第二話 僕と楓 その1
-某国立大学附属病院ICU-
深夜でも煌々と蛍光灯に照らされた、新雪のように白い室内で、同じく真っ白な白衣に身を包んだ若い男性医師が、ベッドの間を歩き、患者の容態を見回っている。
不夜城と化したICUは静寂に満たされ、医師の革靴の立てる足音のみが、リノリウムの床にコツコツと木魂していた。
様々な機器から伸びた色とりどりのコードや点滴の管、酸素マスクなどが患者の身体に絡みついていわゆるスパゲッティシンドローム状態を形成し、あたかも特撮に出てくるサイボーグの内臓を思わせる。
「せ、先生、急患です!」
その静けさを破り、入口の自動ドアから、白いナースキャップを被った、20代と思しき女性看護師が吐き出された。
「どうしたんだい、安西君。君らしくもないじゃないか、そんなに慌てるなんて」
青年と言ってもいいくらいの若者医師は、年齢に似合わずやけに落ち着いて返事をする。
「51歳男性、飲み屋でアルコール摂取中に吐血し、意識消失状態で、現在救急車で当院搬送中です!」
やけに化粧の濃いその看護師は、一息つくと一気に捲し立てる。途端に余裕ぶっこいていた医師の顔色がサッと変わった。
「食道静脈瘤破裂か! 分かった、すぐ救急室へ向かう!」
医師は吐き捨てるように言うと、閉まりかけていた自動ドアに、飛び込んでいった……。
「どうして人間はこんなくだらないものに夢中になれるのかねぇ?」
楓は長い黒髪を左手でいじり、バナナ味のカロリーメイトをリスのようにポリポリと齧りながら、古いテレビに映った医療ドラマを評していた。
洗い立ての白衣の上に、食べかすがポロポロと零れ落ちるさまは、あまり衛生的に褒められたものではないと思うが。
「さぁ……一般の人から見たら、面白いんじゃないですか?」
僕はご飯を茶碗から犬食いし、みそ汁をすすって喉の奥に流し込みながら、極めて適当に答えた。
あまりドラマに興味はないし、医学に関するものは日常生活だけでおなかいっぱいだ。悪いけれど食事中まで見ることはないと思う。
「こんなあからさまに間違った作り物でもか?」
小さなメガネの奥で黒瞳を光らせ、彼女はフッと鼻で笑う。人形めいた整った顔立ちが、急に人間らしく目に映る。
彼女はオレンジ色のソファーの上で組んだ生足を、白蛇のようにぬるりと組み換え、丈の低いガラステーブルの上のコーヒーカップを手に取ると、喉が焼けつく程湯気を立てているコーヒーを一気飲みした。
僕たちが食事をしているこの居間には、冷蔵庫や食器棚、テーブルとソファーセット、それに黒いTVラックとテレビが設置されている。
建物自身が古い為、居間も年季が入った風情があるが、元洋館なだけあって、現代の家具や食器と妙にマッチしている。
もっとも、室内も多少は改装され、簡単なキッチンが隅に作られ、花柄模様の壁紙で装飾されている。
エアコンも一応付いているが、木造家屋の為、正直あまり役立っているとは言い難い。電気ストーブとかの方がいいんじゃないだろうか?
「えっ、どこが間違っていたんですか?」
「今時ナースキャップを被っている病院とは、どこの風俗店だ?
ナースキャップが院内感染の原因の一つだということくらい、常識の範疇だ。しかも私立病院ならまだしも、これは国立大学の附属病院という設定なんだろう? 有り得んぞ」
楓の指摘通り、画面には、水兵帽のように扇形に外に広がるナースキャップを被った看護師が、患者に何か話しかけている。頭の側の点滴に当たりそうで危なっかしい。
「ああやって医療器具に触れたりする可能性が高いし、夏場にはキャップの糊が、汗や皮脂に塗れ、細菌の温床にもなる。
このドラマはリアルな医療現場が売りだとか新聞には書いてあったが……」
このまま放っておくと、ネットに書き込んだり、投書しかねない勢いを感じたので、僕は心の中でため息をつきながらも、頭をめぐらした。
「エロ漫画におけるブルマみたいなもんですよ。所詮記号にすぎません。
ただでさえ視聴者は登場人物を覚えるのに忙しいのに、女性が皆白衣だけだったら、女医だか看護師だか検査技師だかなんだか分からないでしょう?」
「なるほど、一理あるな。メタな視点というやつか」
意外にも彼女は僕の意見に素直に納得した。やれやれ、これでやっと食事に集中できる。
「だが何故ICUで機械音が一つもしないんだ?
あそこは終始エラー音やメッセージ音が、夏場のセミよりもやかましく鳴り響いているものだぞ。
このドラマでは、患者は皆死んでいるのか、それとも機械が全て故障しているのか?」
食事再開をたちどころに邪魔された僕は、ついに切れてしまった。
「ずっとピーピー鳴ってたらうるさくて話に集中できないじゃないですか!」
「ふむ、そういう見方もあるのか」
再び頷く楓。どうもドラマに関しては、自分がよく分かっていないことを認めているようだ。
「中々お前はするどいじゃないか。いつも寝てばかりいるのに」
「いやまあ……極一般的な意見ですけどね」
いいかげん相手をするのも面倒になってきた。早く昼飯を終わらせて横になりたいのもあるけど。
だが彼女は僕の気持ちなど意に介さず、話を止めようとしない。
「しかしそれでも疑問は尽きないぞ。例えば白衣を着たまま病院の外や町中をうろつく医者がよく出てくるし、オペ室に入ってきた執刀医が、既に手術着をフル装備していたりする。
あれは手術直前に看護師が着せてくれるものだぞ。清潔を保つためにな。あいつら不潔の概念というものがないのか?」
「そもそもそんなに真面目に見る必要もないでしょう。
しょせん紛い物だからいいじゃないですか、適当で」
別に親しくもないドラマの中の人物を弁護するのにも飽きた僕は、思考回路をオフにして、超投げやりな返答をしてしまった。
「それは俺に対する当てつけか?」
急に楓の声音が絶対零度以下になり、周囲の空気がガラスのように凍り付く。
僕は一瞬にして周りの地面一帯が地雷原と化したのを実感し、鳥肌が立った。




