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第三十一話 秋の夜長 その1

 季節は静かに移ろいゆき、秋の色が深まっていった。


 あたしたちの真夜中の勉強会と、日中の解剖実習は、どちらも月と太陽の動きのようにゆっくりと、だが確実に進行していった。


 解剖実習室の血と脂肪と汚物の臭いが染み込んだ空気も、微妙に湿度が下がり、秋の訪れを感じさせる。


 ディーは、やっと腹を縫われたものの、片足の足底の腱を剥き出しにされ、やや歩行困難になってびっこを引いていた。


 あたしの方は、今度は左上肢の筋肉の解剖に移り、おかげで現在左腕が使えず、不自由なことこの上なかった。


 というわけで、今日はロッカールームに行かず、台の上でお話しタイムとなった。


 ディーの下世話な噂話によると、例のドーテーくんは、その後、憐憫の情にほだされた同じ班の仲間に、怪しげなソーロー改善薬とやらを貰い、飲み始めたとのことで、最近やけに表情が明るくなって、弱気な態度も変わり、自信に満ち溢れた言動が増えてきたそうだ。


 このままだと非ドーテーくんにクラスチェンジするのも時間の問題だとか。


「薬って凄いよねー。ちょっと飲んだだけで人間を劇的に変えてしまうなんて。


 ま、ボクたちの血液中にもこいつが入っているわけだけどさ」


 ディーはそう言って点滴棒をぶらぶらと揺らす。


 いつも夜はステンレスの台からこれを引っこ抜いて移動しているので、片腕しか使えない今のあたしにとっては、とても邪魔っけだ。


「ねぇ、ディーって解剖中もフツーに感情があるんでしょ? 怖くないの?」


 あたしは点滴棒を突き上げて「うーらうらうらうら、べっかんこー!」と喚いているディーに、それとなく聞いてみる。


 あたしもディーに一回ぐらい感情ボタンをオンにして、こっそりやってみるよう勧められたけど、恐ろしくてとても出来なかったのに。


 ちなみに今夜は、少し過ごしやすくなってきたので、腕は痛むけど、温痛覚をオンにしてみている。いつもオフだと、なんだか生きている実感がしないのだ。


「まー、そりゃ最初はとても怖かったし、わけわかんなかったよ。


 ぐいぐい自分の身体にメスを入れられ、ジッパーみたいにぱっくり開かれちゃうしね。


 たぶん手術を麻酔なしでやるっていうのはこういう気分なんだろうなって思ったよ。


 でも温痛覚の方は運良く切れたままだったし、慣れるとまわりの会話が気になって、知的好奇心の方が疼きだし、それほど苦にならなくなったんだ。


 それに、こうして毎晩ケイに話してあげられるネタも提供して貰えるしね」


「そ、そんな……」


 あたしは何故か頬を赤らめてしまった。


 まったくこやつめ、人をいい気持にさせるのがうまい。天性の小悪魔だ。


 気恥ずかしくなったあたしは、なんとはなしに、実習室の窓の外を眺めやった。


 今宵の月は下弦で、暗い海面には以前のような漁火の群れも見えなかったが、海沿いを走る車のライトが淡く輝き、尾を引きながら遠くへ消えていく。


 過ぎ去った夏を惜しむかのように、鈴のように鳴く虫の声に混じって、遠くでロケット花火の上がる音と、子供たちの歓声が聞こえてきた。


 あたしはちょっとメランコリーな気分になってきた。


「もうすっかり秋だねぇ……」


 ディーがまるであたしの心の中を読んだかのように、物憂げな表情を浮かべる。


 さっきまでアゲアゲ状態だったとはとても思えない豹変ぶりだ。


 この感情の起伏が、あたしにはとてもうらやましいけれど。


「秋が過ぎて、冬が来ても、あたしたちってこのままなのかな……」


 あまり考えまいとしていた先のことを、つい言葉にして言ってしまう。


 はっとして口に手を当てるも、時すでに遅しだったが、ディーはあまり気にせず答えてくれた。


「壁に貼ってある予定表を見ると、解剖実習はどうも秋いっぱいで終わるようだね。だからここにいられるのは十一月までだと思うよ」


「そ、そう……」


 壁に目をやると、確かに薄汚れた紙が貼ってある。


 ディーはこういう細かいところによく目が行き届く。これも見習いたい点の一つだ。


「それまでに……なんとかしなきゃね。なるべく早く!」


 あたしは自由に動く右手をぎゅっと握りしめ、決意を新たにする。


 そうだ、それまでにあたしたちはムラージュの説明書を手に入れ、首のチップの取り外し方を調べ、そのうえでここから脱走しなければならない。


 脱走自体は、ここの窓から飛び降りれば、ちょっと怪我をするかもしれないけどなんとか可能なはずだが、このチップがある限り、ディーはともかくあたしはボタン一つでダウンしてしまう。


「こいつは厄介で、ドーテーくんがボクにメスを突き立てたとき言ってたけど、肉と神経に食い込んでいるため、厳密な手順を踏んで取り外さないと、後に重篤な後遺症が残るらしいんだよ。だからこそ説明書が必要なんだ」と、以前ディーが語っていた。


「でもそれなら、自分だけでも逃げればいいのに……」と言うあたしに、ディーは「ボクのチップだっていつどうなるか分からないし、とっとと除去したいんだよ。それに、外の世界はここ以上に危険なところでもあるんだ。とてもひとりじゃ生きていけないよ。なんてったって……ボクはケイと一緒に逃げたいの!」と、またまた歯の浮くような台詞を言ってくれた。


 そんな記憶にしみじみと浸っていたあたしに、「でもボクの足は、今こんな状態だから、すぐには抜け出せないよ。いくら傷の治りが早いからって、最低数日はかかるだろうねー」と、天使な小生意気さんは、血まみれの右足の裏をあたしに見せつける。


「確かにそうね……」


 あたしも認めざるを得なかった。


 ここは焦ってもしょうがない。どっしりかまえて取り組んだ方が、効率もいいかもしれない。


「ま、たまにはこういうのんきな時間もいいよね。風流ってやつかな?


 今日ぐらいは勉強をお休みして、心行くまでおしゃべりしようよ」


 ディーが海底の人魚みたいなきれいな顔を輝かせ、あたしの対面になるよう台をすりよってくる。


 足を怪我した人魚姫。真珠のような肌は引き裂かれても美しく、むしろ血の赤と綺麗なコントラストを描き、この世のものとは思えない凄艶さを誇っていた。


 あたしが男なら、迷わず押し倒していただろう。


「でも勉強っていえば、あの白衣の連中も大変よね。明日は実習の諮問があるって書いてあるね」


 変なことを考えそうになったあたしは、頭を冷やすため、ディーの方からさっきの壁に貼られた紙に視線を移し、話題にした。

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