第九話 黄昏時の悪魔
「田村様、今日はもう遅いですから、今夜はここに泊まっていきましょう! とりあえず、このお薬を飲んで下さい!」
「あー、何だって? タクシーを呼んでくれたって? わしの家は駅の近くじゃが……」
老人は一旦動きを止めるも、ネズミの話をまったく理解せず、すぐに玄関目指して行軍を再開した。
廊下がナメクジの這った跡のように、唾液でぬらぬらと光っている。
これ程流涎が酷いと、リスペリドンよりも、副作用のより少ないクエチアピンを使う方が、楓の場合は多いんだが……。
「田村様―っ! とりあえず少しでいいから飲んで下さいーっ!」
「あーっ? 今日は8月だって? どうりで暑いねー!」
「こ、これはずいぶん手強いわね! どうやら難聴もあるようだけど、さすがは夕暮れ症候群……!」
ネズミが極めて苦い表情を浮かべる。
夕暮れ症候群とは、認知症の老人が、夕方になるとそわそわと落ち着かなくなり、「家に帰る」と言って、荷物をまとめたり、時には外へ出て行こうとする症状のことで、何故か大抵夕方頃によく見かけられる。
認知症に伴うせん妄症状の一種とも言われ、老人病院やグループホームなどの施設では、一度に大勢の老人達があたかもゾンビのようにわらわらと出口に向かっていくことがあるので、スタッフに非常に恐れられる現象だ。
田村さんのように入所したばかりの人に特に多く、環境の変化に対応できないのが原因の一つとも言われる。また、夕方になると脳細胞が疲労して生じるのではないかという説もある。
とにかく理詰めで説明してもまず無理なので、ネズミのように、「遅いので今夜は泊りましょう」などその場しのぎの言葉で気をそらす作戦が有効だ。もっとも聞えればの話だけど。
「うーん、なんとかして聞いてもらわないと……」
開け放ったドアの向こうからは、グレゴリオ聖歌の哀愁漂うメロディーが流れ、僕を更に悲痛な気持ちに沈ませた。
そもそもなんでこんなお葬式の曲のCDなんかかけるんだ? 縁起でもない!
多分楓の選曲だと思うけど、もっと明るい曲がいくらでもあるだろうに……ん?
頭の中で、肝心な時にいない楓に悪態をついているうちに、またもやとあるアイデアが閃いた。
僕は息を大きく吸い込むと、細長い体を風船のように膨らませ、チューバの如く低い音域で、ゆっくりと、野太い声を発した。
「田村さーん、もうすぐ晩御飯ですから、食べてから帰りましょーう!」
「ええっ、晩御飯?」
死んだ魚のように濁っていた田村さんの双眸に、生の光が宿る。彼はゆっくり僕の方を振り向くと、童子のような澄んだ視線を投げかけた。
「そうか……、そりゃあおよばれせんといかんかな……、お前さんが晩飯かい?」
「いえ、僕じゃないですよ」
僕はこっちに田村さんの注意を引き付けているうちに、尻尾でネズミに合図を送った。早くそれを飲ませてしまえ!
「さ、田村様、まずは食前酒ですよー! 召し上がれー!」
すかさずネズミが彼の口元にチューブを当てがう。彼は本能の赴くまま、母親の乳首を咥える幼子のように、チューチューと美味しそうに吸い付いた。
「苦いのう……」
「お酒ですからねー、さ、食事に参りましょう!」
ネズミは室内から引きずり出した車椅子に、手際よく彼を座らせると、後ろから押しながらリビングへと戻る。
僕はホッとため息をつくと、キリスト教徒じゃないけど、思わず神様に感謝した。
「あら~、まーたソーセージちゃんがネズミちゃんを助けたの~、凄いわね~」
最早僕のストーカーと化したといっても過言ではない中村さんが、ドアの向こうから僕たちを拍手で出迎えてくれた。
「いや~、そんな、たまたまですよ」
「いえいえ、田村さんのことを知り尽くしているかのような、素晴らしい手際だったわよ~、私の息子も、たまにあんな怒鳴り声をあげるんだけど、私にはとても手におえないのよ~」
「えっ、そうだったんですか?」
初耳だ。いつもお見舞いに来る優しそうな息子さんが、そんなに怒りっぽい人だったなんて……。
「それなのに見ず知らずの人を一発でおとなしくさせるなんて、あなたってほんと天才だわ~」
「いえ、だから違いますって!」
中村さんが僕にしゃぶりつかんばかりに抱きついた時、外は早くも夕闇が訪れ、冬の短い日はその命を終えようとしていた。