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第十九話 集魚灯

「この本によると、ムラージュっていうのはフランス語で、『型取り・成形』を意味する言葉から来ていて、その名の通り人体を石膏で型取りして蝋で複製したリアルな模型なんだって。


 昔、カラー写真がまだそんなにない頃、実際の患者の病態を学ぶ為、医学教材として使用されていたらしい。さっき入口の棚にあったいぼだらけの手がそれだよ」


 ディーは丁寧に説明してくれる。確かにそう言われてみれば、先程の腕はやけに光沢があったように思える。


「つまり、どういうこと?」


「分かんない。それを君と一緒に考えようと思って、ここに連れてきたんだよ」


 なかなかうれしいことを言ってくれる。でも……・。


「あたしみたいなバカには無理だよ。あんたみたいに賢くないから」


「そんなことないって!」


 急にディーが真顔になり、懐中電灯を放り出し、あたしの手をぎゅっと握る。


 つやつやと蝋よりも輝く滑らかな肌は、温痛覚を遮断されたあたしにすら、熱を感じさせるほど力が込められていた。


「君はどうやら気付いてなさそうだけど、実はボクたちは幼児の頃、出会っているんだ。


 その時ボクたちは2、3歳児ぐらいだったけど、檻のようなところに何十人も押し込められ、大きなディスプレイに教育を受けていた。


 君はボクの隣の檻で、同じように人込みに埋もれていた。皆あまり興味のなさそうな中で、君が一番積極的に画面を見つめ、問題や謎々に答えていた。


 その好奇心に満ち溢れた姿は、僕には強烈に目に焼き付いて、眩しく輝いていた。


 どうにかして近付きたい、友達になりたいと思っていたけれど、ボクたちの間には無情な鉄格子が立ち塞がり、幼子の非力な手にはいかんともしがたかった。


 その後の記憶はボクも曖昧なんだけど、解剖実習室で自由な意識と肉体を取り戻した時、偶然隣の台に君が横たわっていることに気付いたんだ。運命ってやつを感じたね。


 でも、その時はまだボクも、自分の置かれた状況やらなんやらがよく分かってなかったから、時間をかけて、君を目覚めさせる算段を整えたのさ」


「そんなことがあったの? まったく覚えていない……」


 本当だった。あたしは夢うつつでステンレスの台に転がっている前のことを、何一つ覚えていなかった。


 その割には少しは物を知っていることを、自分でも驚いていたが、そんな教育を受けていたとは知らなかった。


「たぶん記憶を操作され、古い出来事記憶は残っていないのかもしれないね」


 ディーは痛ましそうにあたしを見詰めたが、すぐに笑顔を取り戻すと、「でも本当に会えてよかった!」と点滴棒を脇に立て掛けると、あたしに抱きついてきた。


「ちょ、ちょっと、内臓が当たってる!」


 こんなところでモツが潰れて死なれても困るので、力の限り引き剥がす。


 まったく、子猫みたいな女の子だ。そのくせ喋り方が男の子みたいなところもアンバランスで可笑しい。


「ちぇっ」


 彼女はペロッと小さな舌を出すと、ぴょんとジャンプしてあたしから離れる。


「ま、夜は長いんだ。一緒に考えようよ。ほら、ここから海が見えるよ」


 ぺろっと悪戯っ子が女教師のスカートをめくるように、ディーは厚いカーテンをまくり上げる。


 満月の下でわさわさとざわめく、墨汁を溶かし込んだような夜の海に、蛍火のような光が、所々に戯れ、ちかちかと瞬いていた。


「きれい……」


 喪服に宝石箱をぶちまけたような光景に、あたしはおぞましい標本たちに囲まれていることも忘れて、恋する乙女のようにうっとりと眺めてしまった。


「イカ釣り漁船だよ。ああやってイカを集めるんだねぇ。夏だねぇ」


 楽しそうに海を指さし解説するディーは、性懲りもなくまたあたしにすり寄ってきて、あたしの横顔に、熱い視線を送ってきた。


「ボクねぇ、ずっと一人で過ごしてきたから、とても寂しかったんだ。誰かとこんなに話をしたのなんて、正直生まれて初めてだよ。お願い、友達になって!」


 あたしの心臓が、蘇生のカウンターショックを受けたようにドクンと跳ね上がる。


 彼女の蠱惑的な緑の双眸に射すくめられたあたしは、最早集魚灯に騙されて網に絡められたイカも同然だった。


 こんな目で頼まれちゃぁ、断る方法なんて思いつかない。それに彼女のアクティブな姿に魅力を感じていたのも確かだ。あたしは根負けして最高級の笑みを浮かべた。


「分かった。友達になったげる。共に学び、語り、考え、あたしたちの存在意義を探りましょう。そして、あたしにいろいろこの世界のことを教えてちょうだいね」


「おお、それでこそ我が最愛の友!」


 やけに芝居がかった台詞で、彼女は祈りのポーズを取る。


 あたしは笑みを苦笑いに変えると、さっきのおかえしとばかり、彼女の綺麗な金髪を、軽くクシャクシャと撫でた。


「ま、よろしくね、相棒」


 あたしたち二人は月明かりの下、物言わぬ人体と本の中心で、固い友情の握手を交わした。


 たとえこの手がなくなったとしても忘れないくらいに強く、ぎゅっと。

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