第五話 ネズミ
「助けて、ネズミ!」
僕は叫んで首(?)を後ろに捻る。予想通り真っ白な衣服に身を包んだ女性がそこに立っていた。
男の子のように太い眉毛の下に、くりくりとした大きな黒い目を輝かせる、小柄な顔をした健康そうな女の子で、やや茶色がかったショートカットに芙蓉の花を象った純白の髪留めを付けている。
全身白一色だが、ロングスカートと肩の張った長袖の上着を幅広のベルトで結合させ、白い可憐なエプロンをつけた姿は、まるで見知らぬ国のウエディングドレスのよう。
さすがにナースキャップこそ被っていないが、にこやかに笑顔を浮かべるさまは、古き良き時代の看護師ならぬ白衣の天使の看護婦さんを彷彿とさせた。
「ネズミじゃなくて、美子お姉さんでしょ、ソーセージくん! 今度ネズミって呼んだら、焼きソーセージにしますからね!」
ネズミ……じゃなかった、美子お姉さんが、チッチッと人差し指を左右に振って頬っぺたをぷくぅっと可愛く膨らませる。
身体が小柄なので、そうするとネズミというよりはリスみたいだ。
「さ、私につかまって、ゆっくり起き上がって下さいね!」
彼女は手慣れた手付きで、僕に未練たらたらな老婆をてきぱきと引き剥がすと、自分の肩に捕まらせ、よいしょっと身体を起こさせて歩行器へと移行させる。見事なものだ。
このお姉さんのフルネームは根津 美子さんで、歳は17歳とのこと。
どういう経緯でか知らないが、この洋館に、家政婦兼介護士兼看護師として、住込みで働いている。
多分何の資格も持っていなさそうだけど。そもそも17歳じゃ取れないだろうし……。
僕らの食事作りや掃除、洗濯はもちろんのこと、利用者や入所者の介護や投薬、食事の世話、入浴の手助け、おむつの交換などの介護士的な仕事や、時には採血や点滴などの医療行為の補助といった膨大な仕事を、たった一人で切り盛りし、ちょこまかと目まぐるしく動き回っている。
その様はまさに「コマネズミのように」という慣用句が相応しく、名前のせいもあって、誰も本名ではなく「ネズミ」だの「ネズ公」だのとあだ名で呼んでいた。僕が呼ぶと怒るけど。
どうして住込みで暮らしているのか、家族はどうしたのかなど聞いてみたことは何回かあるのだが、いつもうまくはぐらかされて、教えてくれない。
ただ、「私は実は病気持ちなんで、楓様に診ていただいているんですよ!」と話してくれたことはあった。
それが何の病気かまでは語らなかったが、確かに時々彼女は変な行動をとった。
例えば誰もいないのに「いらっしゃいませ!」と愛想よく言ったり、テーブルに座っている人の数より多くの御膳を並べたり、大事な仕事の予定をすっぽかして遊びに行くなど、奇妙なことをすることがあり、そんな時は、「あっ、またやっちゃいました!」と言って、自分で頭をコツンと叩いた。
また、普段は何でも器用にこなすのに、たまに動きがぎこちなくなってお皿を取り落としたり、前かがみになってつんのめりそうになる場面もあり、意外と危なっかしくてハラハラさせられた。まさかドジッ娘症候群とかじゃあるまいな。
そんな彼女だが、普段は本当に優秀で、要領よく全ての仕事を順番にこなし、施設の様々なトラブルにも臨機応変に対処しており、せいぜい利用者の玩具代わりにしかならない僕と比べると、雲泥の差の獅子奮迅振りを見せていた。
ただ、あまりにも忙しそうなので、もっと従業員を増やせないのか楓に尋ねたこともあったが、「何言ってるんだ、うちは無許可の施設で俺は無免許医だ。おおっぴらに募集する事なんか出来るわけないだろ」と一言の下に切り捨てられた。
確かにその通りだけど、このままじゃ彼女が倒れたら、楓は家事全般は苦手だし、僕はこのありさまなので、施設自体が崩壊しちゃうんじゃ……。
というわけで、人員不足は我が施設の目下最大の悩みだった。
「ソーセージちゃ~ん、早くこっちにいらっしゃ~い。一緒にご本を読みましょ~う」
いつの間にか大きなソファーに腰掛けた中村さんが、ネズミと一緒に手を振っている。慌てて僕は、全身の筋肉を駆使して、カーペットの上を移動した。
「今日はソーセージちゃんにぴったりのお話を用意したのよ~。
ほら、グリム童話って知ってる? その中の一つなんだけど~」
中村さんの膝には、彼女と同じくらい年季の入っていそうな古ぼけたハードカバーの本がのっかっていた。
表紙には、「初版・グリム童話集(1)」と太字で書かれている。ここ楓荘の書庫に置いてある本だ。
僕は童話には詳しくないけれど、グリム童話ぐらいは聞いたことはあったので、やや興味をそそられた。
そもそも僕にぴったりの話っていったいなんだ? 料理本ぐらいしか思いつかないんですけど。
「『ネズミと小鳥とソーセージ』ですか。面白そうな題名ですね!」
中村さんの開いたページを、横からネズミが覗き込んでいる。遥か昔、どこかで聞いたような気もするが、思い出せない。
それはともかく、面白そう以前に皆目話の内容の見当がつかない。まるで落語の三題噺のお題みたいなタイトルだ。
僕の心配をよそに、中村さんはコホンと乾いた咳を一つすると、老眼鏡をかけて、大きな声で朗読を始めた。