橋間わかば1
橋間わかばはバイト先の喫茶店の窓から外を見ていた。平日の四時過ぎ。一番暇な時間帯だ。
乃木ファンの迷惑客が来なくなってから、平和そのものだ。来なくなっていた常連客も戻り、客入りはそこそこ。
「あー、掃除しないと」
「清掃中か」
間髪入れずに聞こえた声に振り返る。雨の音で気づかなかった。ドアが開いてベルがなっている。入ってきたのは、
「菅谷!? なんでいるのよ!?」
「お前、仕事中だろ? 客にその質問はないだろ」
「あ、いや。いらっしゃいませ……。お好きな席へどうぞ」
「ああ」
休憩室での一件から、奏介と会うのは初めてだ。
(いくら精神的に参ってたからってこいつに慰めてもらうとか。でも)
優しかった。落ち着くまで、ちゃんとそばにいてくれたのだ。
はっと我に返って顔を上げると、奏介が複雑そうな顔でこちらを見ていた。
「な、何よ」
「仕事、した方が良くないか?」
奏介とはいえ、水さえ出していないことに気づいた。
すぐに用意して運び、注文を取ってアイスコーヒーを用意する。
「彼が橋間さんの彼氏?」
「え!?」
カウンター奥の調理スペースにて。仕込みをしていた店長が声をかけてくる。
「いや、まさか。乃木さんですか? 誤解なんですよ……」
「そう? この前色々あったって聞いてたから」
何を言っても誤解を解ける気がしない。
「あ、店長、今日のオレンジのケーキってまだありましたっけ」
「後三個残ってるよ」
「一つ買います」
トレーにアイスコーヒーとケーキを乗せたわかばは奏介の席へと運んだ。
「お待たせしました」
「ああ」
奏介は目の前に置かれたケーキに目を瞬かせた。
「頼んでないけど」
「この前のお礼。甘い物、嫌いじゃなかったでしょ?」
「お礼? この前って、ああ」
忘れていたらしい。それか、お礼をされるほどでもないと思ったか。彼の性格からして後者だろう。
「もう大丈夫なのか?」
「あー、うん。来なくなったし、あいつら」
「そっか。……この前は悪かったな」
「え?」
謎に謝られて戸惑う。
「いや、恋人でもない男にああいう慰められ方されたくなかっただろ?」
「!」
恋人という単語に顔が一気に熱くなる。
「わ、わたし達、こ、恋人じゃないでしょ!?」
「話聞いてたか……?」
わかばははっとする。
「いや、その……あの時は、わたしも精神的に参ってた感じあるし、別にむしろありがたかったわよ」
「あいつら、調子に乗って箍が外れてたしな。ていうか、うぜぇんだよ、オタク! って言ってやれば良かったのに。高校の頃俺に言ったように」
「う…………。お、思い出したくないわ」
あまり自覚はないが、相当なトラウマなのだ。
「まぁ、元気そうでよかったよ。あの時は橋間らしくなかったし」
「……前から思ってたけど、あんたってほんと優しいわよね。見た目陰キャオタクでコミュ障みたいなのに」
「付き合いも長くなってきたし、友達だからな。それと、やっぱお前のこと締めるわ。夜道に気をつけろよ」
「夜道!? ちょ、ちょっと口が滑っただけじゃない! それに、見た目をちゃんとすれば、ましになるって」
「なんで他人の目を気にして格好を変えなきゃならないんだよ。てか、いい加減学習しろ」
「えー……?」
と、店長が出てきた。
「橋間さん、今日は上がって大丈夫だよ。お客さん来ないし、早めにお店閉めるから」
「え、でも」
「乃木さんにも連絡済だよ。だから、君が送ってあげてくれるかな?」
いつかのように、わかばと帰ることにした。
もう少しで止みそうな雨の中、お互いに傘をして並んで歩く。
「傘、持ってたのね」
「ん? ああ、でも雨が強かったから雨宿りのつもりで」
「そう」
「俺の傘、入るか?」
「え!? なんでよ、突然」
「いや、折り畳み傘だろ? 肩濡れてるぞ」
「ああ、小学生の弟の持ってきちゃったみたいで」
流石に肩が寒くなってきた。
「……良いの?」
「ああ、どうせ家まで送るしな」
相合い傘。そんな風に思ってしまう自分に恥ずかしくなる。
(今日はなんか恋愛脳ね)
まさかの奏介相手に。わかばは苦笑を浮かべた。