第十四話 彷徨えるハイジ
ここで働き出して、人間というものはいくつになっても他人とのスキンシップを求めるものであることがよくわかった。
老人たちは、皆僕の身体を愛おしく撫でさすり、時には抱きついてくる者もいた。
僕も最初のうちはかなり抵抗があったが、僕を触っているうちに幼子のような笑顔を浮かべ、安らいでいる老人達を見るたびに、これも人助けかなと思うようになった。
ただ中村さんのようにしつこい人は、やっぱり苦手だったが。
しかし、人の役に立っているという実感は正直しない。食事は上げ膳据え膳だし、力仕事の一つも出来ず、老人の話し相手ぐらいでは、どう見ても割に合わず、タダ飯ぐらいの居候という感がぬぐえない。
楓のお情けでおいて貰えているんじゃないかと、つい悩んでしまう。
他にも何かしなきゃいけないんじゃないかという、頭を掻き毟りたいほどの焦燥感に苛まれることもあるが、両手がないのでそれすら出来ない。とほほ。
それにしても、どうしてあの時僕は浜辺なんかにいたんだろう?
何か大事なことのためにいたような気がするんだが、記憶は深い霧に閉ざされた山のように、捜索隊の侵入を頑なに拒んでいる。
そこには見てはいけない何かが隠されているような、例えばどこぞの創作神話に出てくる太古の邪神の姿をチラ見した愚か者の末路の如く、知ってしまうと一生狂気に侵されるような、そんな理不尽な恐怖が足元から這い上がってくる感覚に襲われ(足は無いけど)、僕は電気毛布の上で身を縮こまらせた。
それにしてもさっきから全然眠れそうにない。まったくひどい入眠困難で、つい不眠持薬を処方してもらいたくなってくる。
えーっと、こんなときは素数を数えればいいんだっけ?
「1、2、3……あれっ、1って素数だっけ?」
僕が素数の定義を思い出そうと記憶のがらくた箱をひっくり返していると、誰かが廊下を歩くひたひたという足音に続いて、カチャッという、居間のドアを開けるかすかな物音が、雷鳴のように大きく室内に響いた。
「!?」
僕は焼きあがって今にもはじけ飛びそうに折れ曲がったソーセージのポーズのまま、かちんこちんに固まった。
こんな時間に居間に入ってくる人は、夜中に徘徊して冷蔵庫をあさりに来る、入所者の木村タエさん(86歳)か、もしくは中途覚醒して、寝ぼけてトイレと間違えて放尿しに来た入所者の高橋権造さん(74歳)か、もしくは……。
ふらふらと入ってきたその人物は、冬物の花柄ポリエステル製パジャマの上に、白いカーディガンをふわりと羽織り、夢遊病でゼーゼマン家を彷徨うハイジを彷彿とさせる。
後ろ手にカチャリとドアを閉めると、室内の電気も付けずにまっすぐ僕の寝所の電気カーペットにすたすたと歩み寄ると、そのままごろんと僕の隣に寝転がった。
長い黒髪とともに、甘い花のような香りが、僕のありもしない幻想の鼻の奥をくすぐる。そういえば僕はどうやって匂いを嗅いでいるんだろう? 謎だ。
「……ソーセージ、起きているか?」
侵入者は、昼間とは異なった、女の子らしいガラス細工のようなか細い声で、そっと僕に囁きかけた。
僕はすかさず、「くかーっ、くかーっ」と鼾をかく真似をする。
いわゆる狸寝入りってやつだ。そうでもしないと緊張して、何を口走ってしまうか、とても分かったものじゃない。
「くふっ」
その人物……つまり楓荘の女主人にして独裁者たる我らが盟主、楓嬢は、くしゃみでもするように可愛く噴き出すと、いきなりぎゅっと僕に抱きついてきた。
つまりは抱き枕状態ってやつですね、主に僕が。
「か、風邪を引きますよ! ちゃんと布団で寝て下さい、楓!」
全身がタコさん用のウインナーソーセージ並みに真っ赤に染まった僕は、我慢できずに叫んでしまった。まったく、とんだスヤスヤ詐欺だ。
「寝たふりなんかしているお前が悪いんだぞっ」
楓は僕の言うことなんかこれっぽっちも聞かずに、更に両手に力をこめる。
昼間の中村さんの皺だらけの手とは違う、柔らかなすべすべの肌。小さな、子供のように繊細な手のひら。
「ソーセージは、本っ当にすべすべだなぁ……」
「……楓も、ですよ」
僕は既に逃げ出すのを諦め、彼女のするがままに任せていた。
溶け合うような心地よいスキンシップの中で、彼女の思いまで伝わってくる気がする。
彼女は泣いていた。
何故だろう、楓は時々こうやって、夜更けに僕の元を訪れ、涙を流しながら抱き締めることがある。
僕はとても理由を聞くことは出来なかったが、彼女の深い悲しみや絶望、焦燥感、そして愛情を肌越しに感じ取ることが出来た。
彼女は何か秘密を隠している。時々その重さに耐えられなくなり、僕に「癒され」にくるのだろう。要するに、ここの利用者の老人達と同じことだ。
僕は黙ってマリア様のようにそれを受け入れてやることしかできない。でもそれで彼女が救われるのなら、僕はそれでもいいかなと思う。
きっといつか、楓自身が決心したら、その秘密を喋ってくれるかもしれない。その日まで、僕は彼女の抱き枕になろう。それが僕を夜の浜辺で拾ってくれた、彼女への最大の恩返しだから。
「……ありがとう、少し落ち着いたよ」
暗がりの中で、やや湿っぽい声がする。ずずっと鼻をすする音がそれに続く。
「どうして老人ホームなんかをしようと思ったんですか?」
僕は彼女の心の痛みをどう和らげてあげればいいのか分からなかったから、なんとなく質問してみた。
「国が救ってくれない者を救うためさ」
彼女は寒空に輝く孤高の星の如く、迷いなく答えた。




