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第二十二話 マダム

「吉村健作さんのご病名は、アルツハイマー型認知症でしたか?」


「えーっと、よう分からんけど、確かそんな名前でしたわ」


 老婆はくしゅんとくしゃみを混ぜつつ、そう答えた。確かに今日も一段と良く冷える。


 この古い建物は、いくらエアコンをガンガン付けようが、寒いときは寒いのだ。


「それで、徘徊、多動、夜間せん妄が出現したため、最初にアルツハイマーの特効薬のドネペジルを増量するも改善せず、抗不安薬のクロチアゼパムを使ってみるも、屁のツッパリで、遂にはハロペリドールに手を出したのはまあしょうがないが、ついでにビペリデンまで使用しちゃったってわけか……大馬鹿者が」


 彼女は誰に言うともなしに、一気にまくしたてると、フーッと息を吐き、遠い目をした。僕には彼女の気持ちがありありと伝わってきた。


 おそらく彼女は今すぐにでも、この香坂内科クリニックとやらに殴り込みに行きたい衝動を必死に抑えているのだろう。


 外の雪さえも溶かしかねない灼熱のブレスをもう一度肺から吐くと、彼女はにっこりと慈悲の笑みでもって老婆に語りかけた。


「奥さん、まずお薬を全面的に変更する必要がある。これじゃ治らないわけだ」


「えっ、そうなんですか?」


「はい。旦那さんの症状は、認知症に伴うせん妄と呼ばれるもので、一時的に意識レベルが低下するものだ。


 急に何が何だか分からなくなって、眠れなくなったり、幻覚を見たり、興奮したりするが、後から聞いてもその時のことは覚えていないことがほとんどで、適切な治療によって改善させることが可能だ」


 口調はそっけなくとも、いつもより丁寧で、柔らかめの患者向けの対応をする楓は、それなりに受けはいい。


 老婆は先程の焦燥感溢れる態度はどこへやら、すっかり落ち着いて聞き入っている。


「また、せん妄を起こしたり、悪化させたりする原因はいろいろある。


 脳血管障害などの脳疾患や、肺炎などの感染症、手術の後、集中治療室への入院によるものなど、様々だが、なかに、薬物によって引き起こされる場合もある」


「ありゃー、そりゃ知らんかったわ」


「ま、そうだろうな。医者でも知らない人は結構多いから。


 例えば睡眠薬や抗不安薬などによく用いられるベンゾジアゼピン系薬物や、鎮痛薬のオピオイド、H2受容体拮抗薬、そしてパーキンソン病治療薬などは、一般的な成人にはよく効くが、身体の弱っているお年寄りが飲むと、かえってせん妄を引き起こし、不眠や不穏状態になる場合がある」


「まー、おっとろしいもんやねー」


 しわがれ声で、しきりに感心するムラサキ婆。置物と化して微動だにしていない僕も、つられて感嘆の声を上げたくなってきた。よくもこうさらさらと説明できるもんだ。


 たぶん、香坂先生とやらは、ご年配の先生なんだろう。処方のセンスが明らかに古い。


 そして薬の意味を分かっていないし、せん妄対策も中途半端で、むしろ悪化させている。


 別段本人に恨みはないが、これは明らかなる薬の選択ミスだ。


 早めに精神科にでも受診させればよかったのに、試行錯誤のし過ぎでかえってぐちゃぐちゃになり、分からなくなってしまったのだろう。


 人に頼ることは、老医のプライドが許さなかったのだろうか?


「で、旦那さんのお薬だが、まずクロチアゼパムはベンゾジアゼピン系の抗不安薬なので、中止しよう。


 次に、ビペリデンもパーキンソン病治療薬であり、悪化の原因なのでやめた方がいい。


 このビペリデンが何故入っていたのかと言うと、ハロペリドールの副作用である錐体外路症状と言うものを予防するためだったんだろう。


 ハロペリドールは確かにせん妄治療に使われてきたが、何分古い一世代前の薬で、副作用も強く、転倒の原因にもなりかねない。


 最近よく転びやすくなったと言われたが、この薬を飲み始めてからではないかな、奥さん?」


「えーっと、よー分からんけど、ほーいやほーやったかもね」


「では、それも飲まないで頂きたい。旦那さんは糖尿病はないね?


 では、代わりにこちらから、クエチアピンというお薬を出そう。先程のハロペリドールを第一世代としたら、これは第二世代のお薬で、副作用も少ない。


 ただし、喉が渇いたり、食欲が出過ぎることがあるので、そこは気を付けて頂きたい」


「食欲やったらあまりなかったから、ちょうどえーですわ」


「あと、ついでだから言っておくが、一番最初に増やされたドネペジルというお薬は、確かに認知症のお薬だが、これは別に認知症を改善させるわけではなく、進行をゆっくりにするだけと言われる。


 もちろんせん妄を治すわけではない。だからこれだけは飲まれても結構だが、そこのところをお忘れなきよう」


「はぁー、そげなもんですかね」


「じゃあ今、お薬を用意するので、少々お待ち願いたい。あっ、香坂先生とやらには、内緒にしておいてね」


 というわけで、大鉈を振るって処方の大改造を行った楓は、さらさらっと処方箋に記入してポンッと印鑑を押すと、備え付けのベルをリンリーンと鳴らした。ネズミ専用の呼び出しベルだ。


「まいどはや~」


 しかしやってきたのはもじゃもじゃ頭だったので、楓の営業スマイルに罅が入った。


「何故貴様が来る!?」


「ネズミ先輩は只今高橋さんが床にこいたしょんしょんを拭いとってぇ、手がふさがっとるんですよ。そいでおわが代わりに行ってこいって……」


「ネズミ先輩言うな! つまりまたあの人床に放尿したのか? やれやれ……」


 楓が鬼の皺を額に出現させるなか、ムラサキのバラじゃなかった婆は、突如乱入してきた若者に興味津々なご様子で、眠れるハズバンドを放置して語りかけた。


「あらー、おにーさん、えー男やねー」


「光栄です、マダム」


 誰だよお前は! 


「そんな、マダムやなんて……いやー、恥ずかしいわー。


 こんな梅干し婆におべっか使っても何も出んよ」


「いえいえ、本当にお美しい。旦那さんさえいなければ、あなたに耳元でジュテームと囁くことが出来たのに……」


「んまー、いやだよ、この人は! 聞いたかい、あんた!」


「んあー? わしゃ田植えに行かんといかんのやが……」


 睡眠中の吉村さんまで巻き込んで、最早収拾がつかなくなってきた一同を、僕はあっけにとられて見詰めていた。あの男、標準語が喋れたのか!


「おい矢田ぁ! これをやるから、ネズミの代わりなら、とっととお前が二階の薬剤庫に行って薬を持ってこい!」


 ついに堪忍袋の緒が切れた楓が、患者の前にもかかわらず、憤怒の表情で処方箋を彼に叩きつける。


「で、ですけど薬の置き場所がよく分からないんですが……」


 老婆の手を握っているためか、標準語のままの矢田に対して、なんと楓は僕を持ち上げ、力の限り投げつけた!


「じゃあこいつもやるから教えてもらえ! 40秒以内で支度しろ!」


「わ……わーった! いっちゃ!」


 辛うじて老婆の手を離し、僕を抱きとめた矢田は、一目散に診察室を飛び出すと、全速力で階段を駆け上がっていった。

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