序章Ⅱ
モノクロの世界を抜けて、寺よりも大きいのではないかというほどの大舟に乗り、その七日後には小さな港町から海の上を走る寝台列車に揺られて一日。生まれて初めての海上の旅に最初こそ目を輝かせていたものの、やがてぐったりとし始めた少年は、ルルに手を引かれるがままになっていた。
少年にとって生まれて初めての大移動は傍から見れば異様なほど静かであった。
時たま少年が、海に並んだ大樹や列車よりも長い魚などの、特段目新しいものの説明を強請るか、ルルが少年の体調を気遣った声掛けをする程度で、二人の間に会話らしい会話は殆ど交わされなかった。少年は自分が何処に向かっているのか、どうなっていくかの質問もすることはなく、ただ目の前で流れていく景色を眺めて居るだけであった。
その光景にてっきり質問攻めに遭うだろうと身構えていたルルは拍子抜けしていた。
思い返せば数回会った時も忘れられこそしなかったが、「亡き父の友人」を名乗る自分に、父がどのような人物であったか、何をしている人間なのかを少年から問われたことが無い。好奇心が薄いのかとも考えたが、目の前に気になる物があれば目を輝かせて聞く時もある。客室の窓から海や浮かぶ島々を眺める横顔に、自身の境遇にだけやたらと無頓着なように感じ、少年に何かを聞くのを躊躇ってしまっていた。
その理由が、ルルが子供の扱いを知らないからではないのを願うばかりだ。
繋がれた手の先にある顔を見る。
ぐったりとした様子で引かれるがままになってはいるが、それでも辺りの様子が気になるようで、視線はゆっくりであるもののうろうろと忙しない。やはり好奇心は旺盛なようであった。
「この先の通りを越えて少し歩けば家に着く。それまで歩けるか?」
「大丈夫。なぁルル、その、家には全員で何人くらい居る?」
「何人……?」
少年の質問の仕方にはた、と気づく。少年が先日までいた場所は極東の島にある有名な一族が暮らしていた所であり、幾つも屋敷を連ねたかなりの大所帯であった。
「オレとお前の二人だけだよ。天羽一族の屋敷みたいなのは割と珍しいもんだ」
「じゃあルルは一人で暮らしてたのか?」
「ほとんど家に帰ってねぇけどな。これからはお前も居るしなるべくこっちにいるようにするから安心しろ」
「ひとり……」
余程信じられないのかもう一度「ひとり……」と呟いて何かを考え始めた。分かってはいるが、何かを示唆されたようで若干落ち着かない。歳を食った同僚は随分と前からやたらと気にしていたが、まだ気にする歳でもないはず。
「なぁルル、ここ、人が多い」
つらつらと理由を探している間に少年は新たな見識を飲み込み終え、角を曲がって広がる景色に目を見張っていた。今度は人が多くて驚いているらしい。
「あぁ、ここは白猫通り…色んな国から色んな商人が集まる割と有名でクソデカい市場だ」
棒と布で仕切られたた露店、山ほど荷物を抱えた少年の三倍はあるであろう動物の列、レンガ造りの建物からは大きな角を生やした生き物が顔を出し、路地裏へ目を向ければ、簡素なテーブルの向こう側から怪しげな球体とローブを目深く被った老人が、人の心に手を振っていた。
「路地裏はまだ行くなよ。ロクなのがいねぇから」
振り返しそうな少年の腕を引き、ルルは縦横無尽な人の波に真正面から割って入った。小さな少年の体はあっという間に揉みくちゃになり、ルルに繋がれた手は、今この時は間違いなく命綱であった。
「あら!雷神様じゃないの、帰って来たんだねぇ。今度はどんな国に行ったんだい!」
少年の混濁し始めた意識を引き戻したのは大きく朗らかな女性の声だった。ルルが女性の方へと舵を切ると少年の体も傾いて、音が鳴るような勢いと共に空いた空間へと飛び出した。
顔を上げると、大柄な女性が満面の笑みで出迎える。その背後には白いレンガ造りの店と、軒先に植えられた鮮やかな花壇があった。看板には世界中で使われる共通語で”ネコパン”と、なんとも安直な店名が書かれている。
「あんたが子供を連れて帰ってくるなんて珍しいじゃないの!どうしたんだいその子」
「アルバだよアルバ。こんなクソ寒い時期にアイツら、コイツを一人で置いてったんだぜ」
「アルバってあんた…そうかい……坊や、よくここまで来たね。パンは食べれるかい?何かアレルギーはある??」
「えっと、あねるぎー?はなにもないって言われた」
女性は聞くと、ルルにいい匂いのする紙袋を渡して、少し間違えてはいたもののしっかりと答えた少年と目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。ゆっくりと小さな手を握って、よかった、と零す。
「ちゃんと覚えてて偉いね、何を食べれて何が食べられないか…この子は少なくともそれを教えて貰えたんだねぇ」
本当に嬉しそうに、柔らかく微笑むと、女性は立ち上がってまた先程までの調子に戻る。
その頃一方、ルルは紙袋の中から取り出したパンを齧っていた。お前も共犯だと言わんばかりに、紙袋から一つ取り出して少年に渡すと、少年は目を輝かせて齧りつく。
「ところでこの子、アルバから来たってことは…まさか、言っていた蒼介の子かい?」
「おう、オレが育てる」
「あんたが!?」
「そういう遺言だからな、オレもどうかと思う」
「……はぁ、天下の雷神様だ、食いっぱぐれることは無いだろうけどねぇ…子供のいる所で酒と煙草はやめなさいよあんた」
「あーハイハイワカリマシタワカリマシタ。やべ、もう鐘がなるじゃねぇか!遅れるとネチネチネチネチうるせぇからな。行くぞ」
少年の手を握り直して人の波に再び潜った背中に「今度は名前を教えるんだよー!」と明るい声が添えられた。
そうして人の波に揉まれて疲れ果てた頃、人がまばらになり、大きな門が見えてくる。
門の両側に、ルルの百倍はあるだろう鎧を着た彫像が並び、今にも手に握られた大斧を振り下ろしそうな迫力があった。木を切るもの、という認識しかなかった少年は固唾を飲む。いつも居る相棒の木刀は、今ここにはいない。寒空の下置いていった人間が、恥だなんだと言って取り上げたのだ。あぁ、思い出しただけでも腹立たしい。
しかし隣にはルルが居る。よく分からないが”なんとなく強そう”だと感じているからいけるだろうか。おばちゃんも雷神とか言ってたし。
「おい、なに見てんだ。そいつはオレたち相手に動かねぇよ。後で見て回れるから今は顔合わせに行くぞ」
少年が立ち向かう算段を立てている向こう側で、悠々と門を越えていたルルが声を掛けた。少年の妄想ではなく、やはりこの彫像、動きはするらしい。
小さな戦いを終えると、今まで歩いてきた白猫通りと同じような、レンガの敷き詰められた広場が続いていた。人の数も店の数も全く足りていないが、公園のようなゆったりとした空気も似合っている。
駆け寄ってきた少年にほら、と催促し、もう一度手を握ると足早に進んだ。少年が辺りを見回すとまばらに居る人間たちの多くがこちらを見ていた。
「ルル=トールが子供を連れてる」
「え!?結婚していなかったよね!?隠し子!?!?」
「任務先で保護された子でしょ、別に珍しくもない」
「でもあの雷神だよ?ここだけじゃなく世界でも有名な人をほっとかないでしょ」
「…まぁ、酒癖悪いしなぁ…隠し子は割と納得できる」
実に言いたい放題である。
少年にはこれらの意味がよく分からなかったが、ここまでの道中でルルが何処に居ても”雷神”や”英雄”と呼ばれていたのを聞いていた。過去に二度程来ていた時も、あの屋敷にいる人間でさえ雷神と呼んでいたのだ、よっぽど凄い、ということだけは少年でも理解している。
「なぁルル、なんで雷神なんだ?英雄も言われてる。でも神様と英雄は違う…よな?トールとオラシオン、どっちが名前で苗字なんだ?それにたまに黒猫って呼ぶ人もいる」
引っ張るように半歩前を歩いていたルルを見上げる形で問えば、驚いた、は少し大袈裟ではあるが、ほんの一瞬、その様な顔をして目を配った。
失礼ではあったが、この瞬間までルルは、少年は人間に興味が無いと思っていた。
「人が言う程大袈裟な事じゃねぇよ。そういう名前の称号を貰ったんだ」
「しょーごー?」
「お前に分かるなら…そうだな、トウシュが居ただろ、天羽のトウシュ。たぶんあれより強くて凄い名前だ」
「おっさんより強いのか…!?」
「たぶん、たぶんな。大体たぶん強い。知名度は絶対オレが勝つけど」
少年は絶対に強い、凄い、勝つのワードしか拾っていない、好きな言葉だけを拾うビュッフェ状態だったが、悲しいかな、ことこの状況においては真実よりも二人に利があった。
「トウシュというのは、ここで言うのであれば学園長が適しているかと、オラシオン」
「うげぇ、出た」
二人の有益な会話に正面から割って入ったのは、黄金色の髪に不思議な鎧のようなものを着た裸足の美しい女性だった。
足元には小さな草花が芽吹き、彼女の肌が離れたその跡では、枯れて塵となり跡形もなく消えていく。
「こんにちは、私は彼と同じ称号者”救世の聖女”です。貴方のお前をお聞きしてもいいですか?」
ルルの渾身の悪態も聞こえていないのか慣れているのか、華麗に躱して屈んで尋ねた。隣でルルがやめとけ、悪魔みたいな女だからロクなことにならねぇぞ、と先程の知らない人よりも言いたい放題言っている。だが少年にとって今信じるに値するのは、子供のような悪態をつくルルだけなので、目の前の”絶対に自分では勝てない”美しい人間ではなくルルの言うことを聞いた。
「しょーごーしゃって、ルルと同じなのにトールじゃねぇの?」
「称号者は意外と多いのですよ。そこの嘘つきの黒猫さんでもなれるものですから」
「そうそう、聖人を超えて悪魔みたいな狂った女でもなれるからな」
「今が任務前で、幼子の前でなければこの子達が貴方を締め上げていたでしょう。本当に運が良いですね、オラシオン」
気配を感じて視線を足元に向けると、先程よりも少し成長したツルが威嚇するようにのそりと身じろいだ。異様な光景に身の危険を感じた少年は、ルルの後ろに隠れて様子見をする。
「ふふ、すみません。貴方には危害を加えることは無いですよ。ですが、流石天羽の子、と言ったところですね。この子達の敵意を読み取る子供は、樹族の子以外で初めて見ました」
「…ジュゾク?」
「死んだら樹になる人間が居るんだよ。
で、今日は子供に好かれやすいお前が付き添う話だったのになんで任務があんだよ。警戒されてるからどっちにしろ意味ねぇけど」
「えぇ…先程テオドールからの応援要請があったので。今は状況が複雑なので説明出来ませんが、調査後必ず貴方の耳にも入るかと」
「…そうか、コロンによろしく言っといてくれ。悪いな」
「いえ、ここでこの子が名前を教えてくれれば貴方との交代も考えましたが…やはり貴方が居なければこの子も不安でしょう。それでは」
二人に微笑む聖女の名を冠する女の足元で、先程威嚇していたツルも例外なく老いて塵になり、新たな一歩にまた誕生しては共に去って行った。
少年が顔を上げると、眉間に皺を寄せる顔があり、少年はごめん、と零した。
ルルは「は?」と声に出して少年を見るが、直ぐにため息を吐くとしゃがんで「わるかった。お前のせいじゃねぇし、オレたちもお前の前で話すべきじゃなかった」と、安心して欲しい気持ちから肩に手を置いてゆっくりと謝罪した。ルルに連れられてからずっと、少年は今までにない触れ方に、何を感じればいいのかよく分からないままだった。
その後急ぐ理由もなくなったのか、ルルは少年を引き連れ案内して回る。
最初に歩いていた広場を越えると、乗ってきた船よりも遥かに大きな建物に入り、簡単に階層
ごとの説明をした。慣れないなりに噛み砕いて説明をしていたが、やはりその全ては少年にはよく分からなかった。遥か上にある天井や全体的に重厚感のある造りの建物は、少年が居た屋敷とは似ても似つかず、忙しなくキョロキョロとしては動き出しそうな──正しくある条件下では動くらしいが──彫像を頻繁になんだなんだと説明を強請った。
そうして見て回った後、上層階に位置する一際大きな黒い扉の部屋に入ると、大きなソファーに案内される。座って久方ぶりに少年は、自分が疲れていたことを思い出してぐったりとしていると、ルルが湯気の立つカップを少年の前に置いた。
「苦い…」
「……ガキには早いか…悪い、それしか今はねぇんだ」
うげぇ、と数刻前にルルがしていたのと同じように舌を出し、両手で持ったカップと悪戦苦闘しながら飲む向かい側で、ずず…と特にこれと言った反応もせず片手で悠々と飲んでいる。
すん、と鼻を啜ると、コーヒーの香りとこの部屋に染み付いた、ルルからするのと同じ匂いが鼻腔をくすぐる。
「この部屋はオレ個人の仕事部屋だ。何かあったらここまで来い。しばらくはなるべく家に居るようにするが、その後は少しずつ仕事に戻る。この街での仕事の時は大体ここに居るから」
一年後には少年も、この学校と呼ぶにはあまりにも大きな学園に通うらしい。その為の学園長と先刻話した聖女との顔合わせだったが、なにやら状況が変わったらしく、学園の見学だけになったようだった。
ルルはもう一度コーヒーを飲むと、ふぅと少し長い一息をついて少年に向き合った。湯気が見えなくなったカップは、今も少年が四苦八苦して飲んでいる液体が無くなったことを知らせていた。熱くて苦いものをもう飲むなんて、と戦慄する少年に真剣な声が掛かる。
「お前は、親のことが気にならねぇのか」
列車に乗っている時から、その前からずっと気になっていた違和感を遂に言葉へと変えた。渡された少年はきょとりとした後、手の中でまだ湯気を立てている苦い液体に映る自分を眺めて、やっぱり嫌だと思った。
「…気にならない訳じゃないけど、俺と同じ一族の恥だってみんな言うから、聞きたくない…」
彼が彼の一族の中で嫌悪されているのは、ルルも分かっていた。
生きている証拠も死んだ証拠もないまま行われた滑稽な葬式で、かの御伽噺に出る初代の再来とまで言われていた男が、ここまで言われるようになるものなのだと、唾を吐き捨てたいような最悪の気分だったのをよく覚えている。
そしてその影響が少年に出ていることも、少年が生まれてからの数年間の苦しみも知らない訳ではなかった。その原因の一端が自身にあることも、ルルはよく分かっていた。
「…お前の父親はな、確かにろくでもない奴だよ。産まれたばかりのお前をほっぽり出してどっかに消えちまうような男だからな」
「知ってる…」
「悪かった。お前の親父を見つけてやれなかった」
見つけてやれなかった、とはなんだろう。
少年の感想はまずそれだった。何処にもないものを見つけるのは、神様にだってできないように思う。いくらルルが雷神と呼ばれて居ても、彼は人間なのだ。だが、少年の目の前には深刻な顔をした大人が、明らかに弱い子供の自分の返事を待っている。悪かった、ということは、怒った方がいいのだろうか?許せばいいのだろうか?最初からない感情を、何処から引っ張れば会話になるだろうか?
「……五年間、オレはこの星界の端から端までを二度探し回った。だが髪の一本も見つけられねぇで、結果的にお前にとって良くない環境にお前を預けていた。本当に、悪かった」
ルルは重苦しい顔を下げ、真ん中よりも少し右寄りのつむじが初めて少年に晒される。屋敷で怒られていた子供が、相手に頭のてっぺんを見せていたのを思い出して、そっか、と思った。
「ごめんなさい。俺、父さんも母さんも知らないから、よく分かんないんだ」
読み書きや基礎的なことを少年に教えた人間は、謝る時に頭を下げるのは首を差し出すに等しく、無防備で敵意が無いことを相手に伝える誠意ある行動と言っていた。
だから少年は、自分もそのようにすべきだと思った。この人間は自分に対して少なくとも敵意は無く、子供で嫌われている自分にも、誠意を持ってくれている。
目の前のルルの見様見真似で、それが作法なのだと思い、短い脚をめいいっぱいに開いて膝に手を置き、ガバリと勢いよく頭を下げて、数秒後に顔を上げた。
「でもたぶん、分かんないけど、ルルは俺の為に探してくれたんだよな、ありがとう。俺、ルルのことを知りたい」
そう言ってまた目の前のコーヒーに手を伸ばし、うげぇ、と舌を出しつつ飲む姿に、男は感謝してもしきれなかった。




