第八話 深き渕
「ネズミ、今朝は今よりもっと雪が降って、氷のように寒かったんですよね?」
僕は室外に走り去ろうとするネズミを、寸前で呼び止めた。
「ネズミじゃないって言ってるでしょ!……って確かにそうだけど、それがどうかしたの?」
「採血した全血は、冷蔵庫に入れては駄目で、室温で保存しなくちゃいけないんですよ。
何故なら冷蔵庫内では低温で血球が壊れて溶血を起こしてしまうから。
今日の廊下はただでさえ息が白くなりそうなほど寒いでしょ? ましてや今朝の玄関先は……」
「そ、そうか、血液が皆凍っちゃったのね!」
「そういうこと。二階の検査室内は暖房が効いているから、血液はすぐ溶けたんだろうけど、その時に赤血球は破壊されてしまったってわけ。これで今日の晩飯はバッチリだね」
「すごぉい……ソーセージくんってソーセージのくせに、どうしてそんなこと知ってるの?」
ネズミはただでさえ丸い目をスーパームーンのように真ん丸にし、驚きをあらわにしている。
「ソーセージのくせにって言われても……でも本当にどこでそんな知識を覚えたのか、僕もまったく覚えてないんですよ。ただ、なんとなく、頭に浮かんできてさ……」
「そっか、ソーセージくん、ここに来る以前の記憶がないんだっけ……ごめんね!」
彼女が立派な眉を八の字にし、深々と僕に頭を下げた。
「い、いいよ、別に謝らなくても。どうしようもないことだし」
僕は努めて明るく言うと、「寒いし早くドアを閉めてよ」と話題を変え、再びソファーのもとへ向かった。
ソファーではいつの間にか中村さんがやや眠そうな目をしながらも、柔らかく微笑んでいる。
「あら、凄いのね~、ソーセージちゃんったら、どんな事件でもすぐ解決しちゃうのね~。
さすが優秀なロボットだわ~。勝者だわ~、勝ち組だわ~」
「そうですね、ウインナーなだけに」
いかん、ネズミの影響か、ついくだらん駄洒落を言ってしまった。反省反省。
ちなみに僕は対外的には介護用ロボットということになっており、ファービーやAIBOの同類だと、入所者や利用者の方々には思われている。モルスァってか。
「最近のお医者さんの学校でも、自分で考えて答えてくれる高性能なロボットを実習で使っているらしいけど、技術の進歩ってすごいのねぇ~」
「へぇ、そうなんですか」
「そうなのよ~。実際の患者さんを診ると世間がうるさいとか言ってね~。嫌な世の中ね~」
「はぁ……なかなか難しいですね」
僕は適当に相槌を打ちながらも、先程ネズミが投げかけた疑問を反芻していた。
高カリウム血症の謎が解けてすっきりしたのは良かったが、何故僕にそんな知識があるのかという謎は、春になっても道端に積み上げられたまま残っている泥まみれの雪山のように、ずっしりと心の奥を占拠していた。
朝からずっと降り続いていた雪も次第に弱まり、午後4時頃には、久しぶりに弱い冬の日差しが、厚い窓ガラスを通して室内に降り注いでいた。
凍り付いていた体内時計のネジが巻かれ、全ての生物の時が動き出す。
リビングには讃美歌の「我深き渕より」のCDが流れ、悲哀に満ちたバスの重唱が、チューバやトロンボーンの伴奏の元、厳粛かつ荘厳な雰囲気を醸し出していた。
「そろそろだね……」
「そろそろよね……!」
僕とネズミは、刑の執行を恐れる死刑囚のように生きた心地もせず、ひそひそと小声で囁き合っていた。
もうすぐ、グループホーム関係者なら誰もが恐れる「あいつ」が訪れる。古人が奇しくも逢魔が時と名付けた魔の時間帯、夕暮れ時が……。
「帰らしてくれー! わしは家に帰るんじゃー!」
廊下の方から絶叫にも近い男性の悲鳴がする。僕たちは顔を見合わせると、我先にとリビングを飛び出し、声のする方へと向かった。
といっても僕はのろのろとネズミの走り去った後を追いかけるだけだったが。
「帰らんといかんのじゃ~! お前らいいかげんにしろ~!」
予想通り、廊下には一人の禿げ頭の老人が這いつくばり、口から涎を垂らしながら、僕と同様に廊下をうねうねと進んでいた。
昨日入所したばかりの田村正信さん(94歳、男性)だ。
昨年認知症で精神科に入院し、退院後もおうちで家族に暴言や暴力を振るい、年取った奥さんがとても看病することが出来なくなり、色々な施設を当たるもどこも断られて、已む無く昨晩急きょ入ってきた人だ。
入所した後はすぐに楓の処方した眠前薬を飲んで寝てしまい、今日も朝から特に問題なく、主に部屋で過ごしていた。今の今までは。
「ネズミ、不穏時薬を!」
「ネズミじゃない……って、もう用意してます!」
確かにネズミの左手には、既に青いチューブタイプのリスペリドン内用液1.0mlが握りしめられている。
リスペリドンは抗精神病薬の一つで、不穏、興奮を鎮める作用が強く、不穏時に頓服としてよく使われる。
ただし、めまいや嚥下障害といった副作用も、たまにではあるが認められる点がちと厄介だ。
彼女は軽やかに、廊下を匍匐前進する元日本陸軍兵士に追いつくと、甲高い声で耳元で大きく叫んだ。