第四十話 根津 美子 その6
「ちょうどそこに、浜辺を散歩していた俺様がいたってわけだよ。
んで、眼の前で死なれるのも目覚めが悪いから、ちょっと話を聞いてやったわけだ」
「はい! 楓様は私の話を一度聞いただけで、見事に私の病名を当て、進行を遅らせる方法があることを教えて下さったのです!
その上、泊る所が無ければしばらく住んでもいいとおっしゃって下さって……!」
「だから俺が話すと言うとろーがぁ!」
「ずびばぜえぇぇぇん!」
ギリギリと楓の五指が、ネズミの小柄な頭蓋に食い込む。
「ま、ちょうど猫の手も借りたいほど忙しかったし、この際ネズミでもいいやと思って、労働力をゲットしたわけだ。
以上だ! 何か質問はあるか!」
「はぁ……」
あまりにも壮絶な過去と濃厚なストーリーに、僕(とおそらく矢田)は軽く胸焼けしそうだった。
だが、ネズミの深い悲しみと嘆き、そして救われた喜びは痛いほど伝わってきた。
自殺しようとまで思いつめていたまさにその時、誰にも分からなかった謎が解けたことは、果てしない無明の闇にわずかだが光が差し込めたにも等しい奇跡だったろう。だが……。
「その……ネズミの義父は、一体どうなったんですか?」
「俺もそいつは気になって、いろんなつてを辿って調べたが、死んではおらず、軽いけがで済んだようだ。
ただし、妻とはその後離婚したようで、娘の捜索願もどちらも出していないとのことだ」
「そう、ですか……」
「い、いいんです! 気にしないで下さい!
私にとっては彼が無事だっただけでもほっとしてますから!」
暗く沈んだ僕の声を察知してか、ネズミが傍目にも無理矢理明るく振舞い、フォローを入れる。
「そうか、ならいいんだけど……」
「ま、どっちにしろ、私はもう両親の元には戻れませんし、合わす顔もありません!
いつの日か、会ってきちんと謝りたいとは思っていますけど……!」
「そうだね、出来るといいね……。ところで、ネズ……美子、あなたは本当に理解しているんですか、自分の病気について?」
僕はつい涙ぐみそうになったけど、なんとか我慢し、いよいよ彼女の核心に触れる。
「ええ、いくら物忘れのひどい私でも、何回も楓様から聞いて、ちゃーんと分かってますよーだ!」
彼女はべぇーっと小さく舌を出す。なんでだ。
「え、で、でも、それじゃあ……」
「ああ、俺がはっきりと伝えた。隠しておいてもどうせ調べれば分かることだしな」
楓が普段より厳粛な態度で、死刑宣告のように重々しく述べる。
「レビー小体型認知症の予後は一般的に不良で、平均的な生存期間は、症状発生から約10年前後だ。
これは個人差もあるし、ドネペジルやメマンチン塩酸塩などで進行を遅らせることは出来るが、それでもそう大きく変えることは出来ない。
最近新しい薬が開発されてきているが、まだ効果は完全には不明だ」
「……」
「いえ、でも、病名が分かっただけでも、私にとっては大きな一歩だったんです!
何しろ対処法があり、進行だってわずかでもゆっくりに出来るんですから!
その間にまたいろいろな治療法が編み出されるかもしれないじゃないですか!
それにどうせ死のうとしていたことに比べたら、ほら、天と地ですよ!
とにかく私には、ここしか居場所もないし、楓様みたいな偉大なお医者様に巡り合えただけでもめっけもんなんです!
お願いします、もう決してこんなご迷惑をおかけしませんから、どうか追い出さないで下さい!」
ネズミが沈黙は許さないとでもいうかのように、機関銃のように捲し立てる。
場の空気を変えようとしているのは明らかだったが、どこまでが彼女の本音なのかは目下不明だ。
しかし、彼女が心の奥で、自分のことよりも、僕たちのことを考えてくれていることはよく分かった。
「よし、じゃあもっと厳しく仕込むから、これからも馬車馬の如くきりきり働けよ!」
「はい、お館様!」
僕の目の前で、主従はぎゅっと固い握手を交わし、お互いにニッと微笑んだ。
その瞳は鉄の信頼で結ばれ、何人も分かつことは出来そうになかった。
「雪が止みそうだちゃ……」
その時、それまで案山子のように黙って成り行きを見守っていた矢田が、ぼそっと漏らした。
窓を見ると、暗い夜空に、久々に煌々と月の姿が浮かんでいる。
雪雲は筆で刷いたようにかすかに薄れ、空を舞い散る白いものは、わずか数片に過ぎなかった。




