第五十二話 悪夢の旅路 その5
「しかし、親父の件で昨日初めて楓荘に訪れたとき、心臓が口から飛び出してアンドロメダまで行ってしまうくらいにびっくりしたね。
まさか、脱走したもう一人のムラージュが、医者を名乗って所長をやってたなんて!」
彼は楓のほっぺたを、むにっと人差し指で押し、彼女の眼鏡を摘み取る。
「やっぱり度が入っていない、ただの伊達メガネかよ!
いくら髪を染めて、眼鏡をかけても、自分の千里眼はごまかせないぜ。
何しろ脱走事件の夜に、自分がセックル致そうとしたのは、このお方なんだからな! 見間違うわけがない!」
僕はその時まで、自分のことにばかり気を取られ、楓がムラージュだという彼の説を、悪いけど話半分に聞いていた。
いくらリモコンで操られたといっても、何か他の仕掛けによるのかも知れないし、にわかには信じ難かったから。でも、彼の話がもし真実だとしたら……。
「じゃ、じゃあ、僕と楓は同じ場所にいたのか?」
もし僕が脱走を手配して、彼女がそれに成功したのなら、僕たち二人は同じ施設か何かにいたということになる。ひょっとして何らかの面識があったんだろうか?
「お、冴えてきたねぇ~、さっすがソーセージくん、ご明察ぅ~」
上機嫌の彼は、サングラスの上に楓の眼鏡をかけつつ、助手席の彼女の肩に手を回す。
「この女はその時逃げ出したムラージュで、脱走後、ずっと仲の良かった君を探していたんだ。健気だねぇ。
だが発見したとき、君のあんまりな姿を見て、とても真実を告げることが出来なかったってわけだ。とても苦しかっただろうねぇ」
「……」
僕は怒りと驚愕のあまり、しばし言葉が出てこなかった。
でも、彼の言う通り、確かに楓は何かを隠していた。僕にずっと何かを伝えようとして、全身で抱きついてきた。あれは、そういうことだったのか!?
「おっと、そろそろ高速のインターだ。安全運転しなきゃあな」
目前に、海沿いを走る高速道路の橋げたが、雪景色をバックに、黒い竜のように長々と寝そべっている。まるで水墨画の世界に紛れ込んだかのようだ。
この高速に乗ってしまったら、もう逃げ出すことは不可能だろう。
だからといって、このチャーシュー状態では、せいぜい声を出すことしか出来ない。どうすればいい?
僕はフロントガラス越しに、黒々と迫りくる高架を睨み付け、頭をフル回転させる。
「ん? あの車は……」
ふと、インターチェンジ付近の道路脇に、一台の青い小型車が停車しているのが目に入った。
中に乗っている人間は、雪のせいで姿がよく分からなかったが、どこかで見たようなそのシルエットは、まさしく我が楓荘の施設カー、トヨタのヴィッツそのものだった。
間違いない、右側のテールランプが大きく割れていて、後ろのナンバープレートに傷が入っている車なんて、うちの車だけだろう。でも、何故、こんなところに!?
「ん、あれってまさか……」
ラリッたドライバーも、ようやく気が付いたようだが、まさか同一車だとは思わなかったようで、「似たような車って多いんだよなー」とほざきつつ、その横をすり抜けようと、ウインカーを点灯させると、若干右にハンドルを切った。
青のヴィッツと赤のポルテが、まさにすれ違おうとしたその時、僕の耳に、かすかに「ピッ」という電子音が聞えた気がした。
車の何かの計器音かと思ってやつの手元を見るも、ハンドルを真面目に両手で握っているだけで、特に何かを触った形跡はない。
錯覚かな? と思いかけたその時、今まで肉人形同然だった楓が、突如姿勢を正したかと思うと、エプロンの前ポケットから注射器を取り出し、健一郎の首筋に突き刺した!
「ぎゃあっ、貴様、何をする!?」
「か、楓!?」
突如の出来事に、彼も僕も驚きを隠せなかった。
左に戻ろうとしていた車は、舵を失った船のようにふらふらとオレンジ色のセンターライン上を彷徨い、右へ右へと流れていく。
対向車線上には、いつの間に現れたのか、電飾に煌めく大型トラックが、街宣車も真っ青の大音量で演歌をかけながら、まっすぐこちらに突っ込んでくる。
「「「ぎゃあああああああああああああ!」」」
乗客三人の悲鳴が、期せずして和音と化し、怒涛のハーモニーを奏でる。
「止まるだっちゃー!」と、どこかで聞いたような富山弁をバックミュージックに、僕の意識はブラックアウトし、闇の中へと落ちて行った。




