第二十一話 白川夜船
「矢田さん、いつまで泊まっていかれるんですか? なるべく長くいてくれると、助かります!
ここって本当に人手が少なくて、いつも困っていたんですよ!」
「いやー、今それを所長さんに頼んでいたとこながやちゃー」
「……」
無表情の仮面様顔貌モードに移行していた楓だったが、何か考えているようだ。
ネズミは無口な彼女を見て、空気を読んだのかどうか知らないけど、再び土下座姿勢をとって、雇い主に深々と頭を下げた。
「楓様、私からもお願い致します! せめてもう少しだけ、彼を止めてあげてください!
きっとお役にたちますから!」
「……雪がおさまるまでだぞ」
彼女は誰の顔も見ずにそう告げると、居間を出て行こうとした。
「あっ、そうでした、楓様!
今、入所希望者がご家族とともに来られたんですが、いかがいたしましょう?」
「何、それを早く言え、バカ者!」
「も、申し訳ございません!」
土下座のまま凍り付くネズミ。どうも楓の機嫌の悪さは治っていないようだ。
「そもそもうちは今満員だぞ! ちゃんと伝えたのか!?」
「は、はい! でもなんだか具合が悪いから、せめて診るだけでもお願いしたいって言って帰られないんです!」
「そうか、仕方ないな……」
楓はすぅっと息を吸い込んでしばし目を閉じた。
あれは彼女が心を落ち着けるときの儀式だ。自分でも怒りっぽいことを自覚している彼女は、時々ああやって激情を抑え、飼い慣らしている。
さすが偽物と言っても医者の端くれ……なんて言いはしませんけどね。
「分かった。診察室に通せ」
彼女はそれだけ言うと、白衣の食べかすを払って、さっそうと廊下へ出て行った。
僕は嵐が過ぎ去ったのを感じ、脱力感に襲われる。
「何している、ソーセージ、お前もさっさとこい」
いきなり出て行ったと思った楓が逆走して僕の眼前に現れると、ぐいっと僕の首根っこ(?)をひっつかみ、ズルズル床を引きずっていく。
「ちょ、ちょっと、朝ご飯まだ途中なんですけど!?」
「つべこべ言うな。早く喰うぐらいはしろと言っとろーが」
ああ……なんかデジャブが……。
「せんせ、なんとかならんもんかねー」
紫色のオーバーコートを着た老婆は、さっきから何べんも同じセリフを繰り返していた。
「なんとかしてあげたいのは山々なんだが、今うちもいっぱいなんでね」
楓の方も、先程から同じことばかり言っている。
赤いちゃんちゃんこを着た、吉村という80歳の老人は、話の中心が自分だということを知ってか知らずか、というか明らかに分かってないが、診察室の椅子に座ったままうつらうつらと白川夜船だ。
ちなみに診察室は、机が一つに椅子が二つ、更にベッドが一台置いてある程度の簡素なつくりだ。昨晩矢田が泊っていたのもこの部屋だ。
老婆は椅子が足りないため、ベッドに腰をおろしながら、楓の言葉など意に介さず、喋り続けている。
「ひと月ほど前から、しょっちゅう家から飛び出しては、雪の中を出歩くし、危なくてしゃーないんですわ。
夜も寝ないで動き回ってうるさくてかなわんので、香坂先生んとこで丸―い白い玉のお薬を増やしてもろたんやけど、どんどんわるーなって治らんし、ほかのお薬ももろたんですわ。えーっと、黄色い玉やったっけな、あれ、赤かった?
ほんでも全然よーならんで最近よー転ぶし、わても疲れて困っとるんですわ。なんとかおいてもらえんでっしゃろか」
「お気持ちは分かるんだが……しかしよく寝ているな」
「夜は寝んくせに、昼間はぐーすか寝とるんですわ。ほんまにくたらしーわ。せんせ、このとーりや、頼んます」
「いえ、だから今も言った通り……」
延々とループを繰り返す不毛な会話の中で、僕はちょっと引っかかることがあった。
喉に刺さった棘よりもわずかだが、この状況を打開しうる鍵となりそうな、細い蜘蛛の糸が奥歯に絡みついたような、そんな感触だった。
タオルケットに包まり、診察室のクッションに擬態している僕は、楓にだけ届く衣擦れよりもささやかな小声で、そっと、「クスリ」と囁いた。
意を汲むことに長けている楓はすぐさま理解し、「ところでお薬手帳をお持ちだったら、ちょっと見せていただけないか?」と話題を変える。
「えーっと、ちょっと待ってつかぁさい」
コートと同じ紫色の頭をした老婆は、バッグよりも巨大ながま口をくぱぁっと開き、領収書やレシートや割引券の束の奥から、薄緑色の薄い手帳を取り出した。
「ちょっと拝見」と受け取った楓は、僕が見える位置まで手を下げて、ぱらぱらとめくってくれる。
ふむふむ。どうやらしょっちゅう出てくる香坂内科クリニックというのが、老婆の言っている香坂先生とやらだろう。
一か月前から徐々にドネペジルを増量した後、今度はクロチアゼパムを追加し、さらにハロペリドールとビペリデンを最近になって開始している。
「ふむ……」
楓の双眸が細められ、獲物を見つけた肉食獣のように鋭く輝いた。




