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第十六話 注射器

「だ、誰だよ、こんな夜更けに……」


「んー? ありゃネズ公しかおらんだろ。2階には他に誰も寝泊まりしていないからな」


 ガコンガコンと何かをところどころぶつけるような金属音とともに、足音はドタドタと廊下を抜けて玄関へと向かい、ガチャッという鍵を開ける物音とともに、急に静かになった。と同時に室内に冷気が流れ込んできたように感じるのは、僕の気のせいではないだろう。


「あのバカ、ドアを開けっ放しで出て行ったな。まったく凍死させる気か?」


 昼間の自分のことは棚に上げ、楓がぶつくさ言いながら、電気カーペットからゆっくりと起き上がる。


「何かぶつける音がしたし、たぶん外に物を運んで行ったんじゃないですか?


 だから手が使えなくて、ドアが閉めれないんですよ」


「ああ、そういや明日は朝、医療廃棄物を業者が取りに来るんだったっけ。


 あいつ、今頃になって思い出したんだな。ほんとにど忘れが多い奴だ」


 楓がポンと両手を打つ。納得したときに本当にそんなことする人を、僕は初めて見た。


 この人、あまりドラマのことは言えないんじゃないかと思う。


「何はともあれこのままじゃ家の中で八甲田山みたいなことになるし、閉めてくるとするか。お前はそこで寝ていろよ」


「ええ、夜の廊下はちょっと僕も這いずりたくないんで、ありがたくお待ちしております」


 そのままひらひらと片手を振って、寝間着姿の楓は、淡いオレンジ色の常夜灯に照らされた廊下に出て行った。僕は再びまどろむ作業に邁進する。


 ただしさっき怖い話を聞いたせいで、頭から流血した猿やら、出刃包丁を握りしめた(どうやってかは謎)赤ソーセージの幻影が浮かんでは消えていき、再び遥かなるドリームランドに辿り着くには困難を極めた。


「うぎゃぎゃーっ!」


 突如外から響いた甲高い悲鳴に、僕の朦朧状態は完全に中断された。もうとても安眠できそうにない。


 しぶしぶタオルケットをかけたまま、僕も廊下の方ににじり寄る。しかし一体何があったというんだ? 


 声はどう聞いてもネズミのものだったが、庭で危険なことが起こったとはちょっと考えにくい。


 こんな雪の降る夜に、外を不審者が徘徊しているとは思えないし、いくら町外れとはいえ、クマなどの野生動物が降りてくるほどの田舎でも、一応、ない。


 きっと野良猫の類に驚いて足を滑らせたとかが関の山なんじゃないか?


 と思う間もなく、開けっぴろげたドアから、粉雪と共にネズミが転がり込んできた。


 勢い余って傘立てをなぎ倒しながら突進すると、玄関先でブーツを履きかけていた楓に、ウイグル獄長の蒙古覇極道の体勢で激突し、廊下の隅にいた僕の方まですっ飛んできた。


「ぎょええええ!」


 楓のブーツの先で蹴り飛ばされた僕は、盛大に宙を舞い、まさにフライング・ソーセージとなって、ネズミの背中にダイブした。


「うぼぁっ!」


 ベキッという破壊音とともに落下した僕は、人間クッションのおかげでダメージを軽減することが出来たが、腹の下は阿鼻叫喚の地獄絵図と化し、死山血河が築かれていた。


「こ……殺す気か、ネズ公……」


 楓の血を吐く様なうめき声が、僕のお尻の下から響いてくる。


「すすすすすすいませんですがへへへへへへ変態がろろろろろろ老女をねねねねねね眠っていたんです!」


「うろたえるな小ネズミーっ!」


 楓が両腕を天に向かって突きあげると、僕とネズミは跳ね除けられ、彼女は服や長髪にまとわりついた雪をぱぱっと払うと、どっこいしょっと立ち上がった。


「主語と述語を正しく使って400字以内に簡潔にまとめて説明しろ」


「は……はひっ! ええっとですね、最初から申しますと、先程床に就こうとした私は、明日ゴミの日であることを突如思い出して、急遽医療ゴミをアルミ缶につめて、納屋に向かったんです!」


「うん、そこは分かっているから次へ」


「そ,そうですか! それで私はしんしんと粉雪が深海のマリンスノーのように降りしきる中、アルミ缶を納屋の前に置いて、戸をそっと開けました!」


 ちなみに納屋の中は、ゴミや掃除道具やクリーニングに出す汚れたシーツなどしか置いてないので、戸には特に鍵をかけてない。


「ふむ、それで?」


「すると何か気味の悪いくぐもった声が聞こえてきたのです! 最初は風の音かと思いましたが、雪は降れども風はそよりとも吹いておらず、しかも明らかに納屋の中から響いてきました!」


「なるほど、で?」


「そこで私は、常備しているハロペリドール注射液5mgの入った注射器を握りしめると、戸の隙間から、そーっと中を視姦……じゃなかった覗き込みました!」


「「なんで常備してるんだよ!?」」


 思わず楓と一緒にハモってしまった。うわ、恥ずかしい。


「なんでって、筋注用に決まっているじゃないですか!」


「どうでもいいけど後62文字で400字だぞ」


「えっ、い、意外と早いですね。で、納屋を見ますと、暗がりの中に、シーツの山に埋まって、髪や髭がボサボサの男が安らかに眠っていたんです! 


 で、彼が寝言で『ああ……やっぱり老婆の匂いは最高だちゃ……』とほざいていたんです!」


「47文字オーバーだが、焼き土下座の刑で許してやろう。しかしその男は何者だ? 老婆の匂いフェチか?」


「さあ、初めて見る顔で、まったく知りません!


 でも、私、暴れるお年寄りなら対処できますけど、ああいう変態男だけは駄目なんです!


 楓様、あいつが眠っているうちに、早く納屋に火をかけましょう!」


「お前は張飛か! うろたえるなと言っただろう!


 とにかくとっとと起こして穏便にご退散願うか。


 あいにくうちは警察とは仲良くないので、呼びたくても呼べないしな」


「えっ、しばらくは目覚めないと思いますよ。私、さっき恐怖のあまり、彼に筋注してしまいましたから」


「「注射しちゃったのかよ!」」


 再びハモる僕ら二人。いくらなんでもまずいだろう、それは!


 ちなみに犯罪です。

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