第三十三話 根津 美子 その1
霏々として雪が降り続き、地上を白く染め続ける。
その様は午後になってもなんら変わらず、むしろますます勢いを増してきた感がある。
いくら雪国とはいえ、皆いささかうんざり気味だったが、一人モジャ公こと矢田だけはさかりのついた犬みたいにうれしそうだった。
そういやこいつの滞在期間は、楓所長曰く「雪がおさまるまで」だったけか。
まだ半日程しかいないのに、何年も前から住みついてきたかのように違和感なく周囲に溶け込み、ご老人達の相手をそつなくこなし、てきぱきと立ち働いている。
空気は読めないくせに、凄い適応能力だ。なんか矛盾してるけど。
それに引き替え、なんだかネズミの様子がおかしい。
昼食の時も気もそぞろで、食器を明らかに一人分多く出したり、「温めますか?」と楓のカロリーメイトを電子レンジに放り込んで爆発させたり、イカの内臓を原料とした、能登の魚醤「いしり」を、楓のとってくれたお寿司にぶっかけ、全部イカの味にしてしまって台無しにするなど、とにかく落ち着きなく、行動がどこかまとまりなかった。
「ネズ公、ひょっとして……見えてるのか?」と楓が聞くと、「な、なんのことですか!?」と明らかに狼狽し、その拍子にお皿を落として割ってしまった。
こりゃたまらんと、僕は飯もそこそこに引き上げ(いつもそこそこのような気がしてきたが)、とっととリビングに退散したものだ。
現在は午後4時をまわったところで、なんとかトイレを終えた僕は(一人でも出来ることは出来るが、結構大変だったりする)、寒風が吹きこんでいたため、玄関が再び開きっぱなしなのに気付いた。
外に目をやると、雪の舞い散る中、門の近くに、見慣れぬ赤い車や、JAFの青いレッカー車が止まっており、その前で、オレンジ色の制服に身を包んだJAF職員と、中村一家の3人が何やら話し込んでいる。事故車を動かす算段をしているのだろう。
中村氏はすっかり元気になり、奥さんや息子さんを引き連れ、交渉に当たっている。
いろいろあった夫婦だけれど、今後はうまくいきますように、と僕はそっと心に願った。
(それにしても、「見えてるのか?」ってどういう意味だろう?)
果てしなく降りしきる雪すだれの向こうで、仲睦まじく会話している中村家をぼんやりと眺めながら、僕は先程の楓の一言が頭に引っかかっていた。
楓に聞こうにも、彼女は今日も往診に出かけて、午後は留守だ。
そのとき背後でドサッと何かが落ちた音がして、反射的に僕は振り返った。
洗い立ての洗濯物、詳しく言うと、一部にカレーの染みついた誰かさんの白衣やシャツやタオルなどを床にぶちまけ、血の気のない表情をしたネズミが、呆然と突っ立っていた。
「ど、どうしたの、ネズミ!?」
「中村様が、ご家族に対して暴力を振るう方だったなんて……!
そして奥様が、夫を殺そうと、密かに企むような方だったなんて……!」
彼女は僕の言葉が耳に届いているのかいないのか、凍り付いたような顔で、微動だにせず表の方を凝視している。
天使のように見える白い服が、幽鬼の如き相貌と相まって、まるで死者の衣のように雰囲気を一変し、外からの寒風にはためいている。
僕は猛烈に悪い予感に襲われた。昨晩急に恐慌状態に陥り、いきなり矢田に注射したときのことが脳裏をよぎる。
「で、でも中村氏が奥さんに手を上げたのは、酔っぱらったときの一回だけっぽいじゃないですか。その奥さんの殺意にしたって、あれは所謂『未必の故意』ってやつで、運が悪ければ、いや、良ければ死んでくれたか、もしくは大怪我をしたかもしれないって程度の軽いものだと思いますよ。それに、いずれにせよ、もう解決したことですし……」
と、なんとかフォローを試みるも、彼女はすっかりうわの空で、心ここに在らず、「嫌……嫌……」とうわ言のように繰り返していた。
普段はくりくりとよく動く大きな瞳は焦点を失い、いつもの可憐な笑顔は欠片もなく、漆黒の深淵を覗き込んだような恐怖におののいている。
どうやら先程の中村家の一件の何かが彼女の琴線に触れ、心の奥底に封印された扉をこじ開けてしまったのかもしれない。
僕はそれ以上どうすることも出来ず、せめて今出来ることをしようと、床に転がった白衣を口に咥え、ずりずり引きずっていこうとした。
「ネズミ先輩にソーセージはん、そげなとこでどーしたっちゃ?」
廊下の向こうから気の抜けた声がする。
(相変わらず空気を読めない奴だな)とうんざり顔で声の方角を見るともなしに見やると、予想通り、空気をまったく読めない男が、ペットボトルタイプの点滴瓶を数本右手にぶら下げ、サザエさんの三河屋さんのごとくこちらに向かってくる。おそらくさっき使わなかった分を薬剤庫に返しに行く途中だろう。
「お……お父さん!? 嫌あああぁあぁぁあああああ!」
突然ネズミがあらんかぎりの大声を上げたかと思うと、西部劇の早打ちガンマンのごとく、エプロンの前ポケットから注射器を抜き取り、肉食獣のように目を光らせて矢田に襲いかかった!
「の、のわわわわっ!?」
慌てふためき点滴瓶をごろごろ取り落とすも、彼は空いた両手で眼前に迫る白い悪魔の両手首を掴んだ。
間一髪、注射器の針は、標的を見失って宙に漂い、先端から精神を蕩けさせる甘露を滴らせる。
「お父さん、消えてーっ! 来ないでーっ! うおおおおおおおおおおおーっ!」
「ど、どないしたが!? ちゃんとしられ!」
普段は余裕ぶっこいている矢田が、さすがに必死の形相でネズミに問いただすも、彼女はもはや完全に理性を失い、獣の如き咆哮を発するのみで、文字通り話にならない。
「誰か来てくれーっ!」と遅ればせながら僕も叫ぶも、難聴集団はこういうときにはまったく役に立たないようで、近くの部屋からも物音一つしない。
まあ、もっともお年寄りに出てきてもらっても困るが。それに今は、ちょうど魔の時間帯、黄昏時……ん?
「ネズ公、ひょっとして……見えてるのか?」
錯綜した思考の海に落ちた一粒の水滴のように、楓の声が、リフレインする。
そして、「私は実は病気持ちなんで、楓様に診ていただいているんですよ!」という、元気のいいネズミの姿までフラッシュバックしてきた。
幻覚なのか……ならば統合失調症? いや……
「ん!?」
突然、とある信じ難い結論に僕は達した。




