序章Ⅲ
星界学によればこの世界は二つに分かれている。
魔界と人界、この二つの世界をまとめて星界と呼ぶが、むかしむかしは多くの果てによって互いの存在も知らぬまま、干渉もなく完全に分かたれていた。
ある時、大きくなだらかな丘の上で、一人の人間が流れ星に願い、その悲劇を愛した世界の意思は、計りきれない一人の願いを、数え切れない程の星をもって答えて、果ての大海に浮かぶ島を両界を繋ぐ門とし、人界人口の八割が星を──力を持つようになった。
星歴以前のこの現象は、星界歴史の始まりとされ、”星願の丘”と呼ばれ語り継がれることになるが、同時に世界の意思の原罪としても知られることにもなる。
地面から曲がりくねって生えた木々の隙間を駆ける角の生えた生き物が、ふと足を止めて見上げると、真っ直ぐにそびえ立つ大樹の中から軽やかで重たい、聞いたこともないような囀りが降ってきた。この湾曲した枝が零す暖かな木漏れ日の中、平穏で異様なこの光景を目にした者は、人界魔界含めた星界全てを探しても見つからないだろう。
果ての山脈 オルクス地方 最奥部に位置するこの森は通称”最果ての森”と呼ばれ、その特殊な磁場をもってあらゆる星界の生き物を拒み続けている。
類似する地は何処にもなく、足を踏み入れるどころか辿りつこうにも、周りを囲う果ての性質上、そこまでの道のりに規則性は皆無であるため、あらゆる冒険家や学園都市の黒猫に称号者、時には大国が軍を編成しその発見、調査を計画したがそのどれもが様々な形で失敗に終わった。
ただ、過去に最果ての森まで辿り着き、木々に覆われ生まれた暗闇の奥を、運良く目にしたとある冒険学者は言った。
「神代はまだ続いている」
奇妙な事にこの森に関する歴史、示唆するような伝説や御伽噺すら何処にも存在せず、いつからあるのか、その成り立ちも生態系も全てが不明瞭なまま、世界の片隅に佇んでいる。
穏やかな午後が流れる中、突如として地を揺るがす爆発音が轟く。木に寄り添って休んでいた角の生えた生き物は、すぐに立ち上がって走り去り、大樹の囀りは次の舞台へと飛び去った。
そうして数秒後、砂や枝葉を巻き込んだ突風が木々を僅かに削り吹き荒れ落ち着くと、間を置かずに第二波が威力を増して暴れた。
その後数度と続くと、完全な静寂が訪れる。だが、生き物達は何かを警戒するように息を潜めて、木漏れ日の中には迷子になった枝葉が横たわるだけだった。
突風の発生源では大きな丸い耳を持った魔族が、歩きづらいだろう履物をパカパカ鳴らして、簡素な家に入っていった。その背後では真っ黒な髪をした酷くやせ細った人間が、ボロボロの簡素な布を纏って微塵も動かなくなっており、そのすぐ近くの大樹の後ろから、混乱のまま見つめて立ち尽くす少年がいた。
「ホラ、13842、13840を救いたいならキミはそっちの小さいのを調べるんだ。その後はそこに転がったサンプルを運ぶ準備ネ」
扉を開けて振り返った魔族は、丸い鼻に髭を生やしたネズミの特徴が色濃く出ている魔族のようだった。数字で呼ばれた少年ははっとすると、もう一度息絶えたものを見て目を瞑ると、歩き始める。
少年が物置の扉に手をかけるのを見届けるとネズミの魔族は家に入り、ゆっくりと全体を眺めて大きな舌打ちをした。
「やはりあの生物はとっくに死んだようだネ。子でも産んでいないカナ。やはり人間が関わるべきではなかったヨ」
到底独り言とは思えない、誰かと会話をするような声量でゆったりと口にすると、パカパカと中を物色し始める。
リビングのような場所にテーブルと椅子はあるものの、酷く汚れた鍋と一本の匙が転がっていた。蓋を掴まずともズレた隙間からは、腐りきってはいないがまず口にしないであろう臭いが漏れ出ている。
シンクと呼べるようなものではなかったが、大きな石で出来たツボのようなものにはギリギリ飲めそうな水が入っていた。家主を無くした今、数日もかからず腐り、生命の苗床となるだろう。この未開の地にどのような生物が生まれるのか観察したいところであるが、残念ながらこの最果てで実行可能なたった一人の魔法使いは、この魔族が殺した。
あとどのくらいこの状態が続くかは分からないが、この魔族と少年が何事もなく最果てに今も立っていることが出来るのも、魔法の残留物のおかげに他ならなかった。
「ササクラ トウマ、本当に羨ましい限りだヨ。魔法使いと呼ばれた磁力の力。まさか何年も引きこもるのに使える程なんてネ。死体になってもこの影響力、神代にも居なかったんじゃないカナ」
そうしてこの男は”唯一無二の生物”を無駄死にさせた。
この魔族にとってそれはここ数百年で最も腸が煮えくり返る事実であり、敗北であった。そしてそれが今やたった数発で倒れるような雑魚になり下がっていることも、耐え難い屈辱であり、想定よりもその腸の熱をぶつけることが出来ず苛立つ様は、子供の癇癪よりも酷い。
その頃少年は物置の”下”を見つけ、震えていた。開けた扉から差し込む光だけを頼りに、何も無いだろうと、あってくれるなと祈るような気持ちで、あの魔族が欲しがるものがあるかと探した結果、少年は木箱の下に格子状の窓のようなものとその下の空間を見つけたのだ。
震える足を折って覗き込むと、明かりのひとつも無い部屋で何者かが倒れていた。大きさからして少年とあまり変わらない年頃なのだろうか、考えるだけでゾッとした。
少年の予想が正しければ、倒れている人間はあのネズミの魔族が異様に固執している実験対象の子になる。御伽噺の本でも読んだことのないような地で、何故子供が、居るんだろう。なんでこんな場所で、倒れて、まるで無かったことにするかのように、置いておかれてるのだろうか。
身体は震えて居たが、少年の心の内は冷静だった。ドクドクとゆっくり強く流れる心臓の声も遠く、冷えきった手足と熱いこめかみの温度差が、心と身体をバラバラにしたようだった。
隠さなければ、絶対に見つかってはいけない。
父親だろう大人を見殺しにした上、このままこの星界の生き物を拒絶する地に、意識のない自分と変わらない子供を放って生きていられるのかは分からないが、魔族の様子を見るに、ここで終わる方がずっといいはずだ。
ごめんなさいと、口だけで言って木箱を戻した。どうか、見つかりませんように。
魔族に言われた通りに、遺体を運ぶため少年ははそのまま物置小屋を出た。
罪の意識で引き裂かれるような心臓を、息を吐いて撫でる。彼はこの子の親を悼むことも出来ないが、せめてこのまま、この地獄で安らかに。
数刻後、最果ての森で一人の男──コッロシオン=テオドールは立ち尽くしていた。
焦げ茶色の酷くくせっ毛で、重たい髪の間から何重にも円を重ねる大きく窪んだ目が、爆発の跡とそこにある夥しい量の血痕を捉えて動かない。ただ、間に合わなかったのだと、それだけを理解して、頭の奥が自責に酷く殴られ割れるようだ。
笹倉斗真、七年前に突如として消えた魔法使い。雷神の称号者が現れるまでは史上最年少で称号者になり、数百年振りの称号を作らせた人間だった。
七年前の失踪から、任務で赴く多くの土地で探していたが、まさか、本当に最果てに居るとは思わなかったのだ。
酷く掠れた声が、乾いてこびり付いた血に落とされる。
貴方のような人でも殺せば死ぬのか。
テオドールにとって魔法使いは、どんな生き物よりも強かったように思う。生きる伝説、ルル=トールですら彼には敵わないだろう。彼が本気になれば、学園都市もあの魔族も、世界中を敵に回したとしても、きっと不老不死の怪物ですら殺せた。そんな男が、殺された。相手はあのネズミの皮を被ったバケモノ以外にありえない。もっと早く来ていれば。あぁでも、自分がいたところで逃げられなかっただろう。
それに、バケモノが此処に来た原因は恐らく自分だ。死んだのも、自分だ。
此処に彼がいないのであれば、本来自分が今この森に立っていることもおかしいはずだ。仕組みは全くもって分からないが、相当の負荷をかけて星界の生き物が入れるようにしていた。そこをあのバケモノが、
そこまで考えてコッロシオンはふと思った。発動者の遺体もなければ、血の乾き方からして半日近く経過しているのに力の残留効果も消えているはず、なのになぜ今も人間が入れるようになっているのか、と。
「まだ生きてる……?そうだ、あの人が死ぬわけない、まだ、まだ生きているはずだ、せんぱい、せんぱいっ!」
ふらふらとした足取りはそのままに駆けて、開け放たれた家に入る。酷く荒れた様子を気に留めることもせず、無邪気な子供の様に、焦りで縺れる舌をかみそうになりながら何度もせんぱい、と呼びかけて記憶の中の人影を探す。
年齢不詳の童顔が絶やすことのなかった薄い微笑みと、適当なTシャツとズボンにマントを羽織っただけの軽装。一切の興味が無いにも関わらず、何故称号者になったのか、今度こそ答えてくれるだろうか?
そうやって嵐の様に、机の下も箱の中も全てひっくり返して探し回ってどれ程経ったか、毛布を捲る五度目の手をぱたりと降ろして、コッロシオンは動かなくなった。
「……死んだに決まってる」
何処にも笹倉斗真は居なかった。
残ったのは更に荒れた部屋と、俯きながら、まるで吊られたように立ち尽くす男だけだ。
開け放たれたままの扉から入ってきたのか、淡い翠の縁に様々な色をアゲハのように乗せた6枚羽を持つ蝶に似た生き物が、コッロシオンの目の前まで飛んできた。
軌道の読めない、摩訶不思議な飛び方をする綺麗な蝶は、コッロシオンがそっと手を伸ばすと、キュゥ、と微かに鳴いて、その指先に止まった。そうして、瞬きの後に腐り落ちた。
(最果ての蝶も腐るんですね、先輩)
窓の外を眺めると、物置小屋が見える。胸が踊るような期待もないまま部屋を出て、小屋の扉に手を掛けて、風に攫われた枯葉が引き止めるように手の甲に乗って、そして、すぐに腐り落ちた。力のコントロールを完全に手放した男は、枯葉の向こう側でほんの僅かに砂が動いていることにも気が付かない。
扉を開けた中は薄暗くても分かるほどにホコリを積もらせ、小さな足跡が点々と、箱を引き摺った跡が残っていた。ぼんやりと眺めて、やはり何処にも魔法使いが居ないことを思い知らされ、薄暗い部屋でまた立ち尽くした。いっそこのまま魔法が解けて終わるなら、それが彼にとって理想的なのだろう。
「君は僕が嫌いだろう?」
必要な過程を全て終わらせ、正式に学園能力者──黒猫になった時、自分の教育係を名乗り出たのが彼だった。以前からその名声は知っていたが、誰かと組んだ話は聞いたことがなかった。決定してすぐに任務に向かう列車に乗り込んで、理由を聞くと軽々と口にした。
「色々と秘密が多くて……それもきっと、中身は良くないことだろうね」
そこまで分かって居るのなら、何故?監視が目的なのだろうか。
「僕は心の底から世界のことも学園のこともどうでもいいから、君を引き受けることにしたんだ。自由にやっていいよ。僕も君を構わないから」
本当に出鱈目みたいな人間だった。
自由にやっていい、とは言われたがついて行く必要があったため、それはもう困難を極めた。任務が終われば任務。報告を軽視し帰還すらしない時も珍しくはなく、いざ帰還すればその次の任務の出発の連絡は一切無いため、帰還しないでいてくれる方が楽な程だった。
童顔の彼と老け顔の自分が並ぶのを見て、何度も立場を間違われ笑われて、和んだ場で横目で見た彼は常時微笑みを崩さず、人間のささやかなやり取りにさえ、本当にこの世の一切に興味が無いのが分かった時、やっと理解したのだ。
だから故郷は滅びて、腐り落ちたのか。
蝿が飛び交う瓦礫の中で見上げた曇天の向こう側で、世界の意思とやらは分かっていたのだろうか?
あの国の末路を。この男の結末を。
最果てにありもしない腐った肉の味と感触が、背骨を伝って目の奥を嬲る。ただの不快感にぎゅっと目をつぶって終わりを待ったところで、何もしなければ人間は簡単に死んでくれない。
でも、いま、ここでなら、
(……下から…?)
幾度と戦場を経験し閉じられていなかった耳は、ほんの僅かな音を拾った。あまりにも小さなそれは、音と言うよりも何かが動いた気配と言った方が正しいだろう。
動き始めた目は自然と引き摺った跡を辿り、足は木箱の前に居た。大して重くもないはずの箱が、震える手には酷く強大な物に感じる。恐怖からか期待からか、呼吸が耳の中で愚図ってうるさい。
何度か頼りなく空気を取り込んで、節くれだった大きな手が箱を押しのけた。
数刻前、少年が見たものと同じように、格子状の窓がその下の暗闇を教えた。耳のすぐ後ろで心臓が鳴り痛みさえ覚え始めた頃、膝をついて覗き込む。
扉からの僅かな光はコッロシオンの背に遮られたが、少年と違って暗闇の過ごし方をよく知る彼は、その影を捉えていた。
人が、子供が居る。この最果ての森に魔法使い以外の人間が居る。倒れているのか眠っているのか。僅かに上下する様子から、生きているのが分かった。
コッロシオンは息を飲むと、格子を外してゆっくりと降り立ち、小さな体を前に戸惑いつつも抱き上げて上に戻る。
(色も、質感もよく似ている)
抱えあげた腕に触れる黒髪が、よく似ていた。顔は分からないが、目を開ければきっと黒水晶が見えるだろう。決して健康的とは言えない細い手足にすら面影を見て、触れたものの代わりにどんどん腐る心を掻き毟りたくなった。
「また、死に損なうのか……僕は、いつになれば、」
そこまで言って、皮膚を突く空気が、刺すような痛みを与え始めた。体の内側から何かが這うような薄気味悪い感覚は、すぐにその肉を捻り始めるだろう。
魔法が解けていく中、コッロシオンは段々と虚ろな目で来た道を嘔吐しながら、ゆっくりとなぞり歩いた。道中にはただのかぼちゃも、使い古された革の靴も転がってはいなかったが、腕の中で苦しむ様子のない生き物が、男に現実を突きつけた。
魔法使いはここに居て、子を成し、死んだのだ。
この世の全てに関心を示さなかった男が、世界を飛び回り称号者になった理由を最悪の形で知る。
いつだって彼の目には、コッロシオンを含めた全ての人間が瓦礫の中の腐った肉と変わらず映っていた。自分と同じ、人間だと。
身に余った身勝手さを吐き出しながら進む死に損ないの蛞蝓は、魔法使いの置き土産を抱いて森を抜ける。
森から離れて、どれだけ経とうと子供は静かに息をしていた。




