ナオヤだったのよ」

 お母さんはそう放っていた。

 確かにそう聞き取ったんだ。

「ナオヤはなにもできやしない。大学へだって池やしないだろう。俺たちの家系はナオキに託されていたはずなのに」

 お父さんが言っていた。

 高橋家にとってはナオヤは有望で希望の証でもあった。医者や弁護士になる事も頑張ればなれただろう。将来を期待して、両親が安心しきっていた直後にあの悲劇が起きた。

 両親の会話を聞いた僕は唇をきつく締めて、必死に涙を流す事をこらえた。行こうとしていたトイレへと忍び足で向かい、用を済ませると音をたてないように静かに階段を上って部屋へ戻った。

 それから僕は、部屋へ戻って半狂乱になりながら無能さを嘆いて叫んでしまった。

 寝る間際思った。僕はもう、疲れた。

 僕は二階の窓の取っ手に触れて震えながら手を伸ばした。

 窓を開けると今まで触れてこなかった空気が僕の袖を揺らした。

 僕は二階から眺める景色を一望した。街の明かりが僕を照らしていた。まるで、この前も同じような事があったように思う。そう、そして、僕が窓に足を乗せると声が聞こえるんだ。それは、ナオキの声だ。

「待って」

 やっぱり聞こえた。

 僕の頭はついに可笑しくなったようだ。

「また、ナオヤか」

 僕は返事をした。

「聞こえているようだね」

 ナオキの声が耳に届き、僕を震わせた。

「ごめん、ナオヤ。僕はナオヤの代わりなんてなれやしなかった」

「ならなくていいさ。休んだらいい」

 薄っぺらい消えそうな声が響く。

「そんな……」

 僕はいつの間にか窓から降りるのをやめて、部屋の隅の床にへたり込んでいた。

「第三教室の……」

 ナオヤの声が再び聞こえた。

「第三教室の……音楽室へ」

 ナオヤはそう言った。

「音楽室?」

 第三教室の音楽室は閑散としている場所で、人の出入りは少なく、自殺した生徒の霊が潜んでいるとのうわさもあった。午後七時ピアノが鳴る。曲名は……確かジムノペディだ。そんな場所へナオヤは僕に行けと言っているのか?

「僕はそこへ行ったらいいの?何かあるの?」

 僕はナオヤに向かって聞いた。

「毎日通うように」

「毎日?」

 ナオヤの声はそこでプツン途切れてしまった。

 僕が返事を待っても帰ってくる事はなかった。僕はジムノペディの旋律を思い浮かべた。なんだか切なく悲しい曲だ。十月二十六日の三人でカップ麺を啜った夜に流れていても不思議ではなさそうだった。重苦しく、奇妙で……。

 

 それから一週間後、僕は学校を休んでいたが、ランドセルを背負い、部屋の扉を開ける事を決心した。

 久々に触れた外の風は、もうとっくに十二月の風だった。雪が降らないのはこの町の地形と一の問題で、十二月になっても初雪が観測されないのも不思議ではなかった。代わりに、刺さるような冷えた空気が僕の耳と鼻を赤く染めた。マフラーでもして来ればよかったとふと僕は思ったが、外に出てからでは遅かった。

 十一月初めの頃に行われていた吉野先生が仕切る挨拶運動はもうとっくに終わっていたようだ。校舎前に着くと登校をしている生徒がちらほらと通り過ぎていくだけで、吉野先生の暑苦しい声量も姿もなかった。流石に十二月の冷え込みには体も持たなかったようだ。

僕は身震いをして、校舎の中へと入っていった。校舎の中へ入ると外と中の温度差で少しだけ温かみを感じた。僕はいつも通り、下駄箱から上靴を取り出し、教室へと向かった。

扉を開けると、クラスメイトの視線が一気に僕に集まった。

 ひそひそと声が聞こえた。

「あら、珍しい」

「ナオヤ……じゃないな、弟だ」

「影が薄いからわからなかった」

 皆の声は僅かながらにも僕の耳に響いていた。

 また、あの屈辱さを感じなければいけないのか。ふと思ったが、ナオヤの言葉で冷静さを保った。

 授業を終え、放課後になった。僕は教科書をしまい、ランドセルを背負うと教室を出て、第三教室の音楽室へと向かった。

 教室から第三教室の音楽室までの道のりは、もの凄く迷路で辿り着くまでに十五分もかかってしまったそれも、三つに分かれた校舎の一番奥にある、僅かな細道を抜けた場所にある一室だったからだ。

 僕は音楽室の中へと入った。

 ジムノペディの旋律も聞こえないし、自殺を図った亡霊の姿も見えやしなかった。あったのは、ただ一つのピアノと二十却程の椅子。古びた木とホコリの混じった香ばしい匂いがほんのり漂っていた。

 ふとピアノの椅子に座り、ポーンと人差し指で音を鳴らしてみた。それは何故か、とても勇気がいる仕草で、この音と同時に何かの歯車が動き出したような気がした。

 十二月の空気で冷たく湿った空気を纏った教室に再びピアノの音が鳴り響いた。それは、奇麗で、美しく、濁りのない音だった。

 気が付けば僕は眠っていたようだ。「毎日来るように」とナオヤに言われ、僕は少しだけこの音楽室で何かが起こるのかと期待して待っていた。教室の隅にある机で居眠りをしていると、奇麗な旋律が聞こえてきた。僕はその旋律で目を覚ました。

ジムノペディだ。時計の針は丁度七時を指していた。あの噂は本当だった。

 僕はピアノに目を向けた。その美しい旋律を奏でていたのは一人の先生だった。元音楽の先生、宮沢先生だった。宮沢先生は年齢と共に音楽の先生をやめ今は現音楽の先生、田代先生のサポートをしている小さなおじいさんだった。

 僕はジムノペディの旋律を奏でる宮沢先生の姿がとても儚く見えた。小さな体を旋律と共にゆっくり揺らして、目を閉じてその旋律を奏でる。流れる旋律はとても奇麗で美しかった。

「ジムノペディ……」

 僕は寝ぼけた口調で呟いた。

「どうやら目覚めたようだね、少年」

 居眠りをしていた僕に宮沢先生は答えた。

「先生は、どうしてここへ……」

 僕は言った。

「とても気に入っている曲でね。私は毎日七時に弾きに来るんだ」 

「とても素敵な演奏でした」

 僕は言った。

「ありがとう。どうだい、少年も弾いてみるかい?」

 宮沢先生が手招きをして僕を誘った。

「僕なんか弾けないです」

 僕は宮沢先生に向かって言った。

 一度もピアノに触れてこなかったんだ。全てにおいて無能な僕なんだから、ピアノもきっと出来ないだろうと思った。

「さあ、座ってみなさい」

 それでも宮沢先生は誘ってきた。

 僕は仕方なくピアノの椅子に座り、さっき、ピアノを鳴らしたようにポーンと人差し指で音を鳴らしてみた。一瞬の間を置いて、宮沢先生に「無理ですよ」と顔を向けた。

「続けて」

 宮沢先生は穏やかな口調で言った。

 僕は再びピアノに触れた。次は両手でピアノを撫でるようにゆっくりと音を鳴らした。

不思議な事が起こった。僕は、ついさっき聞いたジムノペディを弾き始めていた。

「ほう、やはり」

 宮沢先生は感心したように呟いた。

「え……今、僕が弾いたんですか?」

 僕自身も驚きだった。

 自分が弾いた事が信じられなくて僕は指を止めて硬直したまま、宮沢先生に聞いた。「ああ、見事だった。少年はジムノペディを弾いた事があるのかい?」

「ないです。でも、曲は何回か聞いていました」

 僕は宮沢先生の質問に答えた。

「少年は、絶対音感を持っているようだね」

 宮沢先生は感心しているようで、大きな拍手をした。

「絶対音感?」

 僕は訪ねた。

「一瞬で、音を分析して即興で演奏する事が出来る能力だよ」

 宮沢先生が答えた。

「僕にそんな能力が……」

「もう一度、弾いてみなさい」

 僕は宮沢先生に言われた通りもう一度ジムノペディを弾いた。それは、多少のぎこちなさはあったが、しっかりとした旋律になっていた。気が付けば僕は夢中になってピアノを弾いていた。緊張から噴き出た手の汗で一つ音を外したのにも気付かずに夢中になっていたようだ。

「少年、明日も私に聴かせてくれないかい?」

 宮沢先生は僕の演奏を気に入ってくれたようだ。

「はい、授業が終わったらまた来ます」

 僕は答えた。

「少年の名前を聞いてもいいかな」

 僕は宮沢先生に自己紹介をしていなかった事を思い出し、慌てて名前を名乗った。

「高橋ナオキです。ナオヤの事は知っていますか?」

「知っているよ。お兄さんの事はとても遺憾だろう」

 兄の出来事は宮沢先生の耳にも届いていたようだ。

「僕、兄に言われたんです。ここへ毎日行くように、と」

 僕は信じてもらえるかわからなかったが、取り敢えず口にしてみた。

「それは、きっと奇跡ではなく運命に近いと思うなぁ、少年」

 宮沢先生は信じてくれた。

 僕は明日もここへ来ようと決意した。そして、僕にとってはピアノと言う武器があった事に気が付いた。これならいけるかもしれないと少しだけ自身が付いた。


 それから、僕は毎日第三教室の音楽室へと足を運ぶようになり、半年が経った。

「今日はカノンを教えよう」 

 宮沢先生はそう言い一回弾いて見せると、音を分析した僕は続いて弾く事が出来た。

 ピアノはとても楽しい。こんなに楽しいのは初めてだ。

 次の日は宮沢先生はベルガマスク組曲の月の光を教えてくれた。月の光はゆっくりとしたメロディーだが、音を外さないようにリズムを合わせて、慎重に弾く事がキーだった。途中から川を流れていくような清浄なメロディーがとても好きで、その日、僕は何度も月の光を演奏した。そして、七時まで練習すると、締めくくるように宮沢先生のジムノペディが始まっていった。どうやら宮沢先生はジムノペディを弾かないと気が済まないらしい。

 次第に、帰宅時間は四時だったのが七時半と遅くなっていき、両親は非行に走ったと僕を蔑んだ。

「ナオキは私たちを困らせてばかりでどうしてくれるの」

 お母さんが僕に向かってぶっきらぼうに放った。

「違うんだ。僕、ピアノを始めたんだよ」

 僕は抗うように答えた。

「ピアノだなんて、ナオキはもっと勉強をして、いい大学へ行く事だけを考えればいい」

 お父さんが放った。

 僕はピアノの事を信じてくれなかった事、ピアノの事を受け入れてもらえなかった事がとてもショックだった。僕にとってピアノは枝の折れそうな心の唯一の武器だった。両親に信じてもらえなくてもいい。僕はピアノと宮沢先生だけを頼りにしていよう。そう思うと、両親の言葉で散り散りになった心も少しは保っている事ができた。

 

 ある日、宮沢先生は言った。

「少年、コンクールに出てみてはどうかね」 

 聞くと、半年後隣町でピアノのコンクールが開催されるとの事だった。僕は出たいと思ったが日にちが厄介だった。

 そのコンクールが開催される日付は十月二十六日。そう、ナオヤの一周忌の日だった。

「少しだけ待ってください」

 僕の答えはグレーとなった。

 そして、家へ着いて部屋へ向かい、僕は考えた。そして、ふと、思い出したかのように僕は机の中を漁り始めた。出てきたのは一枚の紙きれだった。あの時、ポケットから取り出した紙きれはまだ机の中に眠っていた。

 //////

 入場料;3,000円

 開場/西ヘブンズ音楽会場

 日付/十月二十六日

 //////

 日付を確認して僕はハッと気が付いた。

 これは宮沢先生の言っていたコンクールのチケットだ。

 ナオヤは一人でこのコンクールに出るつもりだったんだ。

「やっと、気が付いてくれたようだね」

 僕の耳に囁きが聞こえた。

 それはナオヤの声だった。

「また、ナオヤ?」

 僕はその声に訪ねたけど、返答はなかった。

 次の日、真っ先に宮沢先生の所へ向かい、僕は訪ねた。

「兄も、コンクールに出るつもりだったんですか?」

 宮沢先生は一切ぶれる事なく穏やかな口調で言った。

「ああ、しかし、ナオヤ君はピアノが苦手でね、コンクールに出る事を渋っていたんだ。ね。止めはしなかったが、もう少し努力するようにと私はそう付け加えたんだ」

 そう伝えられ、僕はいつかのナオヤの声を思い出した。

 ナオヤはピアノが苦手で、代わりに僕に才能がある事を見抜いていたんだ。そこで、第三教室の音楽室へ行くようにと言ったんだろう。勉強もスポーツも歌も出来たナオヤだったが、唯一の弱点はピアノだったようだ。

「僕、コンクールに出ます」

 僕は決意を固め、コンクールに出る事にした。

「それは良かった。それじゃあ、放課後いつもの場所で」

 宮沢先生はそう言うと、どこかへと行ってしまった。

 放課後、僕はいつもの場所、第三教室の音楽室へと向かった。いつもより早く着いた僕は宮沢先生の真似をするようにジムノペディを弾いていた。

 後になって、音楽室へと入ってきた宮沢先生は僕に向かって言った。

「少年は、私のコピーもできるようになっていたのだね」

 宮沢先生は感心しながらも笑っていた。

「僕、ジムノペディを弾きたいです」

 最初に聞いた宮沢先生のジムノペディが気に入っていて、印象的だったから僕はそう言った。

「いや、別の曲にしよう」

 しかし、宮沢先生は僕の提案を断った。 

「どうしてですか。僕は先生の弾くジムノペディが印象的でとても好きなのに」

「少年の弾くべき曲はきっと、カノンだろう」

 宮沢先生はゆっくりと口にした。

「どうして、カノンなんですか?」

 僕は訪ねた。

「生前、少年のお兄さんがずっと練習していたのさ」

 それを聞いて、僕は思った。

 そうか、ナオヤが出来なかったピアノも出来るのだから、ナオヤの練習していたカノンならもっと上手く弾けるかもしれないんだ。ナオヤと一緒にコンクールへ出て、二人でハーモニーを奏でてほしいと宮沢先生はきっと思っているんだ。

「わかりました」

 それから僕は毎日、何回もカノンを弾いた。一ヶ月も弾き続けると手首が腱鞘炎になりかけた。だが、僕は弾く事を止めず、只管練習をした。

 カノン、それは落ち着いたメロディーで涼しい風が吹いて楽譜を一枚吸い取ってしまうような曲だ。どの季節にも似合う心地の良い空気を持って、静かな風に溶け込んでしまうような旋律に、僕は演奏するたびに惹かれていった。 

 きっと、ナオヤもそんな気分で弾いていたのだろう。僕はナオヤとシンクロした気持ちで初めてナオヤと肩を並べる事が出来たととても嬉しく思い、演奏の回数が増えるたび、僕の心が満たされた。


「来週、ピアノのコンクールがあるんだ。良かったらお母さんもお父さんも見に来てよ」

 お母さんの表情が険しくなった。

「ナオキ、来週はナオヤの一周忌よ」

 お父さんが続けて言った。

「もしかしてナオキは出ないつもりなのか?」

 僕はその返答に少し迷ったがコンクールに出る決意は変わらなかった。

 僕とナオヤで一緒に出るコンクールなのだから。

「うん。大事なコンクールなんだ」

「ナオヤの為に何もしてやれないなんて」

「少しだけでいいんだ」

 ほんの少しだけでも良いから、僕の演奏を聴いてほしかった。

 しかし、両親は「行かない」と僕をあしらった。

 

 十月二十六日、コンクール当日、僕はいつもより早く目を覚ました。時計の針を見るとまだ、六時も回っていなかった。窓の外を眺めると、雪が降っていた。十月だというのに滅多に降らない雪がちらほらと舞い散るのを眺めていた。

 今日は、僕にとって大切な日になるだろう。

コンクールへの意気込みで僕は少しだけ緊張して体を震わせた。

 僕は一足先に高橋家を出て、隣町へ向かうバスへ乗った。バスに揺られながらも失敗しないかと心配になりながら、手で旋律を奏でるふりをして何度も確認した。

 気が付けば隣町にはとっくに着いていて、時間の流れの速さを感じた。

 西ヘブンズ音楽会場と書かれたボードの前には宮沢先生の姿があった。予定よりも随分前だったけど、宮沢先生は待っていたよというように僕にニッコリ笑顔を見せた。

「両親は来てくれるのかい?」

 宮沢先生の言葉で僕は都合の悪いような表情を浮かべた。

「それが、来られないって……仕方ないです」

 僕は苦笑いをしながら答えた。

「そうか、それは残念だ。でも私がしっかり見ているよ。何も考えず頑張ればいい」

 宮沢先生はそう言って僕の背中を押してくれた。

「ありがとうございます」

 僕は今、一瞬だけ宮沢先生の弱弱しい小さな姿がとても大きく見えたような気がした。


 本番までまだ、一時間とあった。なので、僕は一室を借りてピアノの予行練習をしていた。ナオヤの姿が思い浮かぶ。ごめん、ナオヤ。一回忌も行けなくて。でも僕はこうしてナオヤの夢を叶えたいんだ。ナオヤの為にも僕は頑張るよ。

 その時のカノンはとても力が籠っているような気がして、意志の強さが見受けられた。

「さて、いよいよだ」

 宮沢先生はノックをして部屋の扉を開けると僕に向かって言った。

 手汗でびっしょりだった手を僕は袖で拭い力強い声で返事をした。

「番号、十三番」

 僕の持つ番号は十五番だった。

 遠くから聞こえる出演者の番号と名前がより一層僕の緊張を高めていった。

「番号、十四番」

 次だ。僕は拳を握った。

 演奏者のピアノはとても上手で、僕は少しだけ不安になった。そんな僕を見て斜め後ろに佇む宮沢先生が言った。

「少年、好きなように羽ばたくように弾けばいい」

 それを聞いて、僕は再びぐっと、強く拳を握った。

「落ち着いて、いつものように」

「番号、十五番、高橋ナオキ君」

 名前が呼ばれる。

 僕は堂々とステージへと向かい、丁寧にお辞儀をして、ゆっくりと椅子に座った。

 五秒程の沈黙の後、僕はピアノのキーにゆっくりと触れ、音を奏でた。

 僕は宮沢先生に言われた通り、羽ばたくように旋律を奏でていった。それは今までに無かった気持ちよさだった。僕にとっての武器はカノンという涼しげな曲の中に勇気や、みなぎる力を与えてくれた。本当に羽ばたいていきそうな心地よさで、僕は何となく空でのんびり飛んでいる鳥を思い浮かべていた。

 僕はあっという間に弾き終えた。とても早かったような気がする。

 再び五秒程の沈黙が現れ、それを切り裂くようにステージ上に向けて歓声が向けられた。

 僕はやり切ったと、丁寧にお辞儀をして、観客席を一望した。それから僕はステージから去っていこうとしたが、僕は観客席を二度見した。幻覚を見たと思った。

 観客席の中に涙を流す両親の姿が見えた。

 今日はナオヤの一回忌で、来ないと言って

いいたのに、どうして、両親がいるんだ。そして、どうして涙を流しているのだろう。

 ステージ上でたじろいでしまいそうになったが、それを抑えて急いでステージ上から僕は去る事にした。

「とても良かった」

 宮沢先生が僕を褒め称えた。

「ありがとうございます」

 僕は再び口にした。

「観客席に両親の姿が見えたような……」

「そのようだね。私もさっき挨拶をしてきたんだ」

 宮沢先生は優しく微笑んだ。

「両親は何故ここへ?」

「私にもわからない。後で話してみると良い」

 結果が出るまで僕はとても困惑していた。まだ旋律を奏でていると思い込んでいる指がずっと動いていた。

「表彰者は、十五番、高橋ナオキ君です」

 僕は優勝した。

 観客席に居た、両親はまた泣いていた。

 僕はようやく認められたんだ。とてつもない喜びがこみ上げてきて、僕は飛んで走り回りたかった。しかし、優勝者の風格を保とうと、小刻みに震えながら直立していた。トロフィーを受け取り、観客席に一礼をして僕はステージを後にした。


 会場の玄関で待ち受けていたのは両親だった。僕は足早に両親の元へと向かった。

「どうして来てくれたの?」   

 僕は急いで訪ねた。

 お母さんは不思議な事を言い始めた。

「これがあったのよ」

 そう言ってお母さんが見せてきたのは一枚の手紙だった。

 ――ナオキのコンクールに行ってほしい

   僕もその会場へ行く

   場所は、西ヘブンズ音楽会場――

「始めはナオキの悪戯かと思ったの。でも、この文字はナオヤの文字ととても、似ていて……」

「私たちは信じるしかなかった」

 お父さんが付け加えるように言った。

 そして、再び口にした。

「ナオヤはずっとこの時を待っていたようだ」

 お父さんが僕の肩を抱いた。

『おめでとう』

 両親が僕を褒めてくれた。本当に久しぶりに褒めてくれたように思う。

 ようやく認められたんだ。涙腺が緩んで感極まって思わず声を荒げて僕は泣いてしまった。

 僕たち三人は抱きしめあい、今まで触れてこなかった家族の絆を再び深めていくと決意した。

 ナオヤの死に触れてこなかったこの日々も、ナオキの代わりになろうと必死になった日々も、全部ゼロから僕たちはスタートしていくんだ。現実と上手く向き合って、今を生きる。

 僕たち三人の間に小さな光が灯された。

「カノンを弾いてくれてありがとう」

 その光から声が聞こえた。きっとナオヤの魂だ。

 両親にもその声は聞こえていたようだ。  

 僕たちは目を合わせ、光を抱きしめた。

 光は羽ばたくように僕たち家族の気持ちを乗せて、上へと昇って行った。それは白鳥のように美しく。


 その後、僕たちは宮沢先生に礼を言い、会場を後にすると、家族三人でナオヤの墓へ行った。

「もっと早く気が付けたら良かった。本当にすまない」

 お父さんが僕に向けて深く頭を下げた。

「僕は今日、見に来てくれた事凄く嬉しいよ」

「素晴らしい演奏だったわ」

 お母さんが僕に向けて笑顔を見せてくれたのは本当に久しぶりの事だった。

 そして、お父さんも僕に笑顔をくれた。僕は「ありがとう」と言うと、再び泣いてしまった。

 その涙は、嬉し涙で、あの時、初めに流した悔し涙とは全くの別物だった。

 僕にとっての最大の武器はピアノ。そして、さらに家族の絆が刻まれたんだ。

 ようやく。 

 

 ―そして、僕は明日からもこれからもピアノを弾いて成長する― 

    

 



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